à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

フロイトの無意識における主体の転覆と欲望の弁証法

Subversion du sujet et dialectique du desir dans l'inconscient freudien


E793

E794

 以上のことから——ここで注意しておくべきであるのだが——、まったく教育的な目的でヘーゲルを参照することが要求される。それは、私たちの〔分析家の〕養成のために、精神分析が転覆させるような意味における主体の問題を理解させるためである。
 私たちがこの道に進むことを資格づけているものが、私たちのこの実践の経験であることは明確である。そうすることができるのは、——私たちに追従するものたちが証言してくれるが——、伝達における乱用において裏打ちされた理論の失敗であり、実践それ自体にとって危険がないわけではないのだが、どのみち、その乱用は、科学的位置がまったく欠けてしまうという結果に終わってしまうのである。…

E795

 第二に、心理学の名のもとに科学的ラベルを貼られ、構成されているものに私たちは出会う。

 その心理学の基準は主体の統合であり、これはこの種の心理学の前提のひとつである。それは、この主題〔=統合〕がつねに取り出されて強調されているということが症候的であるとみなされるべきである。あたかも、ある特定の意識の主体の回復(retour)が重要であり、精神は生命体を二重化するものとしての認証を手に入れなければならないとでもいうかのようである。
 ここで私たちは、伝統的思想の全体が「意識の状態」という術語に資格を与える際に合流しているようなこの考えを範例的なものとみなさなければならない。そして、それは故なきことではない。プラトンによって記述された熱狂の状態にしても、仏教における三昧の諸段階にしても、幻覚物質の影響下での生き生きした体験(Erlebnis)のいずれを取り扱う際にも、それらの体験をいかなる理論が正当化しているのかということを理解することが重要である。

 ヘーゲルの知が論理化作用をもつアウフヘーベンを基礎としており、その知はこうした状態そのものに対して現代科学と同じようにほとんど重要性を与えていない。現代科学は、こうした状況のうちに、ある対等なものを定義する機会という意味において、経験の対象を認識することができるのであるが、いかなる点においても、ヘーゲルの知は苦行〔=不幸な意識〕にまったく重要性を与えていないのである。その苦行は、「認識をつくるもの」であったり「精神と関係するもの」でありうるのだが。
 この点において、それらへの参照が我々のアプローチにとって重要なものとなる。
 というのも、あなたがたは十分な知識を得てフロイトの実践においてこのような状態がいかなる役割も果たしていないことに気づいていると思うが、しかし十分に認識されていないことは、このいわゆる「深層心理学」は例えばこれらの状態を啓示を得るために用いることなど夢見てはいないということである。さらには、自らが描く道筋においてそれらの状態にいかなる価値をも与えようとはしていないのである。
 このことは強調されないが、そういうわけでフロイトはヒステリー現象を説明するときでさえ、類催眠状態から距離をとっていたのである。驚くべきことに、フロイトは類催眠状態よりもヒステリー者のディスクール〔語らい〕のほうを好んでいた。…

E796
 信じがたい非論理性に骨抜きにされている環境において、私が行っているように無意識を探ることが何を意味するのか、すなわち、無意識が恍惚や地面に横たえられた状態の答えではなく、むしろ「何故〔=無意識があらわれるときは“何故”が問題になる〕なのかを言う」という答えを与えるのだという点まで、人にわからせるのはむずかしい。
 もし私たちが主体をどこかに導くのだとすれば、無意識においてすでに働いているある種の論理を想定するような解読に導くのである。その論理においては、例えば、問いかけるような声であったり、さらには論法の前進が認められるのである。

 言い換えれば、フロイトへの忠実さによって支えられている精神分析の血脈は、いかなる場合にも原型への橋渡しを行うような儀式、いかにも意味でも言語化不可能な体験などと自らを偽ることができない。単なる愚か者でない人間がこの種のものが何であるのかを人にわからせた日には、あらゆる境界が廃棄されることになるであろう。いまだ私たちはそれには程遠いのだが。
 これが、我々の主体へのアプローチである。というのも、私たちは彼の学説のなかでフロイト自身がはっきりと「コペルニクス的」一歩を構成するものとして彼自身が述べたものをはっきりともっと精確に掴んでおくことが重要なのである。
 コペルニクス的一歩が踏み出されるためには、ある特権が失効するだけで十分であろうか?——この場合、地球を宇宙の中心におくという特権のことである。つづいて進化という考えが勝利したことで、人間が同様の位置から追い出されたことは、この〔かつて与えられていた位置の〕取消が、その恒常性によって裏付けられた利点をもっているという感覚を与える。
 しかし、我々は、このことは利点や真の進歩であると確信できるだろうか? もし私たちがこのように啓示された真理を呼ぶとすれば、他の真理がそれのせいで深刻な被害をこうむるということになるわけではないのではないだろうか? 同意〔追従〕する地球にすぎないという理由からその興味を大いに失う以前において、地動説は、中心を褒め称えるという点で、地球を中心にみてとることよりも人々を欺くものではないし、黄道の事実がおそらく私たちの真なるものへの関係をより活発にするモデルを提供してくれているとは信じられないだろうか?

E797

 コペルニクスの名前を言葉で示唆するように用いることは、私たちのペンからすでに滑ってきたものに真なるものともまさに関係するような隠されたリソース〔=ケプラー〕をもっている。それはつまり、より優れた真理という名を与えられた場所に値しないわけではない楕円の出現のことである。回転は「天球の回転」にしかかかわらないとしても重要ではないわけではないのだ。
 このとき〔ケプラー〕以来、その避難場所に留まることは、宗教的伝統の愚かさを無効にするという意味をもたなくなる。十分に理解されるように、こういった宗教的伝統の愚かさは、それほど悪いものではないのだが、知の体制と真理の体制を緊密に結びつけるものなのである。
 コペルニクスの著作が、かつて私たち以前に誰か他の人〔=コイレ〕がそのことに注目したように、私たちが信じるほどコペルニクス的ではないとすれば、それは、そこ〔コペルニクスの著作〕では二重の真理の教義がいまだ知に避難場所を与えていたからである。その知というのは、そのときまでは——こう言っておかなければならないのだが——その避難場所に甘んじていたようなのだ。

