à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

精神分析におけるパロールとランガージュの機能と領野(ローマ講演)

Fonction et champ de la parole et du langage en psychanalyse



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(……)

I、主体の精神分析的現勢化[realisation]*1における空虚なパロール[parole vide]と充溢したパロール[parole pleine]

 ―― Donne en ma bouche parole vraie et estable et fay de moy langue caulte (L'Internele consolacion, XLVe Chapitre : qu'on ne doit pas chascun croire et du legier trebuchement de paroles).


 ―― Cause toujours. (Devise de la pensee ≪ causaliste ≫.)


 精神分析はたった一つの媒介[medium]しか持っていません。すなわち患者のパロールです。たとえ精神分析が治療や教育や深度調査の実行者[agent]であろうとしても、そうなのです。この事実の明白さは、この事実を無視してしまう口実を与えてはくれません。さて、すべてのパロールは返答[reponse]を求めて呼びかけられる[appel]ものです。

 私は、返答を持たないパロールは存在しないということをこれから示そうと思っています。たとえパロールが沈黙にしか出会わないとしても〔返答を得られないとしても〕、パロールの聞き手が存在する限り、返答を持たないパロールは存在しないのです。そして、このことこそ分析におけるパロールの機能の核心なのです。

 しかし、精神分析家がパロールはこのように機能しているのだということに気づいていないならば、分析家はその〔パロールの〕呼びかけをより一層つよく受けることになります。また、分析において最初に聞かされるものが空虚さであるならば、分析家は自分自身でそれを感じ、空虚さを埋めるためにパロールの向こう側にリアリティ[realite]を探してしまうことになります。

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 こうして分析家は主体*2が言わないことを見つけ出すために、主体の行動を分析するように導かれます。しかし、主体が言わぬこと〔=主体の行動の分析の結果、分析家が推測したこと〕を主体に認めてもらうために、分析家はそれについて話さなければならないということは明らかなことです。このようにして分析家は再び話すことになりますが、分析家自身の無の反響した知覚に直面して、いまや分析家のパロールは分析家の沈黙の失敗への返答に過ぎないために、疑わしいものになっています。

 しかし、実際、主体は分析家の言葉[dire]の空虚さの向こう側に何を呼びかけていたのでしょうか? それはそのまさに中心にある真理[verite]への呼びかけであり、その真理を通してもっとも目立たない諸欲求[besoins]の呼びかけが揺らめいているのです。しかし、そもそもの初めからその呼びかけは空虚さそれ自体*3の呼びかけでした。企てられた他者の誘惑の曖昧な裂け目[beance]のなかに、うぬぼれ[complaisance]を表明することを用いて、主体はそこに自らのナルシシズムのモニュメントをはめ込んでいるのです。

(……)

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(……)

 〔分析の〕理論は欲求不満[frustration]、攻撃性[agressivite]、退行[regression]という三つ組みの用語を思い起こさせてくれます。こういった〔用語による〕説明ははなはだ理解しやすいものに見えるために、私たちは〔この三つの用語を〕理解する努力を免除されたように思いがちです。勘[intuition]というのは、すばやいものですから〔そのように勘違いしてしまうのです〕。しかし、私たちは事柄が明白であり、すでに紋切り型[idee recue]*4になっているなら、なおさら疑い深くなるべきなのです。分析はそのような考え方の弱点をさらけだすことを認めるべきであり、情動性[affectivite]に頼ることで満足するべきではないのです。対話不能=弁証法不能を意味するこの「情動性」なる語はタブーであり、「知性化する」という動詞とともに(この語を受け入れることがこの対話不能を助長しており、軽蔑すべきことです)、〔精神分析の〕用語法[langue]の歴史のなかで、私たちが主体についてどれほど愚鈍であったかをしめす汚名のしるしとして残っています。*5

 むしろ私たちはこの欲求不満がどこからやってくるのかを問うてみるべきではないでしょうか。欲求不満は分析家の沈黙からやってくるのでしょうか? 主体の空虚なパロール[parole vide]に返答すること、とりわけその空虚なパロールに賛同するような返答をすることの方が、沈黙よりも〔主体を〕欲求不満にさせる効果を持つことはよく知られています。それはむしろ、主体のディスクールそのものに内在する欲求不満なのではないでしょうか? 主体は、ますます増加していく存在としての主体自身の喪失[depossession]に巻き込まれており、(……)*6

