à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

Jean-Claude Maleval - Logique du délire

書名:Logique du délire
著者:Jean-Claude Maleval
出版社:Presses Universitaires de Rennes
出版年:2011(第3版)256ページ(第1版:Masson , 1996 第2版:Masson, 2000)

著者について:ジャン=クロード・マルヴァルは精神分析家,フロイト大義派(Ecole de la Cause freudienne)会員,世界精神分析協会(Association Mondiale de Psychanalyse)会員,レンヌ第2大学臨床心理学教授.長年,精神病を研究し,本書の他に「ヒステリー精神病と統合失調症(Folies hystériques et psychoses dissociatives)」(Payot, 1991),「父の名の排除(La Forclusion du Nom-du-Père)」(Seuil, 2000)などの著作がある.近年は自閉症を精力的に研究しており「L’autiste et sa voix」(Seuil, 2009),「L’autiste, son double et ses objets」(Presses Universitaires de Rennes, 2009)の二つの論集を出版している.


目次


第1部 妄想の概念
第1章 妄想とは何か
第2章 妄想の構造とはなにか
  夢と狂気の同一性
  古典的精神医学による妄想発展の論理
第3章 妄想研究に関するフロイトの貢献
  回復の試みとしての妄想
  「物の代わりに語で満足する」
  同性愛に対する防衛としてのパラノイア妄想
  妄想に内在的な投射のメカニズム
第4章 精神病性妄想(デリール)は神経症性仮性妄想(デリリウム)とは異なる
  精神自動症と夢幻症
  妄想を単一のものとする考え
  現実構成の失敗と対象aの顕在化
  妄想と言語の障害
  行為への移行
  大他者の完全性への呼びかけ
  妄想の発展
  仮性妄想(デリリウム)の構造
  仮性妄想(デリリウム)と神秘主義
  仮性妄想(デリリウム)の急性型
  仮性妄想(デリリウム)の慢性型
  ヒステリー性仮性妄想(デリリウム)の今日性
第2部 妄想の段階的発展と父の名の排除
第5章 妄想の経過についての一般的アプローチ
  メランコリー性妄想
第6章 享楽の脱局在化と不安・困惑
  初期の困惑
  謎
  シニフィアンの猛威
  享楽の脱局在化
  統合失調症の位置の調整
第7章 脱局在化された享楽のシニフィアン化の試み
  パラノイア様妄想
  享楽の規制への呼びかけ
  主体の死
第8章 大他者に享楽を同定する
第9章 大他者の享楽への規制された承諾
  パラフレニーの精神医学的概念
  瘢痕性妄想
  痴呆期
  自己治癒の達成
  ひそかなパラフレニー
第10章 妄想を治療する?
結論
書誌事項
索引


内容要約(第一部のみ):

第1章 妄想とは何か
 まず,19世紀から20世紀にかけてのフランス,ドイツの精神医学における妄想の定義とその問題点が紹介される.フランスでは,まずエスキロールが1814年に「感覚,観念,判断や決定が外的世界と一致しない場合,その人間は妄想の状態にある」と述べる.つづいて1864年にファルレは妄想の本質を「訂正不能な確信」にみた.これらの考え方は近年でも使われており,1964年のポローの『精神医学マニュアル』でも「現実と一致しない事柄についての訂正不能な確信」が妄想であるとされる.ドイツのヤスパースDSMの妄想の定義でも同様のことが言われている.しかし,このような妄想の定義は不十分である.正常な人間でも誤った観念を抱くことがあるし,そもそも現実と一致した妄想も存在するのである.
一方,ラカンはどんな想像的形成物も疾患特異的ではないという.つまり,妄想はその内容からは厳密に把握することができないのである.内容から独立した妄想の特徴を捉えようとするならば,「訂正不能な確信」と「外来的(xénopathique)な性質」が重要である.外来的(xénopathique)な性質とは,ギローが精神病現象に見出した,外から主体に侵入するようにしてやってくるという性質である.ラカンはこれを受け継いで「妄想は主導権が大他者からやってくる瞬間からはじまる」と論じている.
 1977年のセミネールにおいてラカンは妄想という用語を拡張した意味でつかっている.それによれば,精神分析は妄想である.しかしこれはディスクールの保証が不在であるという意味で「妄想」と言われているのであり,精神病性の妄想とは異なる.ミレールは,普通の意味での妄想(délire ordinaire)と,精神病性の妄想(délire psychotique)を区別する.そしてこの二つには,一般化排除(forclusion généralisée)と父の名の排除(forclusion de Nom-du-Père)が対応する.ミレールが「人類みな妄想す(Tout le monde délire)」と言っているのは,普通の意味での妄想という考え方から発展してのことである.
精神病性の妄想を特徴づけるのは,妄想そのものの論理である.妄想は,確信性とその発展形態である誇大妄想によって明らかにそれと分かる.そして,妄想においてはシニフィアンの主体だけでなく,享楽の主体も無視できない.