 〈科学〉が世界のなかに登場するに至る歴史が、それでも私たちを十分に焚き付けて〔ジョルダーノ・ブルーノのように火あぶりにされ?〕、〔コペルニクスからケプラーへの移行において〕何かが変化するその境界線を知ろうとさせるのだとすれば、精神分析がその場所において生じる新たな地震〔=地殻変動〕を表わすものとして自らを示すのはその点においてなのである。
 だから、ふたたびこの視点から、ヘーゲル現象学から期待している働き、つまり理想的な解決を描き出す働きを再検討しよう。それは、永久的な修正主義を意味しているが、いわば、そこで、真理に関する厄介事は絶えず再統合され、真理それ自体としては知の実現において欠けているものなのである。スコラ派の伝統が原理として仮定している二律背反は、想像的であるというおかげで解決されるべきなのである。真理とは、知が学ぶものにほかならない——知が無知を働かせることによってのみ知ることができるということを。これは、現実的な危機であり、そこでは私自身のカテゴリーを使うならば、新しい象徴的形態を生じさせる際に、想像界が消去される。この弁証法は一点に収束し、絶対知として定義される絡み合い〔結節点〕に突き進んでいく。推測されるように、この結節点は、象徴界とある現実の結節点でしかありえず、そこからは何も期待できないような結節点なのである。これは、主体が自己同一性において完成するものでなければ何であろうか? ここから人は、ここ〔=ヘーゲルの体系〕において主体が〔最初から〕すでに完成されており、さらには全プロセスを通じての基本的仮説であると結論づけることができる。この主体は、実際、このプロセスの基体〔→hypokeimenon〕であると名付けられている。すなわち、この主体は、自己意識Selbstbewusstsein、意識の存在、完全に意識的な自己と呼ばれる。

E798

 いずれにせよ、ヘーゲルの絶対的な主体への参照および科学の廃棄された主体への二重の参照は、フロイトの劇的性格を正確に形式化するさいに必要な光を投げかけるものである。つまり、真理が実践の領域の前方に来ると同時に、科学の領域へ回帰するということである。抑圧された状態で、真理はそこに再出現する。

E799
 不幸な意識——それは知の宙吊りにすぎないといえるだろうが、しかしヘーゲルの著作に深く根付いているものである——と、フロイトの著作における文化の居心地の悪さとのあいだを隔てている距離を、たとえそれがフロイトが否認désavouéeしている文章が一瞬の光を放つときであるとしても、フロイトがそれを読んで、性から主体を分け隔てるねじれた(英語ではskewという)関係としか解釈しようがないものを私たちに表現しようとしていることをみてとらない人はいないだろう。

 フロイト以来、無意識はシニフィアンの連鎖である。その連鎖は、どこかで(他の舞台、あるいは別の情景において、と彼は書いている)くり返し、執拗に現れるものであり、切断のなかに干渉するものなのである。その切断というのは、実際の語りとそれが情報を与える思考が無意識に提供するものである。
 この〔無意識はシニフィアンの連鎖であるという〕公式化は、私のものなのだが、それはその公式がフロイトのテクストに近いものとして確認されるという意味においてそうなのであり、さらにはフロイトが開拓した〔精神分析〕経験にも近いからなのであり、その〔公式の〕重要な語はシニフィアンである。このシニフィアンという語は、現代の言語学者——私はここではその教義の様々な諸段階を追うことはできないけれども——によって古代修辞学から蘇らされたものである。フェルディナン・ドゥ・ソシュールロマン・ヤコブソンの名前が現代言語学の黎明期および現在のその絶頂の代名詞となっているけれども、西洋における構造主義パイロット版科学が、フォルマリズムが最初に花開いたロシアにその根をもつことを忘れてはならない。1910年のジュネーブ1920年ペトログラードは、フロイトがこの特別な道具を自由に使えなかった理由を説明するに十分である。…フロイトによって記述された、無意識を支配する一次過程というメカニズムが、ランガージュの効果のもっとも根源的な諸側面、すなわち隠喩と換喩を…決定づけているのであり、言い換えれば、シニフィアンの置き換えと結合は、ディスクールのなかに現れる共時的次元と通時的次元においてそれぞれ決定づけられているのである。

E800
 無意識におけるランガージュの構造が認識されたなら、そこにどのような主体を思い描くことができるだろうか?
 方法論上の配慮から、私たちはここでシニフィアンとしての「私(Je)」の言語学的に厳密な定義から出発したいと思う。その定義においては、「私」は、言表の主体のなかにおいていま話している主体〔主語〕を指し示すシフターないし指示詞にほかならない。
 言うなれば、「私」は言表行為の主体を指示(désigner)しているが、それを意味している(signifier)わけではないということである。言表においては主体のシニフィアンはまったく欠如しうるということからも明らかであるように。また、不十分にも一人称単数と呼ばれているもの〔=「私」〕だけではなく、たとえ複数形の召喚や自己暗示の《自己》さえ考慮したとしても、言表行為の主体のシニフィアンを見つけることはできない。
 私たちは特に、文法学者がいうところの虚辞のneというシニフィアンのなかに言表行為の主体を見出したと考えている。それの虚辞については、信じがたい意見がすでに出てきつつあり、もっとも優れた文法学者のなかでもその形式をきまぐれに任せられているものとみなすものがいるのだ。私たちがこの虚辞のneに与える重みが、彼ら文法学者をそのことに気づかせることができますように——彼ら文法学者が自分が何もわかっていないことに気づく前に〔気づかぬ前に=虚辞のne。「どうせ気づかへんやろ」という意味〕(このneを取り去ったとすれば、私の言表行為はその攻撃性を失い、「私」は非人称的なものの中に省略される)。しかし私はこうして彼らが私をあざけりわらうのではない〔=虚辞のne〕かと恐れている(このneが滑り落ちて消失すると、私の嫌悪感という意見から申し立てられた恐れが気弱な主張に引き戻されてしまい、私の言表行為の強調点を縮減してしまい、私を言表のなかに位置づけることになってしまう)。

