à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

神経症者の個人的神話——あるいは、神経症における詩と真実

Lacan, J., Le mythe individuel du névrosé: ou poésie et vérité dans la névrose. Seuil, 2007.

神経症者の個人的神話——あるいは、神経症における詩と真実

 [11]私はみなさんに、新しいと言わざるを得ない、それだけに難しい主題についてお話したいと思います。
 この話が難しいのは、話自体が内在的に難しいということではありません。この難しさは、主題が、新しいものであるような何かを扱っているがゆえのものであり、私の分析経験と私の試みが——セミネールと呼ばれている教育活動の中で——分析の根源的な現実réalitéを深掘りしようとしていることから垣間見えることがらそのものに起因しているのです。
 だからこそ私は、ここで扱っていることに接近していく際のほんのさわりの部分においても、なんらかの難しさが出てきたとしても、みなさんに前もってご容赦をお願いしておきたいと思います。

●1

 [12]精神分析は、科学全体の中で、実に特殊な位置を占めている学問であるということを、前置きしておかなければならないでしょう。よく「精神分析は本当の意味での科学ではない」と言われますが、それは逆に言えば精神分析は単に「技芸artである」ということを含意しているようでもあります。もっとも、技芸とは単に技術、操作法、レシピ集にすぎないというふうに理解すれば、それは間違いです。しかし、もしこの「技芸art」という語を、中世においてリベラルアーツと呼ばれていたような、天文学や弁論術、そして算術、幾何学、音楽、文法にまで至る一連の事柄のことについて用いるとすれば、それは間違いではありません。
 このリベラルアーツについては、中世の巨匠たちの生と思考におけるその機能と射程が、今日の私たちにとってつかむことが難しいものになっています。しかし、そうであるにもかかわらず、リベラルアーツを特徴づけているものや、リベラルアーツから生まれたはずの諸科学とリベラルアーツを区別するものが、人間の尺度との根本的な関係と呼びうるものをその前景に維持していることであることは確かです。[13]そう、精神分析は、おそらく、このリベラルアーツに匹敵しうる唯一の学問分野なのでしょう。というのも、精神分析は人間の人間自身への尺度という関係——つまりは、とりわけパロールの使用法に含まれる、自分自身に舞い戻る、汲めども尽きない、循環的な内的関係——を保持しているからです*1
 それゆえに分析経験は決定的に客観化してしまうことができないのです。そこにはつねに、それ自体の只中において、言うことのできないある真理の顕現が含まれています。というのも、その真理を構成しているものがまさにパロールだからであり、ある意味ではパロールはそれ自体本当のところ、パロールとしては言うことができないものであると言わなければならないかもしれないからです。
 他方では、精神分析から生まれた一連の技法が、人間、人間という対象の行動の手段を客観化しようとする傾向があることは確かです。しかし、そういった傾向は、この間主体的な関係によって構成されたものとしての精神分析という根本的な技芸から派生した技法にすぎません。間主体的な関係は、みなさんにお伝えしたように、汲み尽くすことができないものです。というのも、その関係こそが私たちを人間にしているものであるからです。[14]私たちは、その本質を与えてくれる公式においてそう表現するように導かれたのですが、それゆえ分析経験の中核には正しく神話と言われるべき何ものかが存在しているのです。
 神話とは、まさに、真理の定義の中では伝達できないこの何かに、言説的な公式を与えるものです。というのも、真理の定義は自分自身を支えとすることしかできず、それもパロールを構成する言葉が進展するかぎりにおいてのことにすぎないからです。パロールは自分自身をつかむことができず、真理への接近の運動を客観的な真理としてつかむこともできません。パロールに可能なのは、それを神話的な仕方で表現することだけです。まさにこの意味で、ある時点まで、分析理論が間主体的関係を具体化する際に用いられていたのがエディプス・コンプレックスであり、それが神話の価値をもっていると言われているのです。
 今日、私がみなさんにお伝えしたいのは、一連の経験の事実です。その経験というのは、私が例証してみようと思うものです。それは、私たちが分析において扱う対象、たとえば神経症の主体において見出すことができる形成物について例証したいと思っているものですが、分析経験に無縁ではない人々がよく知っていることでもあります。[15]これらの形成物は、分析の核心にあるかぎりでのエディプス神話に対して、私たち自身が分析経験の理解において行うことの進展の相関物であるような特定の構造の変形をもたらすことを必要としています。このことは、裏の意味において、分析理論の全体が根本的な葛藤に、つまりは父への敵対心という媒介によって下支えされており、主体を本質的に象徴的な価値につなぎとめていることを知ることを私たちに可能にします。しかし、後におわかりになるように、これは、おそらくは社会における特別な状況に結びついた、父の姿の何らかの具体的な退潮の関数でもあるのです。経験そのものが、常に退潮しつつあるこの父のイメージと、もう一つのイメージのあいだに広げられているのです。もう一つのイメージとは、私たちの実践によってますます測定できるようになり、それが分析家の身において生じた偶発事であっても測定できるようになったもの——確かにベールに包まれており、分析理論によってほとんど否定されている形ではありますが——それにもかかわらず、分析家は、ほとんど秘密めいた仕方で主体との象徴的な関係において、私たちの歴史の衰退によってまさしく消去されてきまったこの人物の位置、すなわち師——精神的な師、[16]無知の状態にある人物を人間関係の根本的な次元に無知に任じる師、無知の状態にある人物を意識への、知恵への接近と呼ばれるものへと、人間的条件の受け入れへと導いてくれる師*2——の位置をつかんでいるのです。