第2章 妄想の構造とはなにか
・ 夢と狂気の同一性
 妄想を正確に把握するためには,構造論的アプローチをとらなければならない.妄想の論理を理解しようとする思考には2つの大きな潮流があり,これらは現代の論者にも影響を与えている.一つ目は,妄想をその固有の内的発展の様態によって研究しようとするものである.もう一つは,妄想を夢とのアナロジーによって理解しようとするものである.
 まず後者の,妄想を夢とのアナロジーによって理解しようとする潮流を取り上げる.フロイト自身は,『夢解釈』の時点では夢は狂気と類似していると論じていた(が,後にフロイトはその考えを自己批判している).歴史的には,アリストテレス,カント,ショーペンハウアーも夢と狂気を類似したものとしてみていた.
 精神医学の領域では,モロー・ド・トゥールが1855年に「夢の状態と狂気が同一であることについて」という論文を書き,精神病を夢によって説明している.つづいて彼は「大麻と精神異常について」という論文を書き,幻覚を惹起する物質の作用によって精神病を機械論的に説明することを試みている.しかし,このような理論では妄想の発展を問題とすることはできず,夢(妄想)は多彩であるということしかできないという限界がある.
 「スキゾフレニー」の用語を定着させたオイゲン・ブロイラーは,連合弛緩をスキゾフレニーの一次障害と考え,他の症状を連合弛緩から生じる二次的なものとして説明し,そこにフロイトのいう無意識のメカニズムの関与を見出した.アンリ・エーは器質力動論の立場から,精神病を夢幻様(onirique)のものとして説明した.精神分析の領域でも,夢と精神病の関係が指摘されている.クライン派にとっては,精神病は幻想の悪しき統合の結果であり,他学派にとっては,精神病は(睡眠時にも似た)自我の脆弱性の結果である.精神分析家とブロイラー,エーらにとって,精神病は精神の統合機能の障害によって夢に類似したアルカイックな思考が活性化することである.しかし,1915年にはじまるフロイトの論考は,夢と統合失調症を明確に区別しようとするものである.

・ 古典的精神医学による妄想発展の論理
 つづいて,妄想の発展の論理を論じた論者の見解が概観される.ドイツでは1845年にグリージンガーが妄想の発展を論じた.フランスでは,ファルレが1864年に妄想は「それ自体に固有の法則に従って」発展すると論じた.ファルレは,妄想を前駆期,体系化期,慢性化期にわけることによって,精神医学の新しい時代を築いた.つづいてラセーグは1852年に「被害妄想(病)」に固有の規則性を論じた.さらにラセーグは「アルコール精神病は妄想ではなく,夢である」と題された重要な論文を書いている.この論文では,(1)アルコール中毒による振戦せん妄では幻視が多いことに対して,精神病では幻視はほとんどみられず幻聴が多いこと,(2)アルコール精神病は夢に似ているが,被害妄想(病)は夢とはまったく異なること,(3)アルコール精神病は一時的に停止することがあること,が論じられている.ついでマニャンが「体系的に進行する慢性精神病」の概念を発表し,妄想が前駆期,被害妄想期,誇大妄想期,痴呆化期の4つの段階で経過することが論じられる.なお,症例シュレーバーもこの4つの段階を経過している.ドイツのクレペリンは精神病を経過から分類し,痴呆化にいたるものを早発性痴呆,痴呆化に至らないものを躁うつ病パラノイアとした.レジは1906年の『精神医学概論』で妄想の段階的な体系化を論じたが,彼によれば妄想は次第に宗教妄想,性愛的妄想,政治的妄想,嫉妬妄想などに変化するという.これは薬物療法のない時代の妄想の発展の記録として重要である.セリューとカプグラは1909年にパラノイアの一種である「解釈妄想(病)」を記載し,前駆期,体系化期,終末期の経過をとると論じた.クレランボー1920年に精神自動症を記載したが,後にラカンはこの精神病発病時の事態をシニフィアンの猛威(=連鎖の解け:déchaînement)と呼んだ.レヴィ=ヴァランシは,ラカンが精神医学の世界に入ったときに活躍していた精神科医である.彼もまた妄想を四期にわけたが,体系化期を2つにわけ,外界の異様な動きに対する確信が生じる前者を「組織化期」,その異様な体験に答えが与えられる後者を「体系化期」と呼んだ.こうして慢性妄想の発展は5つの時期に分けられることとなったのである.最後に,ラカンは1932年に学位論文『人格との関係から見たパラノイア精神病』を著し,クレランボーの精神自動症を批判し,さらに熱情精神病を独立させたことを批判する.彼は妄想を夢とは明確に区別し,また妄想の発展にも注目した.