 すなわち、無意識の主体が問題となっているときに、「誰が話すのか」という問いに対する正しい答え方である。なぜならば、精神分析の経験の全体が私たちに教えてくれるように、彼が自分の言っていることが分からない、さらには彼が話しているということさえも分からないのならば、その答えは彼からやってくることができないからである。
 そのことによって、間に言われたもの(inter-dit=言うことを禁止されたもの)の位置、それは2つの主体のあいだの内部に言われたもの(intra-dit)であり、古典的な主体の透明性が引き裂かれるまさにその場所なのである。そこから、つねにより純粋なひとつのシニフィアンによるその〔主体の〕隠蔽によって、フロイト的主体を明示するところの消失の諸効果への移行がおこる。共謀状態にある言い間違いや機知が混ざり合うような隣接地帯へと、あるいは〔主体の〕省略が現前をその棲家へと追いやるほどに極度にさりげないものであるがゆえに、現存在の追求がもはやそこから何も役立てることができないことに人々が驚くような隣接地帯へと、私たちが導かれんことを!

E801
 私たちの追求が、私たち分析家にとって無駄に終わらないように、私たちはすべてをディスクールの中の切断の機能に立ち戻らせなければならない、なかでももっとも重要なのはシニフィアンシニフィエの間に横棒を置くような切断である。私たちが関心をもっている主体は、ここ〔=ディスクールの中の切断〕においてとりおさえられる=驚かされる(se surprend)。というのも、〔その出現の際に〕その主体は意味作用の中に縫い付けられ、前意識の旗印の下へと追いやられているようであるからだ。このことは、ひとを逆説に導くだろう。その逆説とは、分析の面接におけるディスクールは、そのディスクールがつまずいたり、ついには中断したりする際にはじめて価値をもつと考えるという逆説である——もし面接そのものが、偽のディスクール(つまり、ディスクールが発話として空虚になるときに、マラルメのいう「沈黙のうちに」人の手から手へと渡されて擦り減った硬貨にすぎなくなるときに、ディスクールが実現するもの)の中での断絶として設立されるのでなければ。
 シニフィアン連鎖のこの切断は、現実界における非連続性としての主体の構造が証したてられる唯一つのものである。言語学者シニフィアンシニフィエの決定要因としてみることを可能にしたが、分析は意味の穴をその〔分析主体の〕ディスクールの決定要因とすることによって、このシニフィアンシニフィエの関係の真実を明るみに出したのである。
 「エスが存在したところに、自我が生じなければならないWo Es war, soll Ich werden」という、フロイトソクラテス以前の格言の崇高さにまで至らせた至上命令が実現されるのはこのようにしてである。私たちはこの格言を何度も注釈してきたし、またすぐさま異なる仕方でそれを理解することができるだろう。
 「là où ce fut…(それが存在したところに)」というその文法上の一歩にとどまってみるとすれば、これは一体どのような意味なのだろうか? もしそれが(アオリストで)存在したエス=もの〔le Çaじゃなくてça〕にほかならなかったとしたら、〔私は〕いかにして、今そのことを言表することによって、まさにその場に自らを存在させようとしに来るのだろうか?
 けれどもフランス語では「Là où c'était...(それが存在していたところに)」と言う。フランス語がはっきりとした半過去をもって提供してくれるところの特別のはからいを利用してみよう。それがたった今存在していたところに、それが少しの瞬間のあいだ存在していたところに、いまだ光り輝くこの消失とこのよろめく出現とのあいだで、「私」は、自らの言葉から消え去ることによって、存在にありつくことができる。
 自分自身を暴く言表行為、自分自身を犠牲にする言表、自分自身を一掃する無知、そして消失する機会——〔意識的な〕存在から転落するために本当に必要なものの痕跡ではないとすれば、ここにはなにがとどまっているのだろうか?

E802

 もし〔死んだ父の〕姿が、彼が気づいていない真理をだれも彼に伝えないということによってはじめて生存しうるのだとしたら、その生存が依存しているところの「私」〔=言表行為の主体〕の地位とは何なのか?
 「非存在の存在、それは主体としての「私」〔=言表行為の主体〕が、どのように現れてくるかということである。主体としての「私」は、自らの知によって消滅させられ、実存が死によって支えられているようなディスクールによっても消滅させられるという、ひとつの真の生存の二重のアポリアと結びつけられたものである。

E803
 フロイトの生物学主義は、精神分析のアジトでなされるうわ言によってみなさんが連れていかれたところの説教じみた下劣さとはなんの関係もない。

 …生の彼岸の縁(marge)〔=欲動〕は、存在が話すという理由から言語が存在に対して保証しているものであり、その境界はまさにシニフィアンの位置において、この存在が単に交換可能な存在の身体部分から貸し出されているものではなく、その身体それ自体に関わるところのものである。それゆえ次のことが明らかになる。すなわち、身体への対象関係は、身体において統一されるべきひとつの部分的同一化としてはまったく定義されえない。というのも、反対に、この対象は存在の賭金としての身体の重要性のプロトタイプだからである。
 ここで私たちは、私たちに向けられた挑発——フロイトが「Trieb〔欲動〕」と呼ぶものを本能という名で訳すという挑発——に応答する。英語で「drive」という訳語が伝えるところのものであったならとてもよいのであるが、その語は避けられている。このTriebという語のためには、私たちが「pulsion〔欲動〕」という語の雑種性に決定打を与えることができなかった場合には、フランス語では「dérive〔漂流〕」が最終手段となるだろう。

E804
 なぜなら、精神分析はもちろん身体や身体図式の想像界の現実にかかわるものだからである。しかし、発達を拠り所にした観点における身体の射程を知るためには、何よりも次のことに気づかなければならない。すなわち、発達の順序をなすように思われる統合は、〔実際には〕大なり小なり細分化された統合であり、その統合は紋章、つまり体の紋章の諸要素のように機能しているのである。このことは、私たちが子どもの描画を読み解く際に紋章をもちいる方法によって確認される。
 それこそが私たちが立ち返る逆説的な特権の原則であり、その原則は無意識の弁証法におけるファルスの原則である。部分対象から作られた理論はその原則を十分に説明することができないのだが。