 現代の理論家たち*7はこの自我[ego]を欲求不満に耐える能力と定義していますが、この自我はまさにその本質において欲求不満なのです。*8〔自我とは、〕主体の欲望のうちの一つについての欲求不満なのではなく、そこにおいて主体の欲望が疎外される対象についての欲求不満です。そして、この対象が練り上げられていくほど、主体は自らの享楽からより深く疎外されるようになります。主体が欲求不満の形式を自らのディスクールにおいて、不動態化したイマージュ[l'image passivante]へと立ち戻らせたとしても(不動態化したイマージュによって、主体は鏡の前で自らを現し、自らを対象とするのです*9)、主体はひとひねりした欲求不満に満足することはおそらくできないでしょう。なぜなら、主体が鏡のイマージュに完璧すぎるほど似ることがたとえできたとしても、主体がそこに認めるのはそれでもなお他者の享楽だからです。この〔欲求不満の〕ディスクールにたいする適切な返答が存在しないのは何故かという理由がここにあります。主体は自らの勘違い[meprise]に引き入れられるパロールなら、どんなパロールでも軽蔑[mepris]と見なすのです。

 ここで主体が経験するであろう攻撃性は、欲望が欲求不満になったときの動物の攻撃性とは何の関係もありません。このように人間の攻撃性を動物の攻撃性へ照合することで満足してしまう方々もいますが、これはもう一つの考え、つまりすべての人々にとってもっと受け入れられがたい考えを覆い隠してしまいます。すなわち、奴隷のことを考えてみれば、自らの仕事に欲求不満である奴隷は、死を欲望することによってその欲求不満に返答するのです。

 主体のディスクールの想像的意図を暴き立てる[denoncant]ことによって、主体がその想像的意図を満足させるために構成した対象を分解してしまう[demonte]ような介入がありますが、そのような介入すべてに対して、この攻撃性がどのように返答することができるのかを理解することができるでしょう。これは実際、抵抗の分析と呼ばれているものであり、それゆえ、ただちに危険な側面が明らかになります。このことは、主体のファンタスムの攻撃的意味作用[signification]以外の攻撃的意味作用があらわれるのを見たことがないという世間知らず[naif]〔の分析家〕がいることによってすでに際立たされています。*10

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 この世間知らずの分析家は、主体の過去についての巧妙な説明によって現在時における主体を変える[transformer]ことを目的とする《因果論的》分析を弁護することをためらいません。そして、このような分析家は、患者の自由が分析家の介入をよりどころにしているという考えを持たねばならないということを免れようとする不安を、自らの口ぶりにおいてすら十分に裏切っているような分析家と同じです。このような分析家が身を投げた急場しのぎ〔の裏切り〕も、ときには主体にとって都合のいいものであるかもしれませんが、刺激的な冗談[plaisanterie]以上のものではありませんので、私たちはこれ以上気にとめることはいたしません。

 むしろ、「今ここで」[hic et nunc]に注目してみましょう。分析の操作をこの「今ここで」に限定するべきだと感じている分析家もいます。実際、そのようにすることも有用なのかもしれませんが、それは分析家が「今ここで」のなかに見出す想像的な意図が、「今ここで」が表現される象徴的関係から引き離されていない限りでのことです。「今ここで」のなかでは、主体の自我に関するものは何一つ読み取れるはずがありません。主体の自我は、《私》という形で、すなわち一人称の形で再び引き受けられえないものです。

 《私は、私が〔現在時制で〕ありうべきものになるために、〔過去時制で〕かくあったのだ。》 もしこれが主体による自らの幻影の受け入れの不変の頂点でなければ、私たちはどこに進歩を見出すことができるでしょうか?

 そのために分析家が主体をその身振り[geste]や静態[statique]の内奥において追跡すること*11には危険が伴います。それらの身振りや静態を無音の声部として主体のナルシシズム的ディスクールに再統合するかもしれませんが。このことは、若手の臨床家によっても非常に敏感なやり方で言及されています。

 ここでの危険は主体の否定的反応ではなく、むしろ主体の疎外[alienation]の新しい身分[statut]において、主体が自らの静態や全身像[statue]の対象化=客観化に捕らわれてしまうことです。これが以前より想像的でないということはありません。

 分析家の技術[art]はこれとはまったく反対に、主体の幻影が最後まで使い尽くされるまで、主体の確信を失効[suspendre]させるようにしなければならないのです。主体の幻影の解消[resolution]がスカンシオンされる[scander]のは、ディスクールにおいてです。