第3章 妄想研究に関するフロイトの貢献
 フロイトは精神病に特異的なメカニズム(防衛機制)として「否認(Verleugnung)」を考えていたが,1938年の「精神分析概説」において同じ防衛機制フェティシズム神経症にもみられると考えた.フロイトの精神病に関する貢献は次の4つである.(1)回復の試みとしての妄想,(2)一次過程における言葉の氾濫,(3)同性愛的欲動への防衛としてのパラノイア妄想とその文法的構造,(4)妄想における投射(Projektion)のメカニズム.
 (1)フロイトは1911年の症例シュレーバーに関する論文で「妄想形成は,実際には回復の試みであり,再構築である」と述べた.このように,妄想を目的をもつものと考えるやり方は,妄想の発展を論じたフランスの精神医学と接合できるものである.シュレーバーの場合では,「女になって性交されたらどんなに素敵なことだろう」という観念の出現が前駆期に相当し,その後に体系化期がくる.そして最後に,神の女へと自ら変身する「和解期」ないし葛藤の解決期がやってくるのである.
 (2)フロイトは,グラディーヴァ論の頃には夢と妄想を類似のものと見ていたが,1915年の「無意識」と1917年の「夢理論に関するメタサイコロジー的補遺」において,夢と精神病を完全に区別する.つまり通常,夢では語表象と対象表象のあいだの行き来があり,一次過程から生じた語は容易に視覚像へと変換され,この作業によって夢が生まれる.一方,精神病(統合失調症)の場合では語表象と対象表象のあいだの行き来が障害されており,言葉が言葉そのもののままで氾濫する.精神病における言語の病理に注目する見解は,クレランボーラカンによっても強調されている.フロイトは,夢に対応する病理としてアメンチア(器質性精神障害やヒステリー性精神病に対応)をあげる.クライン派の見解は,精神病を退行によって理解しようとするものであり,メタサイコロジー以前のフロイトの見解と親和性がある.一方,1950年代のラカンの精神病論は,メタサイコロジー以後のフロイトの見解と,クレランボーの見解が一致するところに位置づけられる.
 (3)シュレーバーに関する論文において,フロイトは同性愛的欲望のファンタスムがパラノイアの葛藤の中心を構成していると論じている.それによれば,被害妄想は,「私は彼を愛する」という同性愛的欲望が抑圧され,「私は彼を愛さない,私は彼を憎む」へと変換され,さらに「彼が私を憎む」へと変換されることによって生じる.また,「私は彼を愛する」の主客を転倒させ,「彼が私を愛している」と変換することから被愛妄想が生じる.さらに,「私は彼を愛する」の主語を妻に入れ替え「妻が彼を愛する」と転倒させることからは,嫉妬妄想が生じる.最後に,「私は誰も愛さない.愛される価値があるのは自分のみである」という自我の性的な過大評価(極度のナルシシズム)からは,全能感を伴う誇大妄想が生ずるとされる.しかし,フロイトの議論は,非常に多くみられるエロトマニー,神秘妄想,血統妄想,発明妄想などを説明できないという点にその限界がある.
 1955年にマカルピンとハンターは,シュレーバーにとって同性愛は一次的なものではなく,二次的な役割しか果たしていないと論じた.むしろ,シュレーバーにとって一次的な問題は,子をなすこと(procréation)をめぐる問いである.同性愛とパラノイアをめぐっては精神分析には数多くの議論があるが,最終的にラカンは「同性愛はパラノイア精神病における決定因ではなく,疾患過程において表現される一症状である」とする.ラカンは,精神病における「女性-への-推進力」を強調するのである.
 (4)先にみたように,妄想を投射によって説明するフロイトの議論には問題があるが,フロイト自身はパラノイア性妄想に特異的な投射を描き出そうとしている.たとえば1924年の論文「神経症と精神病」にみられる,妄想は世界に対する主体の関係における原初的失敗を埋めるように出現し,現実を再構成するという記述がそれである.ラカンはこのフロイトの考えを「排除(Verwerfung)」と,排除されたものの回帰という用語によって表現する.こうして有名な「父の名の排除」の議論が登場するのである.

第4章 精神病性妄想(デリール)は神経症性仮性妄想(デリリウム)とは異なる
・ 精神自動症と夢幻症
 クライン派は,すべての主体が精神病的な核をもっているということをその公準としている.これは妄想を精神錯乱(confusion mentale:中毒や感染症によっておこる器質性の精神病)や,アルカイックなものへの退行として説明しようとする理論であるといえる.クライン派の思考は,精神病に関する夢幻―退行モデルである.一方,ラカンの精神病に関する理論は,夢幻的なシェーマを一切排したものである.
 フロイトは精神病を単一のものとはみなさず,アメンチアとパラフレニーの2つの極で考えていた.彼は1915年には,アメンチアだけが夢幻様のものであり,反対に統合失調症では一次過程における言葉の優位があるとしている.しかし,メラニー・クラインはアメンチアの退行―夢幻モデルからすべての精神病の理論を引き出そうとしている.ラカンの考えはフロイトに近く,父の名の排除によってシニフィアンが主体に心理学的に侵入すること(言葉の優位)によってパラノイアを位置づけた.フロイトラカンに対して,メラニー・クラインが対立しているのである.この対立は,フランス精神医学における夢幻モデルの論者(モロー・ド・トゥール,アンリ・エー)と器質論者(クレランボー)の対立にちょうど対応している.

・ 妄想を単一のものとする考え
 「現実」に一致しないことを妄想の基準と考えると,精神病にみられる妄想と精神錯乱でみられる夢に似た妄想を区別することができなくなってしまう.しかし,ラカン派では妄想の厳密な定義を「享楽を病者にとって受け入れ可能な形式に整形するためのシニフィアン化の過程」とする(コレットソレールの定義).この意味でのパラノイア性(精神病性)の妄想を「デリール(妄想)」と呼び,反対に夢に類似した精神錯乱でみられる妄想を「デリリウム(仮性妄想/せん妄)」と呼ぶ.

・ 現実構成の失敗と対象aの顕在化
 フロイトは『夢解釈』において幻覚を,欲望の原初的な満足を求め失われた対象を再発見することにみていた.失われた対象という考えはラカン対象aの概念に引き継がれている.精神病では,ファルスの意味作用から解き放たれ自由の身となった対象がつぎつぎと繁殖する.これが妄想的な新しい現実性をつくりだす.この意味で,精神病は享楽を限界づけることが不可能であるがゆえの,対象aの顕在化である.一方,神経症性仮性妄想では,不可能な対象は象徴界の穴に縁どられており,それが不安を引き起こすファルス的な顕在化に受肉され,主体は魅惑する想像の産物をつくりだす.これは日中の悪夢のようなものである.