 …このことを省略的に言うと、まさに欲望が分節化されるということによって、欲望は分節化不可能なものなのである。このことを、私たちは次のように理解する——欲望にふさわしい、心理学的ではなく倫理的な言説においては〔欲望は分節化不可能なものである〕、と。

E805
 これが、ここで欲望のグラフの基本的細胞と呼ばれているものである(図1参照)。私たちがポワン・ド・キャピトン〔クッションのとじ目、結節点〕と呼んだものがここではっきりと表現されており、そのポワン・ド・キャピトンによって、シニフィアンは横滑りを止めるのであるが、もしそのポワン・ド・キャピトンがなかったとしたら、意味作用の不確定な横滑りが生じてしまうのである。シニフィアン連鎖は、S→S'のベクトルによって支えられているように見える。逆向きの方向の巧緻のなかに入っていくことなしに——その方向においては、Δ→$のベクトルのよって二重化された横切りが生じているのだが——、ただ後者〔Δ→$のベクトル〕においてのみ、その後者のベクトルのなかにはそのベクトルが引っ掛けた魚をみることができるのだが、前テクスト(言い換えれば、欲求の回帰についての人間本性学的な図式のなかで想像される現実である)の流れのなかに魚を溺れさせようとする意図と比べた場合、そのベクトルがいきいきとした遊泳の把握から掠め取るものを図式化するには適切ではない。
 このポワン・ド・キャピトンは、文はその最後の語によってはじめて自らの意味作用を締めくくるという限りにおいて、文における通時的機能のなかに見出されるものである。それぞれの語は他の語の構成のなかに予期されているのだが、反対にみずからの意味をその遡及的な効果によって密封するのである。
 ところが、共時的構造はもっと隠されたものであって、この構造こそが私たちを起源に導いてくれる。共時的構造のなかに最初の帰属が構成されたものが隠喩であるとすれば、その帰属は、「犬はニャー、猫はワンワン」であることを公表する。この帰属によって、子供は一挙に動物そのものとその鳴き声を切り離し、記号をシニフィアンの機能へと高め、また現実を意味作用の詭弁法へと高め、さらには本当らしさを軽視することによって、同じものについての確証可能な観察の多様性を切り開くのである。

E806

 最初のグラフにおける二つの交点の機能を単刀直入に提示することで、みなさんの段階を省こう。一方の、Aを含む方は、シニフィアンの宝庫の場であるが、これはコードを意味しているのではない。というのも、それ[=A]は、記号と何らかのものとのあいだの一義的な対応がそこに保存されているのではないからであり、シニフィアン共時的かつ列挙可能な一つの集合によってはじめて構成されるからである。その集合においては、それぞれ[のシニフィアン]は、それぞれ他のもの[=シニフィアン]との対立の原理によってはじめて維持される。s(A)を含むもう一方は、句読法と呼ばれうるものであり、そこにおいては意味作用が最終生産物として構成されている。
 場所である一方のもの[=A](それは空間というよりはむしろ場である)から、瞬間である他方のもの[=s(A)](それは持続というよりもむしろスカンシオンである)にいたるまでの非対称を観察してみよう。
 両者はともに、現実界における穴によって構成されるシニフィアンの性質を帯びている[関わっている?]。一つは隠れ穴のように、もう一つは出口となるための穿孔のように。
 主体のシニフィアンへの従属、それは、s(A)からAへ向い、そしてAからs(A)へ戻るという循環の中で生じており、その従属はまさしく次の意味において本当に円形であると言える。すなわち、その循環の中で確立される断言は、その固有のスカンシオン以外の何物でもないものの上で閉じられなかったとすれば、言い換えればその断言は確実性を見出すことができるようなひとつの行為を欠いていたとすれば、それ自体において無意味なシニフィアンの組み立てにおけるその固有の予期に送り返されることしかできないのである。

 しかし、この円積法は不可能である。だがそれは、主体が、円積法から逃れることによってはじめて、また円積法を本質的に不完全にすることによってはじめて構成されるという事実によって不可能なのである。そうすることによって主体は、自らをそこにおいて数に入れることができるのだが、それと同時に、そこでは欠如の役割しか果たすことができない。

E807
 …というのも、現代の情報理論の陳腐さにおいてオミットされているのは、ひとはそれが〈他者〉のコードであることによってはじめてコードについて語ることができるということであり、メッセージにおいてはまったく異なることが問題になっているということである。なぜなら、主体が構成されるのはメッセージからであり、そのことによって、主体がほかならぬ自分が発信したメッセージを受信するのは〈他者〉からであるということが帰結するのである。それで、Aとs(A)という表記が正当化されるのである。
 コードの諸メッセージとメッセージの諸コードは、精神病の主体、つまり前駆的な大他者のみで済ます主体においては純粋な形に分けられるだろう。
 …そのうえ、動物は追い詰められた際にそのように振舞いうることを示している。すなわち、囮となる出発を開始することによって、行方をくらませるようにするのである。この行為は、獲物(動物)にあっては、うわべだけの狩りにみられるものの栄誉をたたえる高貴さを示唆することもありうる。しかしながら、動物は、フリをするフリをすることはない。その足跡が本物であるとき、すなわち、正しい道すじを示すものであるとき、おのれを偽りに見せかけることにその本質があるようなごまかしの足跡を、動物が残すことはないのである。また、動物は自分の足跡を、すなわち、彼にとって既に自らをシニフィアンの主体としているであろうものを消し去ることもない。
 …しかし、〈発話〉はシニフィアンの秩序に対する偽りの通路とともにあることによって始めて開始されること、そしてシニフィアンが異なる場所——〈他者〉の場所、〈他者〉の証言、他のいかなる相手よりも〈他〉なる証言——を要求することは明らかである。——その場所が支える〈発話〉が嘘をつけるために、言い換えれば〈真理〉として自らを提示できるために。

