à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

Catherine Millot - Horsexe: essai sur le transsexualisme

書名:Horsexe: essai sur le transsexualisme
著者:Catherine Millot
出版社:Point Hors Ligne(5, rue Thouin, 75005 Paris)
出版年:1983
146ページ

『外れた性:トランスセクシュアリズムについての試論』

著者について:カトリーヌ・ミヨはソルボンヌ大学で哲学を研究した後,1971年からラカンと分析に入り,後にパリ第8大学精神分析学部教授となった.ラカンの晩年の側近として知られていたが,1989年にフロイト大義派(Ecole de la Cause freudienne)から離脱した.

目次:
第1部 ピガール からキュベレー
 第1章 シーメール(SHE-MALE)
 第2章 精神病における女性-への-推進
 第3章 性転換のための鍵
 第4章 あまりに優しい母
 第5章 王女の部屋にて
第2部 去勢の儀式
 第6章 キュベレーとアッティス
 第7章 スコプチ宗派
 第8章 《母》は何を望むか?
第3部 女性の性転換
 第9章 彼女たちは同性愛者なのか?
 第10章 ヴィクトールとその他:希望
 第11章 ガブリエル,あるいは天使の性
結論

内容の要約:
第1章では,まず男性の性転換症*1が紹介される.「ジェンダー」の用語をつくったアメリカの自我心理学者ロバート・ストラーの議論を追いながら,性転換症が紹介される.フェミニストには,男性の性転換を「ステレオタイプな女性の性役割を強化するもの」としてひどく嫌う論者もいる.しかし,性転換症者は謎めいた「女性なるもの」に対する明確な確信をもっており,この確信と大他者(外科出術などの科学技術)への要求が結合するところに性転換症は位置づけられる.
第2章では,リヒャルト・フォン・クラフト=エビングが『プシコパチア・セクスアリス』で紹介した男性の性転換症の症例が詳しく紹介される.この症例は性転換症に加えて,明らかな精神病(統合失調症)の症状をも呈していたことから,性転換症と精神病の関係の強さが指摘される.ラカンは精神病では性転換へと向かう傾向があると指摘している.またフロイトは症例シュレーバーに関する論考で,「女になって成功されたらどんなに素敵なことだろう」という性転換の幻想がシュレーバーの発病の契機となっていたことを指摘していた.
第3章では,まずラカンの「父の名」(父性隠喩)と性別化の式が紹介される.そして,性転換症は,「父の名」が排除された精神病者にとって,欠如した父の名の代理となることが述べられる.つまり,性転換症者にとって「女性なるもの(La femme)」は父性の機能の代理なのである.最後に,このことをボロメオの結び目トポロジーから説明する仮説が提唱される.R,S,I(現実界象徴界想像界)の3つの輪は,通常では「父の名」によってつなぎとめられて安定した構造をとる.しかし,性転換症者ではSとIだけが繋ぎとめられており,そのため性転換症者は性の現実(R)をSとIの結合体に一致させることを要求するのである.
第4章では,再びロバート・ストラーの議論が論じられる.ストラーは母と子供の密着した共生的関係が性転換症の原因となると論じていた.しかし,フロイトが「性理論三編」で論じるところによれば,母は子供にとって「失われた対象」としてのみ登場するものであって,ラカン的にいえば,母はそもそも大他者として登場するのである.心的現実における母と子供の関係は決して共生的なものではない.
第5章では,英国の著名なジャーナリスト,歴史家,旅行作家であるジャン・モリスが取り上げられる.モリスは男性であったが,内心では自分は女性であると感じ,身体との違和をもっていたことを自伝に綴っている.モリスは最終的に性転換手術をうけるが,そのときに自らが「純化」されたような喜びを感じたという.