・ 妄想と言語の障害
 精神病では,父性隠喩の欠損のためにシニフィアンが自動運動をはじめる.フランス精神医学では,マイエルソンとケルシーが非常に興味深い臨床観察を記載している(その症例の面接記録を引用される).この面接記録では,社会的象徴体系から切り離された言語使用が数多くみられ,また言語新作も観察される.これをラカンは「シニフィアンの心理学的侵入」と呼んでいる.
言語新作については,1889年のタンツィの観察が重要である.彼は「慢性精神病者は言葉に対する崇拝」があり,パラノイア性言語新作は崇拝の儀式であるという.彼はそれをロゴラトリー(言語の過剰な崇拝)と呼ぶ.19世紀末にはフランス学派が能動的言語新作と受動的言語新作を区別し,前者が体系的妄想病でみられるのに対して,後者は躁病や痴呆,振戦せん妄でみられるとした.セグラによれば,能動的言語新作とは「(その言葉について)それ以上何も説明できず,何も探すことができず,語がすべてを語る」ものである.これはフロイト統合失調症に関する考えに間違いなく対応している.一方で,受動的言語新作は「言葉を物のように扱う夢の作業」に類似したものであり,夢幻様状態(進行麻痺,振戦せん妄,精神錯乱など)でみられることが確かめられている(この実例が,ランテリ=ロラらの症例報告から紹介される).

・ 行為への移行
 精神病者において危険なことは,破壊,激情,自己切断,自殺などの華々しい行為への移行(パサージュ・ア・ラクト)に至ってしまうことである.言語の障害と行為への移行には逆相関的なところもあり,言語新作は享楽の脱局在化を食い止めているのかも知れない.一方,仮性妄想においてつくられる不安は,大他者に書きこまれている去勢の意志に対する無意識の返答である.神経症者の享楽はファルスの意味作用につなぎとめられており,抑圧されたものをアクティング・アウトする.

・ 大他者の完全性への呼びかけ
 精神病者は,大他者の不完全性を支えることが可能であるようなシニフィアンを用いることによって安定化をする傾向があることが観察される.彼らは妄想的隠喩をつくりだすことによって,父の名の隠喩の排除から回復することができるのである.また,妄想には「主体の死」が生じ,精神病者は大他者に対する犠牲の位置につく(このことについていくつか症例が例示される).
 一方,(神経症性の)仮性妄想ではこのような犠牲はない.仮性妄想は,主体のファンタスムや以前からの心配事から連続したものである.ヒステリー性精神病である私の症例マリア が「UFOになる」感覚をもったとき,彼女は自分の肌を過酸化水素水でこする儀式を行ったりしていた.彼女の仮性妄想が日常の心配事から生じていることをみるのはたやすい.つまり,彼女は混血児として生まれたこと,白人でなかったことを悔やんでいたのだ.また,「私の父はひとつの理論です」という彼女の発言は,この男性への接近が難しいことについての彼女の苦しみの隠喩的表現(「まるで理論のように堅物だ」)なのである.

・ 妄想の発展
 先に見たように,妄想は固有の発展をとげるものである.一方,仮性妄想には発展がない.仮性妄想は不十分な防衛であり,往々にして不安を抑えるためには不十分な戦略である.それに対して,妄想は複雑な防衛であり,そのもっとも高次の形態においては特記すべき平穏を獲得するまでにいたる.
 妄想はある目的と規則性をもつが,その一つは主体が「女性なるものLa femme」を受肉化するようになることである.なぜかといえば,フロイトが言うように心的表象においては男性と女性の対立はない.エディプス・コンプレックスはその対立を教えてくれず,「女性は存在しない」のである.父の名の排除は,女性なるものを存在させようとする効果をもつ.これは際限のない享楽を受肉化することであるといえる.
 反対に,仮性妄想においては何も排除されておらず,ファルスの機能が働いている.マリアの症例では,「未確認飛行物体(OVNI:objet volant non identifié)」になるという発現で本来ならば男性形で「un OVNI」と言うべきところを「une OVNI」と女性形で表現しているところが,妄想的な女性化を喚起させないわけではない.しかし,このように表現することによって,彼女は地球外の女性になろうとしていたのではないか.あるいは,彼女の分析家が未確認飛行物体のように万能で近づきがたく恐ろしい存在であり,また彼女にとって自分自身の二重のイメージであったのではないだろうか.
仮性妄想は発展の規則性をもたず,また回復の試みでもない.仮性妄想はファルス享楽の限界によって縁どられており,言語新作を創りだすこともなく,反論しえない確信をもつわけでもなく,女性化するわけでもなく,主体の死を経験するわけでもない.

・ 仮性妄想(デリリウム)の構造
 ヒステリー性の仮性妄想でも,主体が大他者に所有される二項的関係が生ずることがあるが,この所有関係は完全には実現されない.ヒステリーでは,主体はシニフィアン連鎖の棒線によって記しづけられつづける.一方,精神病ではシニフィアンS1とS2が一塊のものとなる「オロフラーズ」が生じる.
 19世紀末のブロイアー,ジャネ,フロイトはヒステリー性妄想に関する卓越した臨床家であった.ジャネは「(ヒステリー性)妄想は,麻痺や攣縮や発作といった他の疾患を引き起こすのと同じメカニズムでおこる」と言っている(ジャネの症例が引用される).ヒステリー性妄想は悪夢や夢幻的なものと同じものである.このような仮性妄想には隠喩があるのみならず,フロイトが「不気味なもの」と呼んだものも関与している.原初的に抑圧されたものが回帰することによってファンタスムがぐらつき,対象aの想像的な顕現がおこるのである.
 なぜ仮性妄想はこのような構造をとるのかといえば,それはシニフィアンがそのシニフィアン自身をあらわすことができない,つまりメタ言語が存在しないということによる.父の名の排除のある精神病では,象徴界における空隙(trou)は不安をひきおこす困惑として出現する.一方,仮性妄想では反対に,象徴的な穴(béance)において表現される大他者の欲望の想像的な喚起が中心である.仮性妄想では,ファンタスムが不安な動揺をきたす機会に,主体は大他者の享楽に直面する.主体の身体を享楽しようとする「吸血鬼」にその例をみることができる.吸血鬼は近年ではあまりみられなくなったが,それは文化社会的コンテクストによって依存しているのである.Mary Barnes, Beauchamp夫人,Sybilらによる「分裂病」の手記があるが,これらはみな鏡像的イメージを示しているのであって,精神病現象ではない.現実界の表出がいくつかあるということは父の名の排除の標識にはならない.このような現象は原初的に抑圧されたものの回帰に関連したものであり,精神病においてみられる対象aの氾濫とは一線を画すものである.
 想像的な去勢という問題系は,神経症の症状においてはっきりと認められる.ファンタスムが大他者の享楽を防ぎ切れないとき,大他者は主体の去勢を望むのである.仮性妄想は,ファンタスムが失墜し,享楽が境界線を超えてあらわれるという意味での悪夢に類比できる(このことが,Mary Barnes, Beauchamp夫人,Sybilらの二重身体験の症例から示される).
 幻聴についても,精神病とヒステリー性精神病では異なる.精神病では超自我が享楽の要請を宣言する声(淫売!アバズレ!メス豚!など)の幻聴が多く,主体を享楽の源泉として廃絶しようとする.それに対して,ヒステリーでは父性機能による穏健なものにとどまっており,避難や叱責は内容を伴っている.