E808
 このように、〈真理〉が自らの保証を引き出すことに関係をもつのは、〈現実〉以外の場所から、すなわち〈発話〉〔=神の御言葉〕からである。それはちょうど、〈真理〉が虚構の構造のなかに〈真理〉を設立するこの印を受け取るのが、〈発話〉からであるように。
 最初に話された言葉は命令を行い、法を制定し、警句を与え、つまりは神託である。それらの〔大他者が発した〕言葉は、自身がもつ薄暗い権威を現実の他者に授けるのである。
 ひとつのシニフィアンだけをこの全ての力の記章(バッジ)とみなすということ——これは、この全能の力、この可能性の誕生を意味しているのである。そして、人は唯一の特徴をもっており、主体がシニフィアンから確保する不可視的な印を埋め合わせることによって、この唯一の特徴はこの主体を自我理想を形成する最初の同一化において疎外する。

 後反の効果、それによって主体は各段階において自分が以前にそうであったものになる。この効果は、「彼はそうなっているだろう(il aura été)」、すなわち前未来においてはじめてその前兆が示される。
 ここでは、自分自身を知ること(me connaître)において誤認(méconnaître)が本質的であるという両義性が組み込まれている。というのは、このバックミラー(rétrovisée)の中で主体が自分について確信できることはすべて、自分に出会いにやってくる予期されたイメージであり、そのイメージは彼が鏡の中で自分自身から手にしたものであるからだ。ここでは、私たちの「鏡像段階」の機能について振り返ることはしない。この「鏡像段階」は、いわゆる「自律的な自我」の理論において認められている評判〔の理論〕への反論として私たちが作り上げた最初の戦略上の地点である。いわゆる「自律的な自我」の学問的な修復は、治療において自我の強化を勧めるという馬鹿げた試みを正当化していたものであり、それ以来治療は適応という観点における成功〔を目指すもの〕へと逸脱させられてしまったのである。それは、戦争によるディアスポラの中で〔精神分析家の〕グループが老化したことにともなう精神的な退位の現象であり、傑出した実践をアメリカ的生活様式の搾取に特有のラベルへと還元することであった。

E809
 いずれにせよ、この歪曲された自らの身体のイメージの中に主体が見出すものは、ナルシシズム的なイメージの化身をそこに投影しつつ、対象の世界に敵意の色合いをもたらす似姿〔=自分と似た人物の姿〕のあらゆる形態のパラダイムである。それは、鏡の中でそれに出会うことに由来する喜びによって、同類との対面におけるもっとも内密な攻撃性のはけ口となる。
 それは、主体が自我理想として足を止める点において固定されたイメージ、つまり理想自我である。したがって自我は、支配の機能、ふるまいのゲーム、構成された敵対心である。自我は、自らの想像的な性質を受け取る時に、自らの二重性を隠している。言い換えれば、意識は——意識において主体は論争の余地のない実存を確実なものとしているのだが(これはフェヌロンの省察に露呈されるナイーヴさである)——主体にとってまったく内在的ではなく、むしろ意識は自我理想の唯一の特徴によって支えられているがゆえに超越的なものである(デカルトのコギトはこのことを見誤っていない)。…

E810

 …言い換えれば、この契約はあらゆる場所において暴力に先立つ——暴力を永続させる以前に存在する——のであり、私たちが象徴界と呼ぶところのものは、想像界を支配しているのである。…

E811

 そして、このことは次のような言い訳のもとに——要求は、欲求不満の効果とともに、その無気力さによってはもはや再興させることすらできない教育的陳腐さへと落ち込んだ実践から〔実践のせいで?〕彼らに伝えられたものすべてを水没させてしまったのだ、と。

 しかし、要求に対してなされた応対によって主体の起源にあると想定される欲求の中に不調和が導入されると主張する人々にとって、何らかの資格においてシニフィアンの列を経験することのない要求など存在しないという事実を無視することは不可能である。
 そしてもし、人間が生まれた後しばらくは動くことができず、まして自活することなどできないほど無力であるという身体のアナンケー(運命)が、依存的な心理の土壌を確固たるものにするのならば、そのアナンケーは以下のような事実を無視できるだろうか? 言語によって、そして言語を介して欲求は多様化とシフトダウンをこうむり、その射程がまったく異なる秩序(それが主体か政治のどちらかに関わるものであっても)に属するものであるようにみえるほどにまで至るがゆえに、この依存が言語の世界によって維持されているという事実を。言ってみれば、これらの欲求が欲望の領域を通り過ぎるに至るがゆえに、ということであるのだが、その際には欲望が私たちに課すものすべてが伴っている——すなわち、私たちがこの新しい経験〔=欲望〕に際して直面することや、モラリストにとっては常に変わらぬ逆説、神学者がそこに読み解く無限性の印、さらにはその位置づけの不安定性であり、それは欲望とは「無益な受難である」というもっとも最近のサルトルによる定式の声が提唱したもののなかに兆しを見いだせるようなものである。

E812
…その〔要素の〕調和的でなく、予想外であり、還元することが困難な影響は、まさに経験において、ある残余を残すように思われる。その残余はフロイトに以下のことを白状させることができた。すなわち、セクシュアリティはあまり自然ではない何らかの裂け目の痕跡を抱えているに違いない、ということを。
 エディプスについてのフロイトの神話がその点について神学に終止符を打ったのだ、と考えることは誤りであろう。その神話は性的敵対関係の指人形をゆさぶるには十分ではないからである。そして、ここではむしろ、フロイトがこれらの座標〔=エディプスコンプレックス〕について私たちの熟考に課しているものを読んだ方が良いであろう。というのも、それらは彼自身がどこから出発したのかという問い、すなわち「〈父〉とは何か?」という問いに回帰するからである。
 フロイトは「それは死んだ父である」と答えるが、誰も彼に耳を貸していない。ラカンが「父の名」という見出しのもとでそれを再提起したことに関しては、非科学的な状況によってラカンが彼の通常の聴衆をつねに失ったままであるということが悔やまれる。