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 ディスクールは何も伝達していない[communiquer]ときでも、伝達が存在していることを示しています。つまり、ディスクールは明証的なものを否定する[nie]ときでも、パロールが真理を構成していることを強く主張しているのです。また、ディスクールは欺く[tromper]ことを運命付けられているときでも、証言において信[foi]について思弁=投機[specule]しているのです。

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 同様に、主体のディスクールのどの「部分[partie]」に意義深い言葉[terme significatif]が打ち明けられているかを理解する=聞く[entendre]ことが問題であるということを誰よりもよく知っているのは、まさに精神分析家なのです。そして、これこそが分析家の最良の操作なのです。つまり、分析家は日常の物語の話を、すぐれた聞き手にだけ挨拶を送っているような寓話として聞き、長々とした激烈な演説をひとつの直接間投詞として聞くのです。また反対に、単純ないい間違いを極度に複雑な宣言として聞いたり、沈黙の溜息を、その溜息があらわしている抒情的発展として聞くのです。

 このように、巧みな句読法[ponctuation]こそが主体のディスクールに意味を与えるものなのです。なぜセッションの中断が、分析家による介入の価値のすべてを持つスカンシオンの役割を果たすのかという理由がここにあるのです*12。現代の技法は、セッションを純粋に時間で決めて終わらせ、主体のディスクールの大筋=横糸[trame]を度外視しています。〔スカンシオンによる〕分析家の介入は、決断の瞬間を準備するものです。それだからこそ、私たちは〔セッションの〕終結を習慣的な体制から開放して、終結を技法の有用な目的すべてにむけて従わせなければならないのです。

 退行もまたこのようにして可能になります。退行とは自我によって復元=再構成されたファンタスム的関係を、その構造の分解[decomposition]の各段階において、ディスクールのなかで実現すること[actualisation]に他なりません。結局、退行とは現実的〔な退行〕ではないのです。つまり、退行はランガージュにおいてさえも、声の抑揚や言い回しや「ほんのわずかなよろめき[trebuchements si legiers]*13」によってしか現れませんし、そのようなものは極端な場合でも、大人が「赤ちゃん言葉で[babyish]」語るというくふうを超えているものではありません。対象への現在の関係のリアリティ[realite]を退行へと転嫁する[imputer]ことは、結局、分析家のアリバイの反映に他ならない疎外的な幻影へと主体を投影することになります。

 このような理由から、精神分析家にとって、主体のリアリティとの体験的接触といわれるようなものに自らを導くように追い求めるということは、もっとも錯乱していることなのです。直観主義者や、ましてや現象学的心理学者のばかの一つ覚え[tarte a la creme]*14が、現代の用法にまで続いており、現在の社会的コンテクストにおけるパロールの諸効果を希薄化する[rarefaction]という徴候にまで拡大しているのです。しかし、その強迫的な価値が、まさにその原則からすべての現実的接触[contact reel]を排除する[exclut]関係において奨励されていることから明らかになっております。

 〔分析主体との現実的接触という到底不可能な〕この頼みの綱が予想させる不可解な天賦の才を真に受けさせられている若い分析家たちは、彼ら自身が受けるスーパービジョン[controle]の成功を目指すのがせいぜいであって、それ以上のことは考えられないでしょう。現実界との接触[contact avec le reel]という観点からは、そのスーパービジョンの可能性そのものが一つの問題となるのです。


 (……以下、スーパービジョンの問題について……)
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 分析家の手の届く範囲にある唯一の対象は、分析家を自我としての主体に結びつける想像的関係です。そして、分析家はその想像的関係を除去できないのですから、その想像的関係を分析家の耳の処理能力を調整するために用いることもできます。生理学と福音書の両方によると、これは耳の正常な使い方のようです。つまり、聞かない=理解しないための耳を持つ*15、ということです。言い換えれば、それは聞かなければならないことを探知[détection]するための耳なのです。なぜなら分析家は、それ以外の耳は持っておらず、〔分析家の〕無意識によって〔分析主体の〕無意識を直接に横断聴取[transaudition]するための第三の耳*16や、第四の耳などを分析家は持っていないからです。私たちは、後にこの不当にも伝達[communication]といわれているものについてお話します。