 神話をある時代のある特定の人間存在の様式に特徴的な根本的関係を想像的な仕方で表現したエポス*3ないし武勲詩の客観化された特定の表象とする定義をあてにすれば、また、この存在の様式の——潜在的であれ顕在的であれ、仮想的であれ実現された形であれ、意味が満ちたものであれ空虚なものであれ——社会的な現れとして理解するならば、私たちが神経症者の体験そのものに神話の機能を見出すことができることは確かです。実際、経験は、このスキーマに適合し、まさに神話が問題になっていると言えるようなあらゆる種類の現れを私たちに提供してくれます。私は、この問題に関心をお持ちの皆さんの記憶に最も馴染んでいると思われる、フロイトの偉大な観察から借りた例によって、そのことを提示しようと思います。
 これらの観察は、定期的に何度も教育上の興味を引き起こすという恩恵を享受していますが、[17]私たちの著名な同僚のひとりが最近、彼の視点からものを言うことで——私はそれを彼自身の口から聞いたこともあります——ある種の軽視をしました。彼が言うには、〔フロイトが症例において用いている〕技法が古臭いものであるのみならず、不器用であるというのです。結局のところ、このことは、私たちが間主体的関係を意識化することでなしえた進歩、そしてセッションのアクチュアリティにおいて主体と私たちの間に打ち立てられる関係からのみ解釈を行うことでなしえた進歩を考慮にいれるとすれば、支持されうることでしょう。ですが、私の対話相手は、フロイトの症例の選択が間違っていたとまで言うべきだったのでしょうか? たしかに、フロイトの症例はそのすべてが不完全なものであるとか、そのほとんどが途中で停止してしまった精神分析であり、分析の断片であるとは言えるでしょう。しかし、そうであるからこそ、私たちはなぜその症例がフロイトによって選択されたのかを熟考し、自問する必要があるのではないでしょうか。もちろん、みなさんがフロイトを信用するなら、ということですが。そして、フロイトを信用する必要があります。
 みなさんにお伝えした発言をした人物が続けて言っているのは、少なくともほんの一粒でもどこかに真理があれば、提示がうまくいっていないという難点があったとしても、なんとか透けて見えて現れてくることができるということを示しているのであって、それは私たちを勇気づけてくれる、ということです。[18]しかし、そのように言うだけでは十分ではありません。それは公平な見方ではないと思います。実際、日々の実践という木は、私の同業者に対して、フロイトのテクストから生じた森の興隆を隠していたのです。
 私はみなさんの注意を引くために、「ねずみ男」を選びました。この機会に、フロイトがこの症例に対してもっていた関心を正当化できることでしょう。

●2

 これは、強迫神経症の症例です。この講演を聞きに来たみなさんのなかに、この神経症の根源や構造とされる、攻撃的緊張、本能的固着などの話を聞いたことがないという人はいないと思います。分析理論の進歩は、強迫神経症の理解の原点に、極めて複雑な発生論的な議論を置いておりますから、強迫神経症の分析で常に習慣的に遭遇する幻影的ないし想像的テーマのあれこれの要素や局面が、「ねずみ男」を読むと見つかるに違いありません。[19]しかし、ひとを安心させるこのような側面は——こういった側面は、読書や勉強をする人々にとって、馴染みの通俗化された思考につきものです——おそらくこの観察の独創性や、特に意義深く説得力のある特徴を、読者に隠蔽しているのかもしれません。
 この症例のタイトルは、ご存知のように、非常に魅力的な空想から取られたものです。その空想は、分析家の手の届くところに主体を赴かせる危機の心理において、引き金となる明白な機能をもっています。それは、拷問の物語であり、特異な光を放ち、さらには実際に有名にもなっているのですが、人工的な手段で興奮させたネズミを、多少なりとも工夫を凝らした器具で受刑者の直腸に押し入れるというものです。この物語を初めて耳にしたとき、主体は魅惑的な恐怖を感じました。しかし、それが彼の神経症を引き起こしたのではなく、そのテーマを現実化し、不安を呼び起こしたのです。ここからあらゆる練り上げが生じますが、その構造については後に見ていくことにします。
 この空想は、確かに神経症決定論を語る上で欠かせないものであり、観察の過程で多くのテーマのなかに見出すことができます。それがフロイトの興味を引いたということなのでしょうか? 私はそうは思いません。[20]そして、それだけでなく、注意深く読めば、彼の主要な興味はこの症例の極端な特殊性particularitéから来ているのだということがわかるでしょう。
 フロイトが常に強調していたように、それぞれの症例は、その特殊性において研究されなければならない、つまり、理論など何も知らないかのように研究されなければならないのです。そして、このケースを特殊なものにしているのは、問題となる関係が明白で、一目瞭然であるというその性格です。この特殊な症例の模範的な価値はその単純さにあり、それは幾何学において、ある特殊なケースが、長くつづく推論の暗闇の下に覆われたままのものに比べて、言説上の性格という理由から論証との関係において目もくらむような明証性の優位をもっているのと同じような資格においてのことです。
 これが本件のオリジナリティであることは、多少注意深い読者なら誰でもわかることでしょう。
 星座——どうして占星術師が言うところの意味でこの言葉を使ってはいけないのでしょうか?——、すなわち主体の誕生、運命、そしてほとんど前史と言ってもよい、両親の結合を構造化した基本的な家族関係を司る本源的な星座は、非常に正確な関係〔=比〕をもっており、[21]変換の式で——つまり、最も偶発的なもの、最も幻想的なもの、この症例にとって逆説的に最も病的であるものとして現れているもの、すなわち、彼の偉大なる強迫的な懸念の最終的な発展状態、危機の引き金と結びついた不安の解決として彼がたどりついた想像上のシナリオとの変換の式で——定義しうることが見出されます。
 この星座は、家族の伝統の中で、両親の結合を特定する一定数の特徴をめぐる物語によって形式化されています。
 まず知っておかなければならないのは、父親がそのキャリアのはじめ下士官であったこと、そして「下士官」のままであったこと、つまり権威の調子がありながらも少々取るに足りない者であったということです。父親にはある種の価値の失墜がつきまとっており、それは同時代の人々の評価においてずっと続いているものであり、虚勢と才気が入り混じったありきたりな人物を形作っています。そのことは、主体によって描写される良い男性像を横切るようにして見出すことができます。この父親は、いわゆる上昇婚をして地位を手に入れた人物です。妻はブルジョア階層のずっと上の方に属しており、彼に生活手段を提供すると同時に状況すら提供し、[22]それは彼ら夫婦が子どもをもとうとするときに生じたことです。つまり、威信は母親の側にあるのです。そして、基本的にお互いをよく理解しあっており、現実的な愛情で結ばれているようにさえ見えるこれらの人々のあいだで最も頻繁に行われるからかいのひとつは、夫婦間の対話からなる一種のゲームです。妻は、結婚の直前に夫が貧しいけれども可愛らしい女性に強く惹かれていたことを面白おかしく言い立て、夫はその度ごとに、それは儚く遠い、忘れてしまった事柄だと断言することによって応戦するのです。しかし、この遊びは、それが反復されることそれ自体がわざとらしい部分をもっているという含みをもちうるのであり、後に私たちの患者となる若い主体に深い印象を与えたことは確かです。
 もう一つの家族神話の要素も、重要でないわけではありません。父は、軍隊に所属していたとき、慎ましく言えば厄介事と言いうる事態に見舞われました。職務上預かった連隊の資金をギャンブルにまさに浪費したのです。そして彼が、自分の名誉、さらには——少なくともキャリアにおける——人生、[23]社会で活躍し続けることができる姿を保つことができたのは、返済に必要な金額を貸してくれた友人の介入のおかげであり、この友人はかくして彼の救世主となったのです。この瞬間は、父親の過去において本当に重要で意義深いエピソードとして、今でも語り継がれています。
 主体の家族的星座はこのように提示されます。その物語は、分析の過程のなかで少しずつ出てくるのですが、主体はそれを現在起きていることとは一切結びつけて考えていません。これらが強迫神経症の引き金となる本質的な要素であることを理解するには、フロイトの直感のすべてを必要としました。金持ちの女と貧乏な女の葛藤は、父親が金持ちの女と結婚しろと迫ったその瞬間に、主体の人生の中で正確に再現され、その時、厳密な意味での神経症が発症したのです。この事実を持ち出すと、主体はほぼ同時に「私は、私の身に起こったこととは確かに何の関係もないことをあなたに話しているのです」と言いました。するとフロイトはすぐにその関連性を見抜いたのです。
 実際、観察の全体像を俯瞰して見えてくることは、[24]主体の星座の初期の要素と、空想的な強迫の最終的な展開が厳密に対応していることです。最終的な展開とは何でしょうか? 拷問のイメージはまず、強迫症者に特有の思考様式に従って、あらゆる種類の恐れ、すなわち、この拷問がいつか自分にとって最も大切な人に与えられるかもしれないという恐れを主体に生じさせます。最も大切な人とはすなわち、理想化された貧しい女性という人物のことであり、この女性は彼が愛——その形式と固有の価値を私たちは後にとりあげますが、それは強迫的な主体に可能な愛の形式そのものであると言えます——を捧げる人物でありますが、さらに逆説的なことに、彼の父親のことでもあるのです——つまり、その瞬間には死んでおり、彼岸において想像された人物像へと還元されている彼の父親のことです。しかし、強迫症者の神経症的構築物がときに妄想的な構築と境界を接することを示す行動へと、主体は最終的に導かれていきます。
 彼は、どうでもよいわけではない対象、つまり問題となった拷問の話——それこそが現在の危機の引き金となったのです——が語られた演習の間に失くしてしまったメガネの代金を支払わなければならない状況にあります。[25]彼はウィーンにいる馴染みのメガネ店に緊急の代替品をお願いし——というのも、これは第一次世界大戦が始まる前の旧オーストリア=ハンガリー帝国時代のことだからです——その眼鏡の入った小包が彼宛に速達で送られてきていたのです。さて、彼に拷問の話を教え、ある種の残酷な趣味を見せびらかして彼に大きな印象を与えたのと同じ隊長が、彼に次のように伝えます。すなわち、郵便事務を担当するA中尉が代金を支払ってくれているので、A中尉に対して彼は立替代金を返済しなければならないのだ、と。この返済という考え方を軸に、危機は最終的な発展を遂げます。主体は自らその代金を返済するという神経症的な義務を負うのですが、そこには非常に精密な条件がありました。この義務は、彼が自分自身に課したものですが、その際に強迫的精神にあらわれる内的な命令——すなわち「支払わない」という形式で表現された最初の動きと相反する形での命令——という形式を取りました。ここでは反対に、「Aに支払え」という一種の誓いによって自分自身に縛りがかかっています。しかし、すぐにこの絶対的な命令では十分でないことに彼は気づきます。[26]というのも、郵便事務を担当しているのはAではなく、Bという中尉だったからです。
 それだけではありません。このようなクドクドした考えが彼のなかに生み出されたまさにその瞬間、主体は、後にわかるように、実際にはその代金をB中尉に借りているのではなく、郵便局の女性が直接立て替えてくれているのだということを完全に理解しています。その女性は、近くに住む立派な紳士であるBを非常に信頼していたのです。しかし、フロイトに打ち明けるようになる瞬間まで、主体は不安の最高潮の状態にあり、強迫症者の体験に非常に特徴的な葛藤の一つに追い立てられており、それは次のシナリオを中心として展開されることになります。というのは、彼は代金をAに支払うことを自分に誓っていたからなのですが、強迫観念によって告げられた厄災が最愛の人物にふりかからないように、A中尉に郵便局の気前の良い女性に返済させ、自分の目の前で彼女がB中尉に問題の金額を返済し、自分はA中尉に返済して、忠実に当初の誓いを果たさなければならない、というシナリオです。これは神経症に典型的な演繹法ですが、これによって彼は、自分に命令する内的な必然性へと導かれるのです。
 [27]みなさんは次のことに気づかないわけにはいきません。ある額のお金が、A中尉から、支払いをしてくれた郵便局の気前のいい女性に渡り、さらにその女性から別の男性の人物に渡るというこのシナリオには、ある面では補完的な、ある面では追加的な、ある仕方で並行的であり、別の仕方では正反対であるようなシェーマが、原初的な状況の等価物として存在しており、その状況が主体の精神に、さらに彼をこのような人物に——つまり、他者に対して非常に特別な関係のモードをもつ人物、つまり神経症者と呼ばれる人物に——したすべてのものに何らかの重さでのしかかっている、ということに。
 もちろん、このシナリオを遂行することは不可能です。主体は、自分がAにもBにも何の借りもなく、郵便局の女性に借りがあること、そしてこのシナリオが実現すれば、最終的には彼女が無駄金を使うことになるだろうということを完全に承知しています。実際、神経症の経験においていつもそうであるように、現実界の強制力をもつ現実性は、彼を無限に苦しめるあらゆるものに優先するのであって、[28]その結果、彼にとって必要であるはずの儀式——郵便局の女性のところでの償いの儀式——を実行しに行くために乗るべき方向とはまったく反対の方向に行く電車に乗ってしまうほどです。駅の停車するたびに「まだ降りられる、乗り換えられる、戻れる」と自分に言い聞かせながら、彼が向かうのは頼れるフロイトのいるウィーンであり、ひとたびフロイトの治療が始まれば、彼は郵便局の女性に為替を送るだけで満足してしまうのです。
 この空想のシナリオは、小さなドラマ、武勲詩として提示されており、まさに私が神経症の個人的神話と呼んでいるものの現れであると言えます。
 この神話は、おそらくは主体にとっては閉鎖された仕方で、しかし絶対的に閉鎖されているのではないような仕方で、ということは閉鎖されているわけではない仕方で、父、母、そして過去に多少なりとも消去されてしまった友人とのあいだの創始的な関係を反映しています。この関係は、私がみなさんに説明したような、純粋に事実的な方法では明白に解明されるものではありません。というのも、この関係は、対象がその関係について抱いていた主体的な理解からしか価値を得られないからです。
 この小さな空想のシナリオに神話的な性格を与えているものは何なのでしょうか? 単に、隠されている創始的な関係を多かれ少なかれ正確に再生産する儀式を上演するだけでなく、ある種の傾向という意味においてそれを修正してもいます。[29]一方には、父親の友人に対するもともとの借金があります。言い忘れましたが、父親はその友人を見つけることができずにいたため、そこがもともとの歴史においては謎のままとなっています。他方、父親の歴史には、置き換え、金持ちの女性と貧乏な女性の置き換えがあります。さて、主体によって展開される空想の内部では、これらの機能的関係のそれぞれの要素の両端の項の交換のようなものが観察されます*4。強迫的な危機において問題となっている根本的事実が深まっていくなかで示されるのは、「郵便局の女性がいる場所に戻る」という主体を掻き立てる欲望の対象は、実はその郵便局の女性自身ではなく、主体の最近の歴史の中で貧しい女性の化身となった人物であることです。その人物は、演習中に、軍隊の友愛を特徴づける英雄的な熱気をもつ雰囲気の中で出会った宿屋の女主人でした。その女主人と一緒に、主体はそのような惜しみない感情が進んで注がれる底意地の悪い賭けに興じていたのです。[30]借金を帳消しにするためには、友人ではなく、貧乏な女性に——想像上のシナリオにおいて金持ちの女性が置き換えられた人物に——借金を返すことが必要となるのです。
 まるで、元の状況にみられる袋小路が、神話的ネットワークの別の点に移動したかのように、つまり、こちらで解決されなかったことが常にあちらで再現されるかのように、すべてが生じています。このことを理解するためには、私がみなさんに説明した元の状況において二重の負債があることを見ておかなければなりません。つまり、一方には父親の裏切りfrustration*5、一種の去勢と言えるようなものがあります。他方には、決して解消されない社会的な負債があります、それは友人という人物との関係において、背景に含意されているものです。これは、神経症を生み出す過程の起源に典型的に見られると考えられている三角関係とは非常に異なっています。この状況は、一種の両義性をもたらすものであって、負債という要素が二重に見えるかのように、一度に二つの平面に置かれ、この二つの平面を合わせることの不可能性においてこそ、神経症のドラマ全体が演じられているのです。この二つを重ね合わせようとするならば、彼は決して満足のいくことのない迂回操作を行わねばならず、そのサイクルを完了することができないわけです。
 これは、実際にこの後の展開において生じることです。[31]ねずみ男フロイトに諸々のことを打ち明けると、何が起こるでしょうか? 最初のうち、フロイトは、主体の情動的関係におけるある友人を非常に直接的に代理するものとして現れています。その友人は、主体に指針を示し、助言し、保護してくれる心強い家庭教師の役割を担っており、主体から強迫観念や不安を打ち明けられた後には「君は自分がしたと思うような悪事を働いてはいない、君は有罪ではない、気にするな」と主体に定期的に言ってくれる人物でした。フロイトはこのように、友人の立場に置かれているわけです。そして、すぐに諸々の攻撃的な空想が引き起こされます。それらは、フロイト自身の解釈が常に示しがちなように、フロイトを父に置き換えることだけに結びついているわけではなく、それとは程遠く、むしろ空想がそうであるように、いわゆる金持ちの女性という人物を友人に置き換えることに結びついています。実際、すぐに生じる短期間の妄想の空間は——もっとも、それは根っからの神経症者である主体にみられたものですが——分析経験のまさに内部における真に情熱的な時期を構成しているものですが、その空間において、主体はフロイトが自分の娘を彼に与えること以外には何も望んでいないと想像しはじめます。主体は、その娘から地球のすべての財を詰め込んだキャラクターを空想的に作ります。[32]その娘は目にウンコ眼鏡をつけた人物というかなり特異的な形で想像されています。このように、フロイトという人物は、保護的でもあり不吉でもある両義的な人物に置き換えられており、その人物の——彼を惑わせる——メガネが主体とのナルシスティックな関係を示すものとなります。神話と空想がここで合流し、情熱的な経験は、分析家との関係の実際の経験と結びつき、そこに伴う同一化を通して、ある一定の数の問題の解決のための踏み台を提供するのです*6
 ここで取り上げたのは、非常に特殊な例ではあります。しかし私は、分析経験において方向性を示すことができる臨床的な現実にこだわりたいと思います。それは、神経症者には、常に更新されていく四重奏の状況があり、それは単一のレベルに存在しているわけではないということです。
 図式化するなら、男性の主体に関しては、彼の道徳的・精神的バランスは、彼に固有の機能の引き受けを必要とします。すなわち、男性的機能においてそのようなものとして認識されること、そして葛藤を抱くことなしにその成果を受け入れること、しかもその際に自分以外の誰かが自分よりもふさわしいだとか、自分がそれを手に入れられたのはまぐれでしかないだといった感情をもたないこと、[33]そして主体を自分自身の行為の疎外された目撃者とする内的分裂が生まれないことが必要となるのです。これが第一条件です。もうひとつの条件は、彼がひとたび性的対象を選んだなら、主体の人生に付与されるその対象の享受jouissanceが平穏であり常に同じである、というものです。
 そうなのです! 神経症者は、自分の役割を引き受けることに成功するたびに、あるいは成功しそうになるたびに、言い換えれば、いわば自分自身と同一になり、一定の社会的文脈における自分の現れの正当性を確かなものとするたびに、その対象である性的パートナーが、ここでは金持ちの女性か貧乏な女性かという形で分裂するのです。神経症者の心理で非常に印象的なのは——もはや空想にではなく、主体の現実の生活に入り込み、指で触れてみるだけで十分にわかることですが——それが不倫であれ結婚であれ、彼にとって最も現実味réalitéがあり、最も身近であり、一般に最も正統的な結びつきがある性的パートナーの周りをいとも容易く取り巻く取り消しのオーラがあることです。他方には、最初の人物を二重化する人物が現れます。[34]その人物は、多少なりとも理想化され、多少なりとも空想的な仕方で——愛と情熱に類似したスタイルをもって——追い求められた情熱の対象であり、さらに、死すべき秩序の同一化につながる人物です。
 もう一つの側面から、人生の別の側面において、主体が自分の感性の統一性を回復しようと努力するとすれば、それは——ここでは男性の症例についてお話することを選択したので——自分の社会的機能と自分の男性性の引き受けにおける連鎖の反対の極に、死の関係としてのナルシスティックな関係を自分とのあいだにもつ人物が、自分のそばに現れているのを見ることになります。主体は、その人に自分の代わりに世に出て、自分の代わりに生きていくことを委ねます。それは本当の彼ではありません——彼は自分が追いやられていると感じ、自分の経験の外部においてその特殊性や偶発性を引き受けることができず、自分の実存と調和していないと感じ、袋小路が再生産されるのです。
 神経症のドラマがあるのは、この非常に特殊なナルシシズム的分裂の形態においてであり、それに関連して、さまざまな神話的形成物がその完全な価値を得るのです。[35]そのことについて私がみなさんにさきほどお示ししたものは空想の形態において現れたものですが、しかし他の形式でも、たとえば夢においても同じ形成物を見出すことができるでしょう。私も、患者の話の中にそのような例を数多く見出しています。そこでは、エディプス・コンプレックスの三角形の主題化から生じる伝統的なシェーマに従うよりも主体にとってはるかに厳格で生き生きとした方法で、その症例の本来の特殊性を主体に示すことができるのです。
 私はみなさんにもう一つの例を挙げて、最初の例との整合性を示したいと思います。その目的のために、「ねずみ男」の観察に極めて近い——しかし、詩や文学小説といった別の次元に関わる——症例を取り上げることにします。これは、ゲーテの若い頃のエピソードであり、彼が『詩と真実』の中で語っているものです。私はこれを恣意的にもってきたわけではありません。実際、それはねずみ男の内密な話においてもっとも高い価値を与えられている文学的テーマのひとつだからです。

●3

 ゲーテは22歳のとき、ストラスブールに住んでいました。[36]そのとき、フリーデリケ・ブリオンに熱中した有名なエピソードがあり、その郷愁は晩年まで衰えることがなかったといいます。ゲーテは彼女のおかげで、ルチンデという以前の恋人が彼に投げかけた呪い——女性との愛情のこもった接近、とりわけ唇にキスをすることに関する呪い——を克服することができたのです。
 その様子は、語るに値します。そのルチンデには妹*7がいて、正直に言って少々抜け目なさすぎる人物です。その妹は、ゲーテがかわいそうな女の子を悩ませているのだということを納得させようとしています。彼女はゲーテに、去ってほしいこと、そして抜け目のない彼女に最後のキスの証をほしいのだと懇願します。するとルチンデは、「この唇が永遠に呪われますように。その唇の経緯を最初に受けた者に不幸が訪れますように」と言い、みなを驚かせます。自信たっぷりの思春期のうぬぼれの渦中にあったゲーテがこの呪いを——今後の彼の恋愛の道を阻む禁止令として——受け入れたことは、明らかに理由がないわけではありません。こうして彼は、フリーデリケ・ブリオンという魅力的な女性を見つけたことによって高揚し、初めてその禁止を克服することができ、[37]自分の中に受け入れた禁止よりも強い何物かを理解し、勝利の陶酔を感じることができたと私たちに語ってくれています。
 これはゲーテの生涯の中で最も謎めいたエピソードの一つであり、フリーデリケを自分から捨てたことにも劣らず異常なことです。だからゲーテ研究者Goetheforscherは——スタンダール研究者やボシュエ研究者と同じように、こういった研究者は、私たちの感情に形を与えてくれた作家の一人に愛着を持ち、その天才がもたらしてくれたものを分析するために、戸棚の中の書類をあさることに時間を費やす特殊な人物です——この事実を十分に検討したのです。彼ら研究者はその理由についていろいろ言っていますが、ここではその目録をつくるのはやめておきます。確かなことは、このような研究が共通の平面で追求された場合、それと相関する俗物的な臭いがしてくることです。また、神経症の現れには、つねに俗物の何らかの暗い偽りが存在しているということもありえないわけではありません。というのも、これから提示する考察がみなさんに示すように、ゲーテの場合に問題になっているのはまさにそのような現れであるからです。
 [38]ゲーテのこの冒険への取り組み方には謎めいた特徴が多く、問題の鍵は彼の直近のいきさつにあると言ってもいいくらいです。
 簡単に説明しましょう。当時ストラスブールに友人と住んでいたゲーテは、ある小さな村に、牧師のブリオン家という、オープンで親しみやすく、愛想のいい家族がいることを、以前から知っていました。しかし、ゲーテはその家に行く際に用心に用心を重ねました。そのことについて彼は伝記のなかでその面白い特徴を語ってくれています。実際、その詳細を見ると、そこから見えてくる実に曲がりくねった構造に、ひとは驚かずにはいられません。
 ゲーテは当初、変装して行くしかないと思っていました。フランクフルトの裕福なブルジョアの息子であるゲーテは、その物腰の柔らかさ、服装による威光、社会的に優れたスタイルによって仲間の中でも際立った存在でしたが、神学生に——それも、とてもみすぼらしいほころびた長衣に身を包んで——変装しています。彼は友人と一緒に出発し、その旅程のあいだ中ずっとはじけるように笑っていました。[39]しかし、この家族の雰囲気を背景として現れた少女の明白に輝く誘惑の現実のせいで、彼は自分を美しく良い存在として見せたいのであれば、すぐさま奇抜な衣装——それは彼の優位性を見せてくれません——から着替えなければならいということに、もちろん彼はとても悩まされるようになります。
 自分の変装について行った弁明は、とても奇妙なものです。曰く、神々が人間の間に降りてくるときに着ていた変装に他ならないというのですが、彼自身が強調しているように、それは明らかに(思春期の精神を考慮に入れても)うぬぼれ以上の何かを示しており、血気盛んな誇大妄想に隣接するものであるように思える。事情を細かく見ていくと、ゲーテの文章には、彼が何を考えているのかが表れています。それは、このように身を隠すことによって、神々は何よりも厄介事を避けようとしているのであって、端的に言って、神々にとって人間との親密さを無礼と感じずに済ますための方法であったということです。神々が人間のレベルに降りてくる際に最も失う可能性が高いのは自らの不死性であり、それを逃れるためには、まさに自分を人間のレベルに置くしかないというのです。
 まさに、そのようなことが問題になっているのです。[40]それは、ゲーテストラスブールに戻って再び美しい装飾品を身にまとったとき、自分ではない姿で人前に現れたこと、そして、魅力的なもてなしで彼を迎えてくれた人々の信頼を裏切ったことのデリカシーのなさを遅ればせながら感じないでもない、ということによりはっきりと示されています——その物語の中にはまさにゲミュートリヒの音調を見出すことができます。
 そこで、彼はストラスブールに舞い戻ります。しかし、大仰に着飾って村に戻るという自分の欲望を実現することは叶わず、それどころか、彼は宿屋の主人から借りた第二の変装で、最初の変装を取り繕うことしかできませんでした。今度は、最初よりもさらに奇妙で、さらにちぐはぐな、しかも皺まみれの変装をして登場することになります。おそらく彼はそれをゲームのレベルに置いているのですが、このゲームはどんどん重要なものになっていきます——実は彼はもはや神学生のレベルにいるのではなく、それより少し下のレベルにいます。彼はおどけているのです。そして、これらすべては、一連の細部と故意に混ぜ合わされており、要するにこの茶番劇に協力している人々がみな、問題になっているのは性的なゲームに、みせびらかしに緊密に結びついているのがと感じているのです。
 [41]言うなれば、不正確であることに価値があると言える特定の細部も存在するのです。タイトルである『詩と真実(Dichtung und Wahrheit)』が示しているように、ゲーテは、自分の記憶を、その隙間を埋めるような虚構をもちいて、整理したり調和させたりする権利があることに気づいていたのです。それは、彼が他の仕方で埋める力はなかったであろう隙間です。先程申し上げた人たち、つまり偉大な人物の痕跡を追求している人々の情熱は、この特定の細部が不正確であることを示しており、それはこの場面全体の現実的な意図と呼ぶべきものをいっそう明らかにしてくれます。ゲーテが宿屋の息子の衣装に身を包んで皺まみれの姿を見せ、その結果生じた勘違いを十分に楽しんだとき、彼は同じように借りた〔=宿屋の息子が届けることになっていた〕洗礼式ケーキを持っていたと言っています。さて、ゲーテ研究者は、フリーデリケのエピソードの前後のそれぞれの六ヶ月の期間に、この国では洗礼が行われていなかったことを明らかにしています。洗礼式ケーキ——これは、伝統的に牧師に捧げられるものです——は、ゲーテの空想にすぎないということであり、それは私たちの目には、あらゆる意義深い価値をもっているものであるように思えます。このケーキは父性機能を含意しているのですが、[42]それはまさにゲーテが自分は父ではないこと、そして何かをもたらし、儀式には外的な関係しかもっていない者であること——つまり、彼は召使いにすぎず、主役ではないこと——を明示するかぎりにおいてのことです。このように、彼の困難回避のための儀式の全体が、実際にはゲームとしてだけでなく、より根本的には予防線として現れており、神経症者の神話的現れにおける主体の個人的機能の二重化と私がさきほど呼んだものの領域と並行的なものとなっているのです。
 なぜゲーテはそんなことをしたのでしょうか? 彼が恐れていたことは明らかです——後々明らかになることですが、このつながりは衰退していくばかりだからです。ゲーテがあえて障害を乗り越えた後、魔法が解け、もともとの呪いから解放されるどころか、あらゆる代理的形式によって、反対に彼の恐れがこの愛の実現に関して常に増大しつづけていたことにひとは気付かされます。束縛されたくない、詩人の神聖な運命を守りたい、さらには社会的階層の違いなど、そのことに与えられうるあらゆる理由は、[43]欲望された対象を前にした逃走という最も深い終わりなき流れの合理化された形式、衣服、表面にすぎません。目的を前にしたとき、主体の二重化、自分自身との関係における自らの疎外、自分に死の脅威が向かう先となる身代わりを与えようとする作戦があらたに生み出される様を見ることができます。この身代わりは、それが再統合されるやいなや、目的を達成することが不可能になるのです。
 今夜は、この冒険の大まかなテーマしかお話しできませんが、フリーデリケの引き写しである妹が登場し、この状況の神話的な構造を完成させていることは知っておいてほしいと思います。ゲーテのテクストに戻るなら、足早の提示のなかでひとつの構成としてあらわれているものが、他の様々な際立った細部によって確かめられており、それはゲーテがウェークフィールドの牧師というよく知られた物語に与えたアナロジーが、ゲーテ自身の冒険の文学的・空想的な移し替えであったことがわかることでしょう。

●4

 神経症者の生活状況の袋小路や解決不可能性において非常に根本的である四項からなるシステムは、[44]伝統的に与えられているもの——母親の近親姦的欲望、父親の禁止、その遮断効果、そしてその周囲に多少なりとも繁茂する症状——とはずいぶん異なる構造をもっています。私が思うに、この違いは、これまで教えられてきた分析の教義から解放された一般人類学について議論することを必要とします。一言で言えば、エディプスの図式の全体は批判されるべきものなのです。今夜はその点について取り掛かることはできませんが、ここでは問題の第四番目の要素を紹介しようとしないわけにはいきません。
 私たちは、次のように仮定しています——近代的主体の最初の体験の最も規範的な状況は、夫婦制家族という縮小された形態において、父親が象徴的機能の代表や化身であるという事実にむすびついており、その象徴的機能は自らのうちに他の文化構造において最も本質的なもの、すなわち文化的に決定され基礎づけられた母の愛の——言い換えれば否定しがたいまでに自然な絆によって主体がむすばれている極の——温和な、あるいはむしろ象徴的な享受を集中させている[抑え込んでいる]のだ、と。[45]父親の機能の引き受けは、象徴界現実界を完全に覆うような単純な象徴的関係を前提としています。父親は父の名であるだけでなく、その機能のなかに結晶化された象徴的価値を余すところなく代表することが必要となることでしょう。さて、この象徴界現実界の覆いは絶対的に実現できないものであることは明らかです。少なくとも私たちが生きているような社会構造においては、父親とはつねに、ある側面において、その機能との関係では不整合な父親であり、クローデル氏が言うように、欠けた父親、辱められた父親です。現実界の水準で主体が認識するものと、象徴的な機能とのあいだには、常に極めて明確な不整合があります。この隔たりの中にこそ、エディプス・コンプレックスに価値をもたせるものが生じるのであり、それは規範=正常化を行うものなのではまったくなく、ほとんどの場合、病理を生み出すものなのです。
 これは、私たちを大きく前進させるようなことを言っているわけではありません。四項構造において問題となっていることを私たちに理解させてくれる次のステップは、この精神分析における第二の大発見であり、それはエディプスの象徴的機能に劣らず重要な、ナルシシズム的な関係です。
 [46]同類に対するナルシシズム的な関係は、人間存在の想像的な発達にとって根本的な経験です。自我の経験としてのその機能は、主体の構成において決定的なものです。自我とは、主体がまず自分自身の中で自分自身にとって見知らぬ者として経験するものでなければ、一体何でしょうか? 主体が自らを見るのは、まずは他者の中においてであり、その他者は主体よりも進んでおり、主体よりも完璧な他者なのです。特に、主体は自分自身のイメージを鏡のなかに見るのですが、その時期においては主体が自らをそのようなものとして経験しているわけではなく、あらゆる運動・感情機能の原初的な乱れ——それは生後6ヶ月間の時期に生じる乱れです——のなかで生きているにもかかわらず、主体はそのイメージを全体として認識するのです。このように、主体は常に自分自身の実現——その実現は深い不十分さという水準において主体を拒絶しています——に対して先取り的な関係をもっており、主体におけるひとつの原初的な亀裂、引き裂き、ハイデガーの用語を使えば被投性を証言しています。そこにおいて、あらゆる想像的関係のなかに死の経験が姿を現すことになります。人間的条件のあらゆる現れをおそらくは構成するこの経験は、[47]しかしとりわけ神経症者の体験において現れます。
 想像的な父と象徴的な父が根本的に区別されることが非常にしばしばであるのは、それは私がみなさんにさきほど指摘した構造的な理由のためだけでなく、それぞれの主体に特有の、歴史的・偶発的な理由によるものでもあります。神経症者の場合、非常にしばしば見られるのは、父親の人物像が現実的人生のなんらかの偶発時によって二重化されるということです。幼少期に父親を亡くしたとすれば、その父親を代理した継父に対して主体が容易により兄弟的な関係になり、男らしさという平面の上で実に自然に嫉妬——それはナルシシズム的な関係の攻撃的な次元です——を抱くようになったりすることがあります。いなくなったのが母親である場合には、生活の状況ゆえに家族集団のなかでもうひとりの母親へのアクセスがなされるようになることもありますが、それはもはや真の母親ではありません。あるいは、兄弟の人物が象徴的な仕方で死の関係を導入し、同時に現実的な仕方でその関係を受肉化することもあります。非常にしばしば見られるのは、みなさんにさきほどお示ししたとおり、「ねずみ男」のように友人が問題となる場合です。この知られざる友人、そして決して見つからない友人は、家族の伝説において非常に本質的な役割を果たします。[48]これらはすべて、神話上のカルテットに帰着します。それは主体の歴史に再統合することができるものであり、それを無視méconnaîtreしてしまうことは、治療そのものにおいて最も重要な力動的要素を無視することになります。ここではそのことを強調するだけにとどめておきましょう。
 第四番目の要素とは何でしょうか? 今晩は、それは死であるとみなさんにお伝えすることによって、それを指し示しておきましょう。
 死は、媒介となる要素として完全に考えうるものです。フロイト理論が、父親の存在をもって、パロールの機能であると同時に愛の機能であるような機能を