E813

 シニフィアンの場としての大他者という構想から出発しよう。どんな権威の言表も、その言表行為それ自体以外に保証をもっていない。なぜなら、他のシニフィアンのなかに権威の言表を探しても無駄であり、その権威の言表は、このシニフィアンの場の外にはどのような方法でも出現しえないからである。私たちは、メタ言語は、語られうるものとしてはない、と言っている。これをより格言風に言えば、〈他者〉の〈他者〉はない、となる。

 この〈法〉の権威について〈父〉がその原初的な代表者としてみなされているということ、このことは、次のことをはっきりさせることを求めている——すなわち、いかなる現前の特権的な様態にもとづいて、大他者の位置を現実に占めるようになる主体、すなわち〈母〉の彼岸に〈父〉が自らを維持しているのか。…
 一見奇妙に思えることであろうが、あらゆる要求が含みもつ常軌を逸した空間がそこには開かれる。すなわち、愛を懇願するものである要求であり、私たちはそこにもはや前述の問いを留保していてはいけない。
 しかし、まさしく欲望の場所を作るために、要求の同じ効果によって、その此岸に閉ざされているものにそれ〔la=その問いを?〕集中させよう。
 たしかに、それは極めて単純であり、私たちは、ある意味では、人間の欲望が形を見出すのは他者の欲望のようにしてであると言うつもりである。もっとも、最初にそこで欲求を代理表象させるために、主体の不透明さを保持するだけでしかないが。
 私たちがこれから、何がしかの抜け道を通って説明しようとする不透明さ——それは、何らかの仕方で欲望の実体を形成している。

E814
 欲望は、要求が欲求から引き裂かれるところの余白において芽生える。この余白は、その呼びかけが大他者の場に向かってのみ無条件的でありうる要求が、欲求がそこに差し出しうる可能な欠損という形式の下で開くものである。というのも、欲求は普遍的な満足をもたない〔=いつでもどこでも満足させられるわけではない〕のだから(それをひとは不安と呼ぶ)。余白は、それがとりうるような線状のものであっても、大他者の気まぐれという象の足踏みに押しつぶされなかったとすれば、自らの眩暈を出現させる。しかしながら、この気まぐれこそが、主体からではなく、大他者から〈全能〉の幻影をもたらす。その大他者の場所に、その〔=主体の〕要求(この〔子ども=主体は全能であるという〕馬鹿げた紋切り型の表現を、これを最後に、あらゆる人に対して、自分の場所に戻す時が来たのだろう)が置かれ、この幻影とともに、〈法〉によるその〔=大他者の〕拘束の必要性が生じる。

 この分離は欲求に関連する不安に対して獲得されたものに対して、この分離(détachement)は控えめなかたちで成功する。つまりその獲得されたものというのは、某精神分析家が子どもたちとの臨床実践で垣間見て、移行対象と名付けたものである。言い換えれば、子どもが唇や手からもはや離そうとしない毛布の切れ端や愛するもののかけらのことである。
 いわば、これはエンブレムにすぎない。すなわち、絶対的な条件〔=欲望〕における表象〔=母の心的イメージ〕の代理〔=移行対象〕は、無意識においてふさわしい場所にあり、その無意識においてその〔表象の〕代理は、私たちがいま表象〔の代理〕から引き出そうとしている空想の構造にしたがって欲望を発生させる。
 というのも、人がその欲望において残す不可知(nescience)は、人が要求するもの(それは結局のところ輪郭をはっきりさせられることができるものである)の不可知であるよりも、そこから人が欲望するところの不可知である、ということが明らかだからである。
 そして、これに対してこそ、無意識は大他者のディスクールであるという私たちの公式が対応しているのであって、この公式においては「de」をラテン語の「de」の意味で理解する必要がある——すなわち、「他者について話していることのなかに(de Alio in oratione)」(最後まで言えば、「汝に関係することがある(tua res agitur)」)、と。
 もっとも、そこに、人間の欲望は大他者の欲望であるということ、その公式においては「de」は文法学者が主格属格と呼ぶものを提供していること、つまり人間が欲望するのは大他者としてであること(これは、人間の受難の真の射程を提供するものである)も付け加えつつ。

E815
 「汝、何を望むか?」、あなたは何を望んでいるのか? という通達のものでなされる大他者についての(de)問い——その問いは、ある地点から主体のもとへ返ってくるのだが、そのある地点において主体は大他者の神託を待ち望んでいる——が、主体固有の欲望の道へともっともうまく導いてくれる問いであることの理由がこれである——もっとも、もし主体が、精神分析家という名の同伴者のノウハウのおかげで、よくわかっていないうちに、「彼は私に何を望んでいるのか?」という意味においてその問いをやり直すことに興味をもつならのことであるが。

 …必要なのは、十分に入念になされた、分析経験においてしか位置づけられないような研究であり、その研究は私たちが空想の構造を仕上げることを可能にする。その際に、この空想の構造においては、たとえそれが偶然に省略されたとしても、対象の条件(その対象がもつ特権は、通時によって触れることしかできていない)へと、主体の消失(fading)ないし消滅の瞬間——これは、主体がシニフィアンへの従属によって被る分裂(Spaltung)ないし縦割り(refente)に密接に関係している——が本質的に結びつけられる。

E816
 これがその略号(\require{cancel}\cancel{S}◇a)によって象徴されている事柄であり、私たちがアルゴリズムとして導入したもの——このアルゴリズムについては、それがシニフィアンの単位によって構成される音韻的な要素を文字の原子にまで断ち切られていることは偶然ではない——である。というのも、その略号は、20も100もの異なった読み方を可能にするように作られており、言われている事柄がその略号にとらわれたままであるかぎりにおいて容認可能な多様性を可能にするように作られているからである。

 …空想とは、自らを原初的に抑圧されたものとして見出すこの〈私〉の、言表行為の消失fadingにおいてはじめて示されるものの、まさしく「生地」である。

 …それゆえに、欲動という概念——欲動においては、器官や口唇や肛門などから割り出されることによってそれ〔=無意識の主体〕が位置づけられる——は、それ〔=無意識の主体〕が話せば話すほど話すことから遠ざかっていくという制約を満足させている。