・ 仮性妄想(デリリウム)と神秘主義
 ピエール・ジャネの有名な症例マドレーヌについても意見が分かれている.精神病を単なる重症の神経症とみなす向きもある.しかし,ランテリ=ロラが言うように,「精神病構造と神経症構造を対立させる論者にとっては,症例マドレーヌは精神病構造ではない」.以下,マドレーヌの症例について,神秘主義との関係から説明される.他にも,ラカンが『アンコール』で引いたジャン・ドラクロワ聖テレジアの例も持ち出される.

・ 仮性妄想(デリリウム)の急性型
 「急性錯乱(bouffée délirante)」や精神錯乱は,精神病構造とは関係のないものである.1860年~1910年ごろまで,急性錯乱は統合失調症とおなじ枠内に分類されていたが,リシェやジャネが指摘するように,これは中毒性物質や麻薬,アルコールなどの使用によるものであり,仮性妄想に対応する.仮性妄想の急性型は,発作的不安と対応させることができる.私の症例マリアでは,分析のセッションの最中に私を吸血鬼だといってつかむことがあったが,マリアには大きな恐怖感がみられた.彼女の「未確認飛行物体になる」という妄想は,彼女が北の海の汚染を守り,環境汚染の制御をし,吸血鬼や悪魔と対峙するというものであり,これは神経症的な症状として解釈することが可能である.つまり,彼女は両親の「人種を純化する」という希望に答えていたのである.

・ 仮性妄想(デリリウム)の慢性型
 パラノイア様の仮性妄想は想像的なものと化した対象aの一時的な顕現としてはじまるが,憑依妄想や影響妄想となってあらわれることもある.精神医学では1973年までこのことが無視されていた.1973年に,アンリ・エーはヒステリーでも憑依妄想や影響妄想がみられることを示した.しかし,ヒステリー性の憑依妄想は,精神病のようなシニフィアンの心理学的侵入があるわけではない.むしろそれは,主体が二重身のイメージに篭絡されることであって,それによって主体は大他者の欲望の脅威から身を守っているのである.文学におけるこのことの実例は,ドストエフスキーの『分身』,ポーのウィリアム・ウィルソンモーパッサンの『オルラ』がある.パラノイアの仮面をともなって現れる仮性妄想(ヒステリー)が存在するということはあまり知られていないのである.
 仮性妄想の慢性型には2つの類型が区別できる.一つは,影響妄想や悪魔憑きを意図的に借用したもので,もう一つは現実の人物が迫害者になったものである.前者には他人を自分自身として誤認する投射のメカニズムがはたらいており,後者には仮性妄想の防衛機能の弱さがあらわれている.
 仮性妄想とヒステリーの親和性を強調するためには,「ヒステリー精神病」という精神医学の概念が重要であろう.フォラン,そしてシャゾーとピロンがヒステリー精神病の詳細な症例研究を行っている.
 私たちのように妄想(デリール)と仮性妄想(デリリウム)を区別するのは,新しいことではない.むしろ,サンドラの「神経性妄想」やグリージンガーの「ヒステリー性狂気」,モレルの「情動性妄想」,マニャンの「変質者の急性錯乱」,マイネルトの「アメンチア」,フロイトの「欲望充足精神病」などの古い概念に立ち返ることである.
 妄想の定義はさまざまに議論されており,1950年に初めて開催された世界精神医学会の大会のテーマも妄想であり,ここでも様々な議論がなされた.このような流れのなかで,私はアメンチアと統合失調症を区別したフロイトの見解を支持しているのである.

・ ヒステリー性仮性妄想(デリリウム)の今日性
 20世紀中盤から,未確認飛行物体に関する言説が増加した.なかでも,ピューリッツァー賞受賞歴のあるアメリカの精神科医ジョン・E・マックは注目すべきものである.彼は宇宙人に誘拐された経験があるという多数の人々と面接をしたが,妄想や精神病の徴候はみとめられなかったという(マックの学説と後の議論が詳しく紹介され,ヒステリーの研究にかなり利するところがあると説明される).
 精神病について構造論的アプローチがなく,ヒステリーについての厳密な把握がなければ,妄想と仮性妄想を区別することはできない.こうなると,地球外生命体に誘拐されたと訴える人物などは,みな精神病者として扱われてしまうことになる.