第2部(第6章~第8章)は,性転換手術がはらむ「去勢」という行為についての研究である.第6章では,ローマ神話の「大いなる母(Magna Mater)」に相当する神であるキュベレーとアッティスの神話(母キュベレーの嫉妬をかったアッティスは,恍惚のうちに自ら性器を切り落として死ぬ)が取り上げられ,キリスト教の歴史からこの神話が概観される.
第7章では,18世紀のロシアで生まれたキリスト教の異端宗派である「スコプチ」が取り上げられる.この宗派は,この世の諸悪の根源は肉欲であるとし,これを根絶する目的として信者には去勢を行うことで知られる.スコプチもまた,教義と倫理がSとIとして結びつき,R,S,Iの3つの輪を解体させないために,Rの儀式として去勢を求めたのだと説明される.
第8章では,再びキュベレーとアッティスの神話が取り上げられ,これが享楽の問題として整理される.キュベレーがアッティスに求めていたのは,アッティスが自らの欲望を犠牲にすることである.自らの欲望を犠牲にし,去勢された人間は,大他者の享楽の対象となる.キュベレー崇拝やスコプチの信者にみられる禁欲主義は,欲望を拒絶して,謎めいた《他の享楽》(jouissance de l’Autre)を問題としようとする試みである.欲望をつかさどるファルス享楽は,この《他の享楽》に対する障害として機能する.
第3部(第9章~第11章)では,ここまで論じてこられなかった女性の性転換症について論じられる.女性の性転換症は,男性の性転換症とは構造が違っている.この第3部の扉ページに引用されているラカンの記述の通り,「自らが男性の質をもつと主張する女性〔性転換症者〕は,男性性転換症者の妄想的な様式とは対称的」(Ecrits, p.735)なのである.
第9章では,再びロバート・ストラーの議論が扱われる.ストラーは,女性の性転換症の原因は,子供と母親との共生的関係によって育まれる女性性へと向かう動きが,父親の役割の強さによって阻害されることにあると考える.しかし,先にみたように子供と母親との共生的関係はそもそも存在しない.さらに,クラフト=エビングが記載しているサンドール・ヴェイの事例が取り上げられる.この事例は,幼少期から男性として育てられた女児が,あるとき女性であることを知らされるが,その後に自ら男性として生きた,というものである.サンドール・ヴェイは男性として,女性と結婚しようとするが,その女性の父親から偽証罪で訴えられる.このように,女性の性転換症者は,パートナーのガールフレンドに対してときに詐欺にまで至るほどまでに男性的に振る舞う.一方,フロイトが記述した女性同性愛症例は,男性器がなくとも愛することができることを示そうとしていた点で女性の性転換症者とは異なる.女性の性転換症者は,男らしさを必要とするのである.
第10章では,男性の性転換症の均一性に比べて女性の性転換症は多岐にとんでおり,男性の場合でよくみられる身体変容の妄想も極めて稀であることが指摘される.ついで,著者が面接した女性の性転換症者ヴィクトールの事例が紹介され,最後には女性の性転換症者は男性でも女性でもない第3の性,「天使の性」を望んでいる可能性が指摘される.
第11章では,著者が天使にちなんで「ガブリエル」と命名する女性の性転換症者の事例が論じられる.彼は「(性転換症者は)何か抽象的なもので,まるで身体をまったく持たない魂のようなもので,どこかのなにものかの相補的なものだ.…女性たちみんなが自分に興味をもつべきだと感じる.私は女性を女性として探し求めたりしない.私は女性たちにとって相補的な存在なのだ」と述べる.ガブリエルは女性にかけているもの,つまりファルスそのものになっているのである.ファルスそのものは男性でも女性でもなく,それゆえそれは第3の性である.
結論部では,これまでの議論が振り返られ,男性と女性の性転換症者ではその位置が異なることが再確認される.男性では《女性La Femme》になることが欲望され,女性では男性になることが欲望されるのである.しかし,一方で両者には共通点もあり,それは両者がともに「外れた性(horsexe)」へと関係しているからである.最後に,著者は神経症者の精神分析と対比しながら,性転換手術に対する提言を行っている.性転換症者が科学(外科手術)という大他者と出会うとき,そこにはすでに大他者の欲望が現れている.大他者は現実的な去勢を望んでいるのであり,手術を禁止する理由はない.