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 ここまで、私たちは分析におけるパロールの機能について、もっとも不毛な側面、つまり空虚なパロールの側面から扱ってきました。空虚なパロールでは、間違えることはあったとしても、主体は欲望を引き受けるものとはなりえない者について無駄に語っているように思えます。私はここに分析の理論と技法の両面におけるパロールの軽視が進行していく原因があることを指摘しておきます。パロールを転覆させた重い石臼を、私たちは徐々に持ち上げなければなりません。パロールは、分析の運動の原動力として役に立つことができるものです。つまり、実際、分析の弁証法からは除外される、個人的な精神生理学的諸要素があります。それらの諸要素に特徴的な惰性を修正することを分析の目的にすえることは、〔分析の〕運動についての作り事になる他はありません。〔分析〕技法の最近のトレンドはそのような運動で満足してしまっています。


  * * *


 ここで精神分析の経験におけるもう一つの極点に――つまりその歴史において、その決疑論[casuistique]において、治療の過程において――目を向けてみましょう。すると、「今ここで」の分析は、治療の進行の原動力かつ指標としての想起の価値と対立していることが見出されます。また、強迫神経症者の内主観性[intrasubjectivité]は、ヒステリー症者の間主観性[intersubjectivité]と対立しており、抵抗の分析は、象徴的解釈と対立しています。ここに充溢したパロールの現勢化が始まります。

 この充溢したパロールの現勢化が構成する関係を検討してみましょう。

 ブロイアーとフロイトによって創始された方法は、誕生して間もなく、ブロイアーの患者の一人であったアンナ・Oによって「談話療法[talking cure]」と名づけられた=洗礼を受けた[baptisee]ことを思い出してみましょう*17。そして、彼らがこのヒステリー症者とともに始まった〔分析〕経験によって、外傷的といわれる病因となる出来事を発見するに至ったのだということを思い出しておきましょう。

 この〔外傷的〕出来事が症状の原因[cause]であると〔彼らに〕認識されたのは、出来事が(患者の「物語[stories]」のなかで)パロールへと移されたことが症状の除去[levée]を引き起こしたためです。*18ここに「意識化[prise de conscience]」*19という用語が出てきますが、これは事実をすぐに説明してしまうように作られている心理学理論から借りてきた用語です。この用語は私たちが自明の理の祭式をなす説明に対して定型どおりの警戒心を抱くに値するという威信をとどめています。この〔フロイトの〕時代の心理学の偏見は、言語化[verbalisation]のうちに、その《空虚な声[flatus vocis]》*20以外のリアリティを見出すことに反対していました。催眠状態においては言語化と意識化が分離している[dissociee]という事実があり、そしてこの事実だけで、この意識化の効果についてのこのような着想を考え直させるのに十分なのです。*21

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 断定的に言いましょう。すなわち、精神分析的想起において問題になっているのは現実性[realite]ではなく、真理[verite]なのです。なぜなら充溢したパロールの効果は――過去の諸偶発事に必然事として起こってきたという意味を与えることによって、主体がその諸偶発事を現在のものとするわずかな自由によって構成されたものとして――過去の諸偶発事を再び秩序づけることにあるからです。

 フロイトが《狼男》症例*22で追及した研究の複雑さは、そこから十全な意味を導き出すことによって、この私の見解を裏付けています。

 フロイトは原光景の日付のことになると、証拠の完全な客観化を要請しています。しかしフロイトは単純に出来事の再主体化をすべて仮定していました。主体が主体自身を再構造化する各々の転換点におけるその効果を説明するには出来事の再主体化という前提が必要だったのです。つまり、出来事の諸々の再構造化の数だけ、事後性[nachtraglich]*23があるのです。さらにいえば、過程の分析において出来事が主体のなかで潜在的なものとして残っている時間を事後性が省略すると考えているとフロイトはずうずうしさと紙一重の大胆さで宣言しています*24。いいかえれば、フロイトは《理解のための時間》を《決断の瞬間》のために取り消したのです。《決断の瞬間》は原初的な出来事にむすびつけられる意味[sens]を決定するための主体の熟慮を促進させるのです。

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 《理解のための時間》と《決断の瞬間》は私が純粋に論理的な定理で定義した機能である、ということを言っておきましょう。これは私の生徒たちには馴染み深いものです。私は精神分析の課程で生徒たちを弁証法的分析に案内していますが、その弁証法的分析にとって、この《理解のための時間》と《決断の瞬間》という機能は極度に有益であるということが証明されています。