本書の位置づけ: 著者ジャン=クロード・マルヴァルは現在レンヌ第2大学の臨床心理学の教授で,ラカン派の精神病論を,フランスやドイツの精神病理学と対話させながら発展させてきた,ラカン派における精神病論の第一人者である(近年は自閉症を研究している).主著となるのがこの『妄想の論理』であり,増補改訂版である第3版が2011年5月に出版されたばかりである.ラカン派の本格的な精神病論はこれまで日本に紹介されておらず,フランスのラカン派でも盛んに参照されている精神病論の古典としての本書の意義は大きいと思われる.
第一部では,フロイトラカンに先行する精神医学の妄想に関する議論を詳細に紹介し,そこからフロイトラカンの精神病論の発展を追い,その議論の核心を「神経症と精神病の鑑別診断」に見出す.神経症者にみられる幻覚や妄想と,精神病者にみられる(真の)幻覚や妄想は,まったくその質が異なるというのである.つまり,神経症者の症状は性的な隠喩による意味作用をもったものだが,精神病ではそのような隠喩が成立していない,などの構造的特徴が具体的な臨床例から明快に説明される.
第二部では,精神病の妄想に内在する固有の論理,つまりその発展が綿密に論じられる.精神病では,象徴界の穴に直面することから初期の困惑状態がうまれ,主体にとって一つの謎が生じる.そして,シニフィアンが連鎖を断ち切られ猛威をふるうようになり,さまざまな幻覚現象が生じる.それと前後して,享楽が脱局在化する.パラノイアはその状態からの回復として,脱局在化した享楽を制御するために妄想的隠喩をつくり,享楽を大他者の場に見定めることによって安定化をはかるとされる.
著者が提唱する精神病とヒステリー性精神病の鑑別診断は,現代の精神医学ではほとんどないがしろにされており,幻覚や妄想があればどんなものでも「統合失調症」と診断されてしまっていることが実情である.それゆえ,本書は現代の精神医学に対しても強烈なアンチテーゼになるものと思われる.また,日本の精神病理学では,以前から統合失調症類似の疾患と,統合失調症そのものを精神病理学的に鑑別しようとする議論が盛んであった.そのため,精神病理学の領域からも興味をもってもらえる書物だと思われる.また,一貫して,独仏および英米圏の精神医学の見解と対決しながら論述されていることが特徴的である.