本書の位置づけ: 1980年代のフェミニズムや心理学者の見解と対決しながら,ラカン派の立場から性転換の意義を論じた書物で,以後のラカン派の精神病・倒錯論のさきがけとなった重要な著作である.とくに,性転換を精神病の根本的事態である「女性-への-推進」として肯定的に捉える点が他の学派にはない独自の点であろう.つまり,通常,精神病者が性転換手術を受けようとした場合,判断能力が十分でないと考えて手術が拒絶される傾向にあることに対して,ラカン派では,精神病者の女性化は欠如した「父の名」に対する代理となると肯定的に考えるのである.また,この著作では「父の名」の排除による精神病や,ラカンの性別の論理式を実例を交えながら読み解く理論的な解説としても有用と思われる.
 また,本書は近年のフランスにおける性転換症をめぐるさまざまな議論の呼び水となったことが知られている.このあたりの事情については,古橋忠晃,鈴木國文による「フランス語圏における性転換症に関する議論――80年代の一提言と今世紀に入っての動向――」 に詳しいが,20世紀以降のフランスでは精神分析の内外において本書をもとにした議論が盛んに行われていることが紹介されている.21世紀に入ってから(プレシアドの一件以来)ふたたび注目があたりつつある文献である.



性の外部――性転換に関する試論
カトリーヌ・ミヨ

1部 ピガールからキュベレー

1章 シーメール[SHE MALE]

 ある精神病院の廊下では,プロレスラーの体格なのにミニスカートをはいているような奇妙な人物とすれ違うことがある.足にはハイヒールをはき,顎は青く,しっかり剃った頬にはファンデーションがぬられている.この人物の名はロベール,れっきとしたトランスセクシュアルである.彼は女性解放運動の女性たちのためならいつでも戦う準備があるが,それにしては好戦的な人物である.ロベールは妄想の瀬戸際にいる.彼は普段なら売春宿の小間使いとして働いているのだが,ときどき「抑うつ」の兆候がでると閉鎖病院に助けを求めに来るのである.

 一方,塀の向こう側では,キャバレーやいろんな種類のゲイバー[boîtes d'homosexuels]がある.そのなかでは,マリリン・モンローの歌にあわせてスーパースターの物真似をする見事なブロンドの髪の人々がいて,「本物の女性」になるための手術代を稼いでいる.ここでは,節度ある変装[travesti soucieux],つまり専門家の定義によれば近所の人を驚かせないように女装を隠す人々と,トランスセクシュアル,つまり男らしさを持てあますあまりそれを憎悪,軽蔑し,男らしさを全力で拒絶する人々との境界ははっきりしない.ピガール地区のある通りでは,夜になるといかがわしい人々を求める客があらわれ,すべての境界がごちゃまぜになる.もはやこのブラジル人美女が女性なのかどうかわからない.もしかしたらホルモン剤で豊胸し女装した,立派な男性器をもつ男性なのかもしれないし,はたまた人工の腟をもち,もはや男性としての身体的特徴の何もない「性転換した(transformé)」した元男性かもしれないのである.顔と体を女性化するための美容外科手術(鼻,顎,頬骨,眉弓,手,足),そして性転換手術はヨーロッパ全体でつぎつぎと行われるようになり,アメリカではもっと以前から行われてきた.無数の若き男娼がこの手術のためにお金を使っているが,何が彼らをそこに駆り立てるのかは判然としない.それは男娼の市場の法則なのかもしれない.ペニスのある女装者とペニスのない女装者のどちらがより売れやすいのか,という顧客の需要があるのかもしれない.あるいは,秘められた決意や天性の素質があるのかもしれない.