 主体による歴史のこの引き受けは、それが他者を宛先としたパロールによって構成される限りで、フロイトが精神分析と呼んだ新しい方法の基礎であることは明白なことです。フロイトがそれを精神分析と名づけたのは1904年ではありません――最近まである権威者によって1904年だと言われていましたが、彼は賢明な沈黙の覆いを最終的に脱ぎ捨て、フロイトの著作のタイトル以外は何も知らないということを明らかにしてしまいました――、1895年なのです。*25

 フロイトの方法であるこの意味[sens]の分析において、私はフロイトがそうしたように、ヒステリー症状が現われる諸状態によって明示される精神生理学的な不連続性を否定する気はありませんし、これらのヒステリー症状が――催眠療法や昏睡療法などの――これらの状態の非連続性を再生産する方法で取り扱われうることを否定する気もありません。私はただ、症状を説明したり治療したりするためにこれらの諸状態を当てにすることを断固として拒否しているだけなのです。フロイトはそのようなものに頼ることをある時期以降みずからに禁じていました。

(……)

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II、精神分析の領野の構造と限界としての象徴とランガージュ

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III、精神分析技法における解釈の反響と主体の時間


*1:主体の現勢化[realisation]とは、「主体を現せさせる」というような意味。後に「充溢したパロールの現勢化」という表現も出てくるが、これも「充溢したパロールを現せさせる」というような意味だと思われる。

*2:以降、ラカンがいう「主体[sujet]」は原則として分析主体つまり被分析者の無意識の主体であると思われる。

*3:主体の存在欠如

*4:フローベール『紋切型事典[Dictionnaire des idées reçues]』(1911)への参照。isbn:4582762689:detail

*5:原注4。

*6:ワイルデン注27。

*7:自我の訓育、強化を分析の目的とする自我心理学者(ハインツ・ハルトマン、エルンスト・クリス……)のこと。

*8:原注6。

*9:ワイルデン注28。

*10:原注7。

*11:つまり、分析主体の行動=身振り[geste]を分析したり、寝椅子に横たわる分析主体の姿=静態[statique]を分析すること。

*12:いわゆる「短時間セッション」。

*13:この章のエピグラフの言葉「誰も、そしてパロールのわずかな間違いを信じてはならぬ[qu'on ne doit pas chascun croire et du legier trebuchement de paroles]」はここを指している。

*14:タルト・ア・ラ・クレーム(聞き飽きたクリシェということ)。モリエールの表現。

*15:「神は彼らに聞かないための<耳>を与えられた」(ロマ11:8)。

*16:テオドール・ライク『第三の耳で聞く[Listening With the Third Ear: The Inner Experience of a Psychoanalyst]』(1948)への参照。ライクは分析家が面接のなかで患者を理解することを「第三の耳で聞く」という比喩で語っている。このライクの考え方のように、患者の無意識を分析家が直接体験するように理解できるという考え方をラカンはその後も徹底的に批判している。一例として、『不安』のセミネールで批判されているマーガレット・リトルの「トータル・レスポンス」の理論をあげることができよう。主に英国の分析家たちに多い傾向であるが、患者と面接をしている最中に、分析家が不可避に感じてしまう感情(逆転移)を、患者の理解や治療において積極的に活用しようとする考え方がある。マーガレット・リトルのトータル・レスポンス(R)はそのような理論の最たるものであり、分析家の患者に対する逆転移を患者のパーソナリティ全体への反応として扱い、それによって分析家が身を以って患者の内的世界を体験し理解するという考え方である。isbn:0374518009:detail isbn:4753398102:detail

*17:ヨーゼフ・ブロイヤー, ジークムント・フロイト『ヒステリー研究』isbn:4480088326:detail

*18:ワイルデン注37。「予報」への参照。

*19:ワイルデン注38。Autres Ecrits, pp.139-140への参照。「問題になっているのは、意識への移行ではなくて、パロールへの移行なのです。」

*20:ロスケリヌス(1050頃〜1120)の唯名論においては、普遍は空虚な声[flatus vocis]に過ぎないとされている。

*21:ワイルデン注39。「フロイト技法論のテクストにおいて、自らの初期の「知性主義的」見解と意識化を拒否している。とりわけ、「治療の開始について」(1913)SE12, pp.141-142、「否定」SE19, p.233。」

*22:フロイト「ある幼児期神経症の病歴より」。「事後性」の概念と分析における「構成」の重要性が指摘されている。ローマ講演時のラカンのフロイト解釈は、これらの概念を参照しながら「主体による歴史の引き受け」としての充溢したパロールの概念を生み出すことになる。

*23:原注8.GW XII p.71

*24:原注9.GW XII p.72

*25:原注11.