E817
 しかし、私たちの完成版のグラフが、欲動をシニフィアンの宝庫として位置づけることを私たちに可能にするのだとすればが、欲動の記号表記としての(\require{cancel}\cancel{S}◇D)はその構造を維持している。すなわち、欲動と通時態を結びつけることによってそうしているのである。欲動は、主体がそこで消失したときの要求から到来するものである。切断が残ることを除けば、要求もまた消え去ることは自明なことである。というのも、切断は欲動が宿る器官の機能——すなわち、その文法的巧緻、それは対象たる源への自らの分節化の移譲の中に非常に明白にみてとることができる——から欲動を区別するもののなかに現前しつづけるからである(フロイトは、この点について枯渇することがない)。
 「性源域」の領域確定それ自体が——欲動は機能の代謝作用から性源域を切り離すものであるのだが(貪り食らう行為が関わるのは口以外の器官である、そのことはパブロフの犬に聞いてみればよい)——切断の仕業であり、その切断は縁や端といった解剖学的な特徴にとくべつのはからいを見出す。すなわち、口唇、「歯で囲まれた部分」、肛門の周囲、陰茎のシワ、膣、眼瞼開口部、さらには耳の円錐〔耳たぶのこと?〕などである(ここでは発生学的な詳細については述べないでおこう)。呼吸器の性感性についてはほとんど研究されていないが、その存在は呼吸器がかかわる痙攣によって明らかである。
 次のことを観察しよう。すなわち、切断というこの特徴が、分析理論が記述している対象(乳頭、腸内に溜めこまれた糞便、想像的対象としてのファルス、尿の流れ)において明らかな価値をもっていることを(信じがたいリストである。もしここに私たちとともに、音素、眼差し、声——そして無を付け加えないのであれば)。というのも、対象において正当に強調されたこの特徴、この部分的な特徴が適用できるのは、これらの対象が全体的な対象である身体の一部であるからではなく、これらの対象を生み出す機能を部分的にしか表していないからであることは明白ではないか?

E818
 私たちが練り上げたこれらの対象に共通するひとつの特徴、それは対象は鏡像をもたない、言い換えれば他性(altérité)をもたないということである。…白紙のページの不安に取り憑かれた者に尋ねてみよ。彼はあなたに自らの空想の糞が何者であるのかを言ってくれるだろう。
 鏡像が自らの衣服を与えるのは、鏡のなかでは把握することが出来ない対象に対してである。…
 いまこのグラフが私たちに提供してくれるものは、あらゆるシニフィアン連鎖が自らの意味作用を締めくくる名誉を得る点に位置づけられる。もし私たちが無意識の言表行為のそのような効果を期待しなければならないとすれば、ここではそれは\require{cancel}S(\cancel{A})であり、それは次のように読まれる——すなわち、〈他者〉における欠如のシニフィアン、それもシニフィアンの宝庫としての存在それ自体の機能に内在的な欠如のシニフィアン、であると。それは大他者がこの〔シニフィアンの〕宝庫の価値について答えることが必要とされる(汝、何を望むか)かぎりにおいて、言い換えれば、下段の連鎖におけるその位置〔=A〕からたしかに応答するかぎりにおいて、しかし、上段の連鎖を構成するシニフィアンにおいても、言い換えれば欲動〔=\require{cancel}\cancel{S}◇D〕の観点から応答するかぎりにおいてのことである。
 問題となっている欠如はまさに、私たちがすでに公式化したもの、すなわち、〈他者〉の〈他者〉はない、ということである。しかし、この真理の信-なしという特徴は、〈他者〉は私から何を望むのか? という問いに最後の言葉を与えるに値するものであろうか? 私たち分析家がその返答の代弁者であるときに? 断じて否である。それはまさに私たちの職務が一切の教義をもっていないという点において、否なのである。私たちはいかなる最終的な真理にも返答する必要はないのであり、特にいかなる宗教にも賛成も反対もしないのである。
 このことだけでもう、ここでいう死せる〈父〉をフロイトの神話のなかに位置づけるべきである。しかしひとつの神話は、一切の儀式を支えないことからして、自足することができないし、精神分析はエディプスの儀式ではない。これは後に展開されるべき論点である。
 おそらく〔父の〕死体はまさにひとつのシニフィアンであるのだが、キリストの墓がヘーゲルにとって空虚なものであったように、モーセの墓もまたフロイトにとって空虚なものである。アブラハムは彼らのうちの誰にもその秘密を明かさない。

E819
 私たちにとって、私たちは記号\require{cancel}S(\cancel{A})が——まず何よりもそれがひとつのシニフィアンであるということによって——分節化していることから始めよう。私たちのシニフィアンの定義(他の定義があるわけではないが)は以下の通りである。すなわち、シニフィアンとは、もう一つのシニフィアンに対して主体を代理表象するものである、という定義である。このシニフィアン〔=\require{cancel}S(\cancel{A})〕は、それゆえ、その他のすべてのシニフィアンがそれに対して主体を代理表象するものとなるだろう。言うなれば、このシニフィアンが欠如すると、その他のシニフィアンは何も代理表象しないからである。というのは、何かに対してでなければ、何も代理表象されはしないからである。
 さて、シニフィアンの一揃いは、存在するものとして、まさにそれが存在するということによって完全であり、このシニフィアン〔=\require{cancel}S(\cancel{A})〕はひとつの線trait——自らの円から引かれた線でありながら、その円において数えられることのない線——でしかありえない。〔これは〕シニフィアンの集合に対する(-1)の内属として象徴化できる。
 それ〔=\require{cancel}S(\cancel{A})〕はそれとしては発音できないものなのであるが、しかしそれは操作ではない。というのも、この操作とは、ある固有名が発音されるその度ごとに生み出されるものであるからだ。その言表はその意味作用と等しい。
 ここから帰結するのは、私たちが用いている代数学によると、意味作用を計算すると、すなわち以下のようになるということである:

\dfrac{\;S(シニフィアン)\;\;\;\;\;\;\;\;}{\;s(シニフィエ)\;\;\;\;\;\;\;\;}=s(言表)