 トランスセクシュアルの人々に出会うのは,このような世界の境界だけではない.どこでだって出会うことができる.あなたの家に牛乳の配達にくる女性が,実はある家庭の父親であるかもしれないのである.修道女,医師,看護師,被雇用者,小役人も性別を「変える」.オランダでは,性転換の手続きを容易にするための努力が行われている.性転換の道をひらくために,心理学者からの意見聴取が十分に行われ,戸籍法の性別も変化することになる.女性になった男性たちは,結婚もできるし,子供と養子縁組することもできる.男性になった女性たちは配偶者と人工授精をし,合法的に自分の子孫の父親になることもできる.フランスでもこのような事例はすでにあり,オランダの例がはじめてなわけではない.フランスでも性転換に関する法改正が進んでいる.フランスの法学者は実に前衛的であり,自己決定権が個人の性別にまで及ぶことが目前となっている.戸籍上の性別の変更は性転換手術が前提となっているのではなく(トランスセクシュアルには男性器や女性器の切除を思いとどまる人々も多い),生まれつきの性を保持したままのトランスセクシュアルにも同じ権利を認めることが議論されている.まもなくこの法はストラー主義*2となり,(性器によって決まる)性別と(同一性によって決まる)ジェンダーの区別をするようになるだろう.あるトランスセクシュアルは「われわれによって,SFが現実となる」と私に語った.

 これまで,トランスセクシュアルは30歳になる前に自らの目標を達成することは難しく,さらには彼らが出会う外的な障害のすべてが性転換を妨げていた.このような事例には自殺の危険性があることが精神科医にとって決定的な議論となり,彼らを炊きつけた.今後は,18歳の思春期の少年が進もうとしているこの道を妨げるものは何もない.

 アメリカでは,トランスセクシュアルは社会現象として広がっており,フェミニストを脅かすまでになっている.ジャニス・レイモンドは最近の著作でトランスセクシュアルをつよく非難している.すなわち,性転換は,男性が性の闘争における覇権(hégémonie)をたしかなものとするために発明した最終手段である,と.そして,男性は自分たちの領地で女性と張り合おうとしており,自分たちが消滅しつつある種族であるとして女性を脅しているのだ,と.レイモンドは「シーメール(she-male)」(外科手術で女性に変身した男性)と呼ばれる人の宣言を引用している.

 「遺伝学上の女性は,トランスセクシュアル的経験を通して得られる勇気,華麗さ,思いやり,憐憫の情,視野の広さをもっているとは言えない.トランスセクシュアルは,月経と妊娠という鎖から解き放たれており,すべての面で遺伝学上の女性よりはるかに優れている.未来はトランスセクシュアルのものになる.西暦2000年,60億の人口を養い枯渇した世界では,子どもをつくる能力は切り札とならないだろう」 そう,性転換はマルサス人口論の化身の最新版となるのだろう.

 性転換はまた他の機能ももっている.ステレオタイプな性を強化し,女性を従属的な位置に維持し,その位置から自らの自由を求めるという慣習的な役割に女性を向かわせる機能である.実際,トランスセクシュアルたちが引き合いに出す女性の観念は,完全な体制順応主義のものである.トランスセクシュアルにとっての女性の同一性の二つの極は有名女優と専業主婦であって,そこからの出口はない.トランスセクシュアルの評価する女性らしさ(féminité)は,医師や精神科医,内分泌学者,外科医と同様に性役割に従順である.トランスセクシュアルと医師たちは手をとりあってテストを組み合わせて女性らしさの基準をつくる.そのテストの結果によって,性転換手術が許可されるかどうかが決定される.そのうえ,トランスセクシュアルは来るべき〔本来の〕性役割に向けたトレーニングに積極的に参加する.そのトレーニングは行動主義という確かな方法によるものであり,本物の条件付けにトランスセクシュアルたちを服従させるのである.それゆえ「女性らしさ」の基準は「生物学的な」女性の役割に一致する度合いを測定するように作られる.もしテストの結果が十分でないことが明らかになったなら,よりよい適応を目標として行動療法が行われる.多くの国で盛んになってきた「ジェンダーアイデンティティ・クリニック」は,性のステレオタイプに疑問を抱く女性たちの歩みを元通りにするという政治的な目的に奉仕する「性役割のコントロール」の中枢になろうとしているのである.ジャニス・レイモンドにとって,トランスセクシュアルの女性らしさは「自然な」女性のそれとは何の関係もないものであり,まったくの男性的な人工物であり,男性に典型的な幻想(fantasme)である.そしてトランスセクシュアルの実験は,家父長制権力による女性の制圧の権化なのである.ジャニス・レイモンドにとっての疑念,つまり性転換は世の女性たちに対する粛清の企ての攻撃兵器なのではないかという疑念は,胎児を男性化して意図的に男児を出産し,それによって人口増加問題を解決しようとしたポストゲート教授*3の「男児産み分け薬(male child pill)」に対するものと同型の疑念である.

