à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

女性のセクシュアリテについての会議のための指針的意見

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VIII、不感症と主体的構造[La frigidite et la structure subjective]

1、不感症――その領域がどれほど広がろうとも、また不感症の一時的形態を考慮に入れるとかなり一般的になることになりますが――は、神経症を決定する無意識の構造全体を前提としています。症状という文脈のそとで不感症が現われるときですら、そうなのです。このことは、一方では不感症がいかなる身体的治療にも反応しないという事実、もう一方では〔その女性に〕もっとも欲望されるパートナーが奉仕を行き届かしたとしてもたいていは失敗するということからなっています。
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分析のみが不感症を動くようにすることができます。それは偶然に起こるときもありますが、つねに転移によって起こります。この転移は、フリュストラシオンやさらには剥奪を幼児化させる弁証法〔=想像的軸〕によって構成されることはありえません。この転移が、象徴的去勢を活動させるように引き出してくるもの〔=象徴的軸〕によって構成されることは明らかです。これは、ある原則を呼び覚ますことになります。
2、この原則は容易に提示することができます。すなわち、去勢は発達のみから演繹することはできません。なぜなら、去勢は法の場としての<他者>の主体性[subjectivite]を前提としているからです。両性間の差異[L'alterite du sexe=性の他性]は、この疎外によって脱自然化〔denature=変質〕されています。男性はここで中継地の役目を果たしており、それによって、女性が男性にとっての<他者>であるように、女性にとっての<他者>は女性自身になるのです。
転移に関わる<他者>の覆いを取ること[devoilement]が象徴的に決定された防衛を修正することができる、というのはこの観点からなのです。
防衛はまず第一に、<他者>の存在が性的役割のうちに明るみに出す仮装[mascarade]の次元で概念化することができます。
この覆いの効果から出発し、対象の位地をその覆いに関連付けるならば、ひどい概念化〔=ジョーンズの意見?〕をどれほど意気消沈させるかを推測できるでしょう。おそらく、この〔=ジョーンズの?〕概念化は、ファルス中心的な弁証法において女性が絶対的<他者>を代表しているかぎりで、すべてのものが女性に関連付けられるということを意味しているにすぎません。
そのため、ペニス羨望[Penisneid]に戻る必要があります。ジョーンズはペニス羨望を二度にわたって用い、倒錯と恐怖症の説明をしていますが、そのどちらも、もう片方の記憶によって等しく確実性が少ないものとなっています。このことを確認しましょう。
この二つの〔倒錯と恐怖症の〕評価は等しく間違いであり、等しく危険なものです。片方では、発達の機能を前にして、構造の機能が削除されていることが分かります。分析はそれ以来、この発達のほうへと脱線していきました。フロイトが恐怖症を神経症の要石として強調していることとは対照的です。もう片方は、倒錯の研究が倒錯における対象の機能を説明しようとして矛盾に陥いる迷宮のはじまりになっています。
この幻影の宮殿の最後の迂回路で、人々は対象の分裂に出会います。しかし、彼らはフロイトの賞賛すべき遺稿となった自我の分裂についてのノートのなかに、その分裂に伴って生じる主体の消失を認めるすべを知りませんでした。
「消失」とは、分析が対象の属性に良いと悪いを持ち込むことによって泥沼にはまり込んだ分裂の錯覚を消散させることができる言葉でもあるでしょう。
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もし両性が対象に関して異なった位地をとるのならば、それは愛の色情狂的形式から愛のフェティシスト的な形式を分離する距離に由来します。私たちは、もっとも普通の日常経験のなかにその顕著な特徴を見出さなくてはいけません。
3、両性の相互的な位地にたどりつくために男性から始めるならば、ファルス=少女――この等式はフェニケルによって賞賛に値する、しかし手探りなやり方によって提出されたものです――がウェーヌス山において増殖し、男性が自分のパートナーを構成する「あなたは私の妻だ」を超えたところに位置づけられることを理解しましょう。すなわち、主体の無意識から再び現われるものは<他者>の欲望、つまり<母>が欲望するファルス〔への欲望〕である、ということがここで確かめられているのです。
それ以後、現実のペニスが――なぜなら現実のペニスは女性の性的パートナー〔である男性〕に属していますから――女性を二つとない愛着[attachement]にささげるかどうかを知るという問題がおこります。しかし、その問題は、ここで自然に起こってくると推定される近親相姦的欲望を除去する効果を生じさせることはありません。
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4、なぜ以下のようなことを認めないのでしょうか? じっさい、去勢が捧げない男らしさはないとすれば、それは去勢された愛人[amanta]か死んだ男(あるいはその二つの混ぜ合わせ)であり、女性にとってその男性は、女性の崇拝[adoration]を呼びおこすために覆いの後ろに隠れています。すなわち、本当は女性には係わりのない去勢が女性にやってくる源泉である母親の同類[semblable]の彼岸の同じ場所から男性は呼びかけているのです。
このように、抱擁に似た受容性はペニスについての鞘のような感受性に移動させられなければならないということは、この理念的インキュバスのためなのです。
これは、女性が行うであろう(欲望にささげられた対象としての女性の身の丈に応じた)想像的同一化のすべてによって、つまり幻想を下支えするファルス的原器[etalon]との想像的同一化のすべてによって邪魔されます。
〔女性の〕主体が純粋な不在と純粋な感受性のあいだに捕らわれている自分を発見する「あれか―これか[ou bien-ou bien]」の位地において、私たちは欲望のナルシシズムがそのプロトタイプである自我のナルシシズムと関係があるということに驚いてはいけません。
このような巧妙な弁証法によって取るに足りない存在[etres insignifiants]が住まわれているという事実は、分析が私たちに慣れ親しませてくれるものであり、自我のささいな欠点はその平凡なことであるということがそれを説明してくれます。
5、キリストの姿は、この観点からいっそう昔の他者の姿を呼びおこし、主体の宗教的忠義[allegeance]が含んでいるものより広大な審級[instance]を担っています。そして、もっとも隠されたシニフィアン、つまり秘儀[Mysteres]のシニフィアンの覆いを取ること[devoilement]は女性に割り当てられた[reserve]ことである、ということを指摘しておく価値があります。
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いっそう俗っぽい水準で、私たちは以下のことを説明することができます――a)主体の二重性[duplicite]が女性では隠されているという事実、パートナーの隷属が男性を特に去勢の犠牲者を代表しがちにさせるだけにこれはなおさらです、b)<他者>が誠実であること[fidelite]の要請[exigence]が女性に特別の特徴となっていることの真の動機、c)女性がこの要請を、自分自身の誠実を前提にした議論によっていっそう正当化しているという事実。