S=(-1)であるから、s=√-1が得られる。

 これは、主体が自らのコギトによって掘り尽くされたと自ら思うために主体に欠如しているもの、すなわち、主体にとって思考不能なものに属するのである。…

 この享楽——その欠如が〈他者〉を非一貫的なものにするのだが——は、それゆえ、私のものであるのだろうか? 経験が明らかにすることによれば、この享楽は私には通常禁じられたものであり、そしてこのことは単に愚か者たちがそう信じているように社会の編成が悪いせいで、というわけではなく、言ってみればもし〈他者〉が存在したとすれば〈他者〉のせいである。〈他者〉は存在しないのであるから、残るのは〈私〉のせいであるということになる。言い換えれば、経験が私たち皆を——フロイトを先頭にして——導いていくところを信じるなら、原罪のせいであるということである。…

E820

 しかし、神話ではないもの、そしてフロイトがそれでもエディプスを形式化するや否や形式化しているもの、それは去勢コンプレクスである。
 私たちはこの〔去勢〕コンプレクスのなかに、転覆それ自体の——私たちがここでその〔コンプレクスの〕弁証法をもちいて分節化しようとしている転覆の——主要な動力を見出している。というのは、そのコンプレクスを欲望の形成に導入したフロイト以前にはまさしく未知のものであった去勢コンプレクスは、もはや主体についてのいかなる思考からも無視できるものではないからである。

 たしかに、ここには骨=難所(os)と呼ばれるものがある。ここで言い立てられていること、つまりはまさに主体を構成するものであるために、そこに構成されているのは本質的にはあらゆる(弁証法的なものであれ数学的なものであれ)思考が——ある円環によって自らを支えることに見かけ上は成功するたびごとに——避け、飛び越え、迂回し、口を塞いできたこの余白である。

E821
 ゆえに、次のことをよく観察してみよう。すなわち、私たちのシニフィアン\require{cancel}S(\cancel{A})にマナやその同種の何かという意味を授けることに反対するもののことである。私たちは、それを社会的事実の悲惨から論じることに甘んじることはできないだろう、その事実がいわゆる全体的事実のなかにまで追跡することができるとしても。
 おそらくクロード・レヴィ=ストロースは、モースの仕事についてコメントするにあたって、マナにゼロ記号の効果を見ようとした。しかし、むしろそのゼロの記号の欠如の記号こそが、私たちのケースでは関わっているように私たちには思われる。そして、まさにそれゆえに私たちは、不興を買うかもしれないおそれを覚悟して、明らかにしたのであり、その結果私たちは私たちの使用法での数学的アルゴリズムの濫用を推し進めることができるに至った。すなわち、√-1の記号、これは複素数の理論ではiと書かれるものでもあるが、これは当然ながらその後の用法におけるいかなる規則性automatismeももたないとすることによってはじめて正当化される。

E822
 それ〔=去勢コンプレックス〕は、自らの無限性の中にあるこの享楽の唯一の表れであり、それ自身を禁止する印を伴っており、そしてそれ〔=享楽〕はこの〔禁止の〕印を構成するために、ある犠牲を伴う。その犠牲というのは、享楽の象徴であるところのファルスの選択と同一かつ唯一の行為にかかるものである。
 この選択〔すなわち、欠如のシニフィアンとしてのファルス〕が許されるのは、ファルス、つまりペニスのイメージが、鏡像における自らの場所において否定されるからである。これこそが、ファルスが欲望の弁証法において享楽を具体化するように運命づけているものである。
 したがって、象徴的なものとしての犠牲の原理を、想像的機能から区別しなければならない。その想像的機能は、犠牲の原理に対して自らを捧げているのだが、その原理に自らの道具を与えるのと同時に、犠牲を隠蔽してしまうのだ。
 想像的機能とは、フロイトナルシシズム的なものとしての対象備給を司るものとして定式化したものである。この点については、鏡像が、対象に対する身体のリビードの注入がとる経路であることを示したという点に私たちが立ち返ればよい。しかし、ある部分がこのような〔対象への〕水没から保護されたままであり、自らのうちに自体性愛のもっとも内密なものを凝縮させているかぎりにおいて、〔鏡像が与えてくれた〕形態におけるその〔ある部分の〕「鋭利」な位置は、それがもろくも剥がれ落ちてしまう空想——そこにおいて、鏡像と、鏡像が対象世界に対して構成した原型から自らを見出すところの除外が完成される——に向かわせる素地となる。
…そうであるがゆえに、その器官は以前に生み出された意味作用の〔/である?〕√-1に匹敵しうるのだが、その器官が自らの言表の指数/係数(coefficient)によってシニフィアンの欠如の関数に対して復元する享楽の〔/である?〕√-1に。

E823

 ファルス的イメージたる(-φ)の移行。その移行は、想像界から象徴界へと向かう等式の一方から他方の側への移行である。その結果、いずれにせよ肯定的なものが現れる──たとえそれが欠如を埋めるために到来したのだとしても。すべてはそれが(-1)〔=S(A/)〕であることを指示している。それはΦ、否定することが不可能な象徴的ファルス、享楽のシニフィアンになる。…

 実際、神経症者とは…〈他者〉の欠如をその要求と同一視する者のことである…。
 その結果として、〈他者〉の要求は神経症者の空想において対象の機能を引き受けることになる。…
 しかし、神経症者によって要求に与えられる優位性は、安直さにむけてひっくり返る分析にとっては、あらゆる治療を欲求不満の操作へと横滑りさせたのであるが、大他者の欲望による不安を隠している——その不安は、それが恐怖症の対象によってはじめて覆い隠されるときには誤認不可能なものである。

E824

 実際、理想的な〈父〉のイメージは神経症者の幻想である。〈母〉の彼岸に、すなわち要求する現実的な〈他者〉の彼岸に——その〈他者〉についてひとは彼女自身が欲望(〈他者〉自身の欲望)をなだめてくれることを望むのだが——それらの欲望の上で目を閉じる〔S10の仏陀の瞼への言及か?〕ひとりの父のイメージが立ち現れる。それによって開示されるというよりもずっと明らかになることは、〈父〉の真の機能であり、それは根本的に欲望を〈法〉に(対立させるのではなく)結びつけることである。

E825

E826

E827