 性転換が性を変えるという夢に応えるのであるならば,それはトランスセクシュアルの夢であるのみならず,トランスセクシュアルでない人々をも魅惑するものである.まったくの象徴的なもの(le symbolique)かつ二分化したものであり,性役割を固定する想像的なもの(l'imaginaire)であった性別の差異は,最終的には現実的なもの(réel)の領域に属する.言い換えるなら,性別の差異は,人々が躍起になって追い払おうとしていた還元不可能なものの秩序に属するのである.この点で,性転換は現実的なものの位置を変化させるのだろうか?

 いずれにせよ,これは医師と法学者の夢でもある.彼らは限界を知らない権力という幻想,つまり医師の場合では死(これもまた別の現実的なものである)を取り除く力という幻想,そして法学者の場合では法を制定し人間の現実を余すとこなく完全に統治するという幻想をその本性上もっている.性転換は現実界の国境を押しのけ,限界を突破する夢に応えているのである.

 性転換,とりわけ男性の性転換は,女性たちにも夢を見させるものである.性転換は,まったくといっていいほど捉えどころがなく,女性たち自身にとっても異質なものとして立ちはだかる謎である女性らしさの本質に関する知へと接近することを,女性たちに夢見させるのである.トランスセクシュアルたちは,自分は女性の魂を持っているが,その魂は男性の身体のなかに閉じ込められていると主張し,その〔身体と魂の不一致の〕訂正をもとめる.このようなトランスセクシュアルたちは,疑いや問いをもたずに確固たる性的同一性をもっていると自負する唯一の存在であろう.トランスセクシュアルの男性は,女性についての純然たる観念を持ち,さらには女性の定義すら持っている.「女性は親切で優しい」と言ったトランスセクシュアルの男性がいたが,これには皆苦笑させられるに違いない.しかし,真実の時において,ただ一人がそれを信じているのだ.美もまた女性が強いられる特徴のひとつであるが,これについては後に立ち返ることにしよう.

 トランスセクシュアルの男性には,フェミニストが彼らトランスセクシュアルのことを,女性の立場に賛同し,男性の特権を騎士道的に辞退し,女性の足元にひざまずく者と捉えてくれることを夢想するものもいる.たしかに,ロベールのようなトランスセクシュアル男性には,「宮廷愛」とのアナロジーを認めることができる.ジャニス・レイモンドが証言したように,アメリカにはフェミニスト陣営に入れてほしいと懇願するトランスセクシュアルがたくさんいる.宮廷愛的な位置は,性転換を行って数年後に「レズビアン」になったトランスセクシュアル〔男性〕にも同じように見出される.彼らは,自らの女性らしさを認めてくれる男性との愛情関係を探求することを諦め,女性らしさを承認してもらうために女性のもとに向かうのである.

 女性同性愛への方向転換はよくみられるものであり,コーレット・ピアが『彼女たち…〈変装者〉』において記載し,また同様にジャニス・レイモンドも記載している.レイモンドの見解では,これもまた家父長制の策略である.「手術によるサッポー 」*4はレイモンドの本のある章のタイトルである.この「トランスセクシュアルによって作られたレズビアンフェミニスト」(ここでレズビアニズムとフェミニズムは等しいものとして扱われる)は,女性たちのあいだの親密さに侵入するという古くからの男性のファンタスムの実現をあらわしている.レイモンドによれば,これはまったくの精神的レイプであり,女性の外見の向こう側にみえる,取り除きえない男性らしさの発露以外の何ものでもないという.この侵入は,かつて宮殿の守衛の職についていた宦官のようなやり方で,狡猾に女性に対する支配を実現しようとするものである.