『妄想の論理』
ジャン=クロード・マルヴァル

序文

 妄想にはそれ自体に内在する論理がある,と主張することは,今日ではもはや良識に反することではない.「妄想は回復の試みである」というフロイトの理論は,完全に無視されているわけではないのである.それでもなお,頻繁に提起されるわけではないが,反対の意見も存在する.妄想という自己治癒の作業には真っ向から反対すべきであり,また妄想を制圧し,抑制すべきであるという確信は,彼らにとってはほとんど全員一致のものである.なるほど,こうして臨床家はみな,妄想を一掃することを非常に積極的に望み,患者(sujet)*1を黙らせるように導き,さらには抑うつ状態*2に至らせたりする.衝動的な行為に至ること(パサージュ・ア・ラクト)(passage à l’acte)がなければ良い,というわけだ.つまり,妄想を癌と類比して捉える考えが君臨しつづけているのである.本書では,このようなアプローチとは反対に,妄想における主体的な作業の成果に尊厳を与え,それを歓迎するための弁護がなされる.
 現代の精神医学は,科学的な言説に従うものであり,科学の方針を踏襲することにその活路を見出している.つまり,現代の精神医学は主体を方法論的に排除しているのである.この支配的な理想の帰結は,この領域における知識は患者との出会いによって進歩するという,今日つねに広がりつづけている公準において最も明らかである.こうして,精神医学の臨床と精神分析の臨床のあいだに深い溝がうがたれる.精神分析の臨床は,科学の言説の襲来に対して,〔科学一辺倒にならないように〕平衡をとる,という重い責任を背負っている.精神分析による妄想へのアプローチに関していえば,妄想では主体の複雑な作業が問題となることを理解することができる状態にある.さまざまな形式の慢性妄想に内在する論理を明らかにすることで歩みを進めようとする試みは,妄想の臨床的な変化を整理することを可能にする.
 ここで直ちに次のことに注意されたい.妄想が防衛的機能をもつと主張するといっても,私たちは反精神医学やシュルレアリスムの新たな焼き直しという名目で理論を構築し展開しようとしているのではまったくない.この研究の目的は,妄想へのアプローチに関するフロイトの発見を真剣に扱い,今日ではなおざりにされている古典精神医学の臨床という臨床知の宝庫とフロイトの発見を突き合わせることにある.精神分析の創設者であるフロイト自身,そして彼の多くの弟子たちも,彼らが発見した妄想という領野の新しさに魅了され,妄想の現象の外からみた形態に中心をおきすぎており,遠回りをしてしまっている.そのうえ,1930年代以降の精神医学の臨床の停滞によって,古典精神医学は時代遅れだという性質を付与されてしまい,精神分析家たちの興味をそそらなくなっている.今日の精神医学の臨床研究は,〔精神分析家にとって〕形式的で,不毛で,さらには人間の主体性を奪うものとして捉えられているのである.近年の精神医学の研究は,人間の行動を形式化し,それぞれに対して作用しうる分子的な標的の特徴を取り出すことに主に専念しており,精神分析家からの無関心に拍車をかけている.一方で,ラカンは古典精神医学の臨床観察の豊かさを無視することはまったくなく,「症状の形式的な外観への信頼」は「その外観が創造という効果へと逆転する限界」*3にまで導くものであるとして推奨している.ラカンはここで,形式的な臨床と主体の創造の効果についての臨床を接近させることの豊かさを論じているのである.
 今日の精神分析は,現代の精神医学が自ら捨てさってしまった貴重な遺産を託されている.言い換えるなら,1860年から1930年のあいだに収集された臨床知の宝庫という貴重な遺産,クレペリン*4によってその体系化が行われた貴重な遺産を,精神分析は託されているのである.現代の精神医学の臨床に対するアプローチ,特にDSMと医薬品業界のアプローチは,患者を目の前にして精神障害を客観化し,痛みを伴う認識論的還元を押しつける.この認識論的還元はミンコフスキー*5が精神的土台(fond mental)とその力動と名付けたものに関わり,別の用語でいえば主体の次元,そして主体の欲望や要求の次元に関わるものである.精神分析は,現代の精神医学とは異なる臨床を推奨している.フロイトクレペリンの疾患分類の本質を受け入れていたがゆえに,精神分析は古典的精神医学の臨床を根幹としているのである.ジャック=アラン・ミレールは次のように指摘している.「私たちは精神医学の臨床が遺してくれた言語を使うように導かれるのであるが,ラカンなら《根本的に,私たちはこれ以外の臨床をもっていない》と言うだろう」*6 しかしながら,精神医学の臨床は使い尽くされてはおらず,むしろ1930年代以降の衰退期にその活力を失ってしまった.今から30年以上前,1967年にラカンは,狂人(fou)との関係に関わる発見に匹敵するものは精神医学の領野において存在しないと断言している.「小さな臨床的変革もありませんし,小さな寄与もありません.私たちには19世紀の素晴らしい遺産が遺されていますが,クレランボーによってなされた最後の補足を除いては,それ以来すこしも変化がないのです.私が臨床像をなにか見逃しているのでしょうか?」*7 クレランボー以降の諸々の発見を無視することはできないということは疑いなく明らかである.最初に,1943年のカナーによる自閉症の発見,1944年のアスペルガー症候群の発見があげられる.また,1953年の性転換症,くわえて1951年のミュンヒハウゼン症候群,1961年のメランコリー親和型,1967年の自己瀉血症候群(Le syndrome de Lasthénie de Ferjol),1977年の代理ミュンヒハウゼン症候群などの発見もある.しかし,このリストは見た目通りのものではなく,古典的精神医学がその進歩の過程のなかで内的な限界に到達したということを証言している.というのも,このリストには精神科医による発見が2つしかないのだ(カナー,テレンバッハ).その他の発見は内分泌学者(H.ベンジャミン)によるものであったり,血液学者(J.ベルナール)によるものであったり,総合医(R.アッシャー)によるものであったり,小児科医の2人(H.アスペルガーとR.メドウ)によるものである*8.さらに,1980年のDSM-IIIによって精神医学の言説に導入された変革以来,発見という名に値するものはなにもない.
 私たちの研究では,妄想の概念について2つの先行研究を中心に据える.一つは,精神病性妄想(デリール)(délire psychotique)と夢幻様仮性妄想(デリリウム)(délirium onirique)の区別である.フランスの臨床の言語と文化には,精神病性妄想と夢幻様仮性妄想の区別を消し去ろうとする向きもあったが,これは非常に精密に扱うべき重要な問題である〔私たちは,この2つを明確に区別している〕.もう一つは,主体が自ら責任をとろうとする一つの罪から発生する妄想,つまりメランコリー性妄想(délires mélancoliques)と,主導権が《他者》(l’Autre)から到来することを証言している妄想,つまり慢性妄想(délires chroniques)の区別をするべきである.後者の慢性妄想はある論理を開花させるのであるが,私たちはその独特の発展形態の設計図を予め知っている.これは,マニャンの「系統的経過をとる慢性精神病(délire chronique à évolution systématique)」によってその輪郭が明確なものとなっており,特権的な臨床記録であるシュレーバー控訴院長の『ある神経病者の回想録』に適用できる.シュレーバー控訴院長をひろくパラノイアとみるか,あるいはスキゾフレニーとみるか,この2つの病理のどちらかの特徴に帰着させることは,単純すぎる還元的手法である.パラノイアとスキゾフレニーの2つが混ざり合った症候群を呈していることから,この症例を例外的な症例とするのは,図式的で限定的なアプローチである.その他の診断,とくに慢性幻覚精神病(psychose hallucinatoire chronique)と体系的パラフレニー(paraphrénie systématique)は除外できると主張することは適切であろう.さらにいえば,シュレーバー控訴院長の病には,緊張病的な病相もあるし,メランコリー性の病相もある.要するに,フロイトとともに「パラノイア性の現象とスキゾフレニー性の現象はいかなる比率でも混ざり合うことがありうる」*9ということを思い起こさなければならないのである.しかし一方では,気分障害を伴わない精神病はほとんどない.妄想の研究をそれぞれ独立した様々な形式に細分化したり,妄想におけるある特定の瞬間を特権化したりするのではなく,私たちはむしろ妄想を広範に把握しようと思う.そして,妄想の発展におけるすべての病相は,妄想の論理が発露する条件として説明できるものとして捉える.臨床像の形態が,それぞれ特定の享楽の様態によって維持されていると考えないとしたら,それは時代錯誤に他ならない.
 認知症(démence)*10と狂気との混同が息を吹き返してきている時代にあっては,20世紀初頭にヤスパースが言っていたことを思い起こすことが有意義である.「妄想を把握しようと思うなら,〔妄想をもつ患者には〕知能の衰弱があるにちがいないという先入観を捨てさることが不可欠である.(……)妄想性のプロセスが一度終結し,完全に分別ある状態となった人が,誰もがありえないと即座にわかるような妄想を固持していて,「実際にそうなのです」「疑うことはできません」「わかっているのです」などとはっきりと断言することがある(妄想の他にはすこしも症状がないという症例も稀にある).私たちは,知能の衰弱は存在せず,あるのは心的機能の特異な変化であるということを認めなければならない.真性妄想(idées délirantes)にあっては,間違いは内容にあるのであって,思考の形式はまったく無傷のままである」*11 ドイツの力動的精神医学に教育を受けたラカンは,最初の著作においてこの考えを自らのものにしている.ラカンは,1932年に「欠陥としての精神病という学問的構想」に対する反対意見をつよく主張している.「精神病にはプラスの恩恵が存在することをアプリオリに退けることはできない」 精神病は「積極的な創造のための潜在能力」*12を直接につくりだすのであって,この潜在能力は破壊されずに残されていたわけではない.私たちはここで妄想の創造的能力を強調しておこう.R.ワーテルが言うように,精神病者は「無能や怠慢,挫折とみなされるには程遠い.むしろ彼らの非人間的な努力をみるべきである.非人間的というのは,それが世界をすべて作りなおすという超人的な努力であるからだ.私たち神経症者が神の務めを享受しているのは,このためである。」*13
 フロイトラカンが,パラノイアの研究によって精神病に接近したことは誰でも知っている.しかしながら,現代の精神分析の研究では,精神病と妄想の機能を把握するための認識論的な特権をスキゾフレニーに与えていることが非常に多い.パラノイアからスキゾフレニーへのこの方向転換は,その本質において,自我の脆弱性というモデルの優位によるものである.自我の脆弱性というモデルは,精神病性障害を非常に容易に説明できるのである.私たちは精神分析の領野におけるフェダーン の論文を紹介しなければならないが,一方で彼の見解は,精神病に心的統合の上位機能の脆弱化を認め,下意識の自動症的な解放を想定するジャネの研究と類似している.フェダーン*14の研究は,固有の法則をもつ無意識のダイナミクス(dynamisme)というフロイトの発見を混乱させることに一役買っているのである.無意識の固有の法則は,パラノイア,そして体系的パラフレニーにおいて特に識別可能であることが明らかとなっている.しかし,これらの類型は広範な「統合失調症」という枠に押しこまれ,消滅してしまう傾向にある.それは,精神分析家と認知主義者のどちらにとっても,「統合失調症」という枠は,精神病を欠陥として捉えるアプローチにより適合するからである.無意識のダイナミクス(dynamique)の能力を強調し,思考の欠陥という考えを退け,視点を転換することが重要である.シュレーバーという症例の強力な教えの一つは,細心の注意を払って注釈されてはいるが,もはや不可思議なものではない.スキゾフレニー,パラノイア,パラフレニーのあいだが地続き(continuum)であるということは,それら3つを超えた精神病的防衛の論理が働いているということを明らかにしているのである.

*1:訳注:フランスでは,sujetの語で「患者」と精神分析の意味での「主体」の両方をあらわす.本書では,文脈に応じて二つの訳語を使い分けた.

*2:訳注:精神病後抑うつ(post-psychotic depression),あるいは抗精神病薬の投与による過鎮静のことか.

*3:Lacan J., De nos antécédents. In Ecrits, Paris, Seuil, 1966, p.66.

*4:訳注:エミール・クレペリン.ドイツの精神医学者.精神医学教科書を執筆し,幾度も改訂を重ねることによって,フランスとドイツの精神医学の疾患分類を体系化した.

*5:訳注:ウジェーヌ・ミンコフスキー.ロシアに生まれ,フランスで活躍した精神医学者.主著『精神分裂病』『生きられる時間』.「精神的土台(fond mental)」は『精神病理学概論(Traité de psychopathologie)』(未邦訳)に登場する術語.

*6:Miller J.-A. Compléments aux journées des cartels sur la psychose. In Lettres de l’Ecole freudienne de Paris, 1979, 27, p.244.

*7:Lacan J., Petit discourse aux psychiatres, Conférences inédite à Sainte-Anne du 10 novembre 1967.

*8:私たちは,1940年代における米国精神科医によるボーダーラインという概念の導入を臨床に対するしっかりとした寄与であるとは考えていない.(cf. Maleval J.-C., Les variations du champ de l’hystérie en psychanalyse, in Hystérie et obsession, Paris, Navarin, 1985, p.151-164.)

*9:Freud S., Remarques psychanalytiques sur l’autobiographie d’un cas de paranoïa(1911), in Cinq psychanalyses, Paris, PUF, 1967, p.320.

*10:訳注:痴呆のことであるが,現代的な精神医学の文脈では,統合失調症のさまざまな障害の基盤であると考えられている「認知障害」のことを指すと捉えることが望ましい.ラカン学派では,精神病者は認知に障害をもっているとは考えない.

*11:Jaspers K., Psychopathologie générale(3ème edition 1922), Paris, Alcan, 1933, p.86(→仏語リプリント版p.91,邦訳『精神病理学総論(上)』p.148,岩波書店

*12:Lacan J., De la psychose paranoïaque dans ses rapports avec la personnalité(1932), Paris, Le Seuil, 1975, p.291.(邦訳『人格との関係から見たパラノイア精神病』,p.305)

*13:Wartel, R., , Sur l’enseignement de la psychiatrie, in Les psychiatres et la psychanalyse aujourd’hui, Groupe de recherche et d’application des concepts psychanalytiques à la psychose, Paris, 1988, p. 86.

*14:訳注:ポール・フェダーン.オーストリア精神分析家.自我境界の概念を発展させ,精神病では自我と外界のあいだの境界が脆弱となるとしてさまざまな精神病症状を説明した.また精神病の治療に関しては,自我の強化が必要であると考えた.