 いまや性転換は社会現象であり,さらには私たちの文明化の症状なのだ.この理由から,彼らは変幻自在であり,彼らをステレオタイプに押し込む最小限の定義以外には当てはまりようなない.つまり,トランスセクシュアルとは,自らの本当の性的アイデンティティが生物学的性別とは反対であるという信念にもとづいて,反対の性の外見に合致するために自らの身体を改造することを要求する人物である.実際,性転換とは確信と,他者に宛てられた要求との接合である.この要求は新しいものである.なぜなら,その要求をかきたてるもの――すなわち科学が為すもの――が供給されていることが前提とされているからである.外科医がいなければトランスセクシュアルは存在しないし,内分泌学者がいなければトランスセクシュアルは存在しない.この意味で,性転換は本質的に現代的な現象なのである.しかし,科学を待つことをしなかった確信もまた存在した.1950年代の論文は「古代の病の流行型」というタイトルをつけている.実際,すでにエスキロール*5はこの現象を記述していた.19世紀の性科学者を調べてみても,ハヴロック・エリスとさらにはクラフトエビングの書物のなかに,彼らの時代においても,まだそれと呼ばれていなかったトランスセクシュアルたちが存在していたことの証言をみつけることができる.


2章 精神病における「女性-への-推進(pousse-à-la-femme)」

 クラフトエビングは〔今日の〕性転換に相当する症例を,性倒錯として位置づけているが,この症例群には「精神-性的な両性具有(hermaphrodisme psychosexuel)」から「妄想的な性的変身(métamorphose sexuelle paranoïaque)」に至るまでのさまざまな度合いのものがありうる.彼は同性愛からパラノイアへの移行現象として考えていた症例を提示して,私たちに素晴らしい資料を残している.この資料には,「性転換」という用語が登場する以前にもトランスセクシュアルが存在したことをしめす驚くべき証拠が残されており,それは数多くの点でロバート・ストラーの記述にも一致するものである.なかでも,あるハンガリーの医師が書いた自らの人生の物語*6は非常に詳細なものであり,トランスセクシュアルの位置に関して,これまでこの主題に関して収集された精神医学文献の症例集よりもずっと多くの貴重な情報を提供してくれている.

 彼は自分の子供時代のことを報告しているが,そのいくつかの特徴はストラーがトランスセクシュアルの子供たちに見出したものと一致する.彼は非常に美しく,そのうえ母親の近くに居続けることを何よりも好んだ.母親は彼の「すべて」だったのである.女の子の遊びに熱中していた彼は,ときおり自分を男の子にふさわしいものの秩序へと立ち返らせ,自分にふさわしいものに素直に従おうとした.彼は仲間たちの行動を真似て,「男の子らしく」しようとした.彼は子供の頃から,女性の皮の手袋の香りに魅了され,手袋に指を通していたことを思い起こしている.ストラーもまた,トランスセクシュアルには女性の衣類を身につける快楽や,特定の織物の皮と接触する快楽を指摘している.これもまた,トランスセクシュアルを惹きつける変装としての女性ものの衣類である.

 彼は女の子らしい振る舞いのせいで仲間からからかわれることに耐え,男性用衣類に使われている生地のごわごわした触り心地に苦痛を感じながらも耐えていた.「私の皮膚の柔らかさは少し珍しいほどのもので,おそらくそのために私は自分を女の子だと考えるに至ったのだろう」と彼は書いている.12歳のときには女性になりたいとはっきり言った.「目標を達成するためなら,去勢手術のためのメスを恐れないだろうと思う」と彼は続けている.

 若い男性であった彼は,自慰にふける(ストラーは反対に,トランスセクシュアルにはこのような〔性的な〕実践はたいてい欠如していると記載している.)彼はこの行為のあいだ,自らが〔男性と女性とに〕二重化された男性であると空想していたが,しかしまだ男性への欲望をもっていたわけではなかった.ある女性と性的関係をもったとき,彼は女性の位置を自分のものとして取り入れていた.

 状況の不幸さのために,彼は二回の自殺企図をおこなった.同じ時期に,精神病症状にも苦しんだ.一度は,2週間も眠ることなく過ごし,さらには幻視や幻聴もあったことを彼は明らかにしている.「私は死者たち,そして生ける者たちと語っていた.それは今でもまだ私のところにやってくる」

 彼は医学の勉強を終えると,衛生兵に志願し戦争に参加した.つづいて彼はあるエネルギッシュな女性と結婚し,彼女をとても愛した.彼にとって彼女は「完全に自分をゆだねられる(se livra entièrement)」存在であり,彼はまったく女性的な愛情で彼女に接した.この夫婦からは5人のこどもが生まれる.その頃,彼は「女性の病気」の餌食になることがたびたびであった.例えば,前立腺のことで言えば,まるで出産するかのように前立腺から何かを排出しなければならないという欲求を感じていた.これが身体的変形の感覚のはじまりであり,この感覚は後に大麻中毒になったときにその頂点を迎える.このとき彼は,自分の性的部分が身体の内側にひっこみ,骨盤は膨張し,乳房が胸の上で成長する印象をもった.この印象から彼は「言語を絶する快感(volupté indicible)」を得た.朝に目を覚ましたとき,この快感は自分が「完全に女性に変身する(tout à fait transformé en femme)」ように感じられる恐怖に変わる.自分が女性であるという観念が頭から離れずに持続し,「男性の仮面をつけているに過ぎないという思いが今日では一段と強烈なものとなった.その他のあらゆる点からみても,そしてどの部分においてでも,私は自分を女性と感じる」

 彼は毎月,月経の感覚を体験し,快感(彼はそれを女性的なものであるという)は妻と性関係を持つときに広がる.その性関係は「レズビアンの愛」の秩序に属するものであると彼は感じていた.彼はエロティックな誘惑を感じ,それに抗するが.この誘惑は彼に「中立的な性になること,あるいは自らを中性化すること」を欲望させた.彼は職業的・社会的生活のなかで喜劇を演じる感覚に苦しんだ.とても長くなるが,次の感動的な一節を引用しよう.「最終的に,彼は自らのマスクを捨て去ることができる瞬間を待ち望んだのだが,その瞬間はやってくることはなかった.彼は自らの逆境に対する慰めを,アクセサリーやスカートなどを身につけ,部分的に女性の性質を身にまとうことに見出すことができた.というのも,女装した状態で外出することはできないし,男性の格好をした女優であると感じながら職業上の務めを遂行することは容易ではなく,そんなことをすればどのような結果になるか分からないからだ.ただ宗教だけが私たちを大罪から守ってくれている.しかし,真の女性としての誘惑が個人に近づくとき,そして真の女性としてその誘惑を感じ,それを生きざるをえないとき,自分を女性であると感じる個人が経験する苦悩を宗教が取り除いてくれるわけではない.高い知性をもち,周囲から類まれなる信頼を享受している一人の男性が,想像的な外陰部と戦うことを強いられているとすればどうだろうか.つまり,お固い仕事を終えたあとに,最高の貴婦人の身なりを調べ,女性の目からみてその貴婦人を批判し,その姿のなかに彼女の考えを読み取ることを強いられているとすれば.ファッション雑誌(私はファッション雑誌を幼少期から好きであった)が科学的書物と同じくらい私たちの興味をひくとすれば! 彼は妻の考えを見ぬくが,人が自らの状態を妻に隠さなければならないとき,妻もまた女性であるからには,同時に妻のほうでも彼の魂と身体が変形してしまったことをはっきりと読み取ることができる.女性の弱さを克服するために支えねばならない戦いを引き起こす気苦労といったら!」

*1:トランスセクシュアルのことであるが、脱病理化以前の議論であり、しかも「病理」であることを前提とした議論であるため、便宜的にこう表記した。より適切な案がある場合はコメントにいれてください。

*2:アメリカの精神分析家ロバート・ストラー.生物学的性別とは別にある男性または女性としての同一性を「ジェンダー」と名付けた.

*3:ジョン・ポストゲート.人口増加を抑えるために,夫婦の第一子を男児にする薬の必要性を主張した.

*4:サッポー.ギリシアの女性詩人.「レスビアン」の用語は,サッポーがレスボス島出身であることに由来している.

*5:J.E.D.エスキロール.フランスの精神医学者.

*6:『Psychopathia Sexualis』12版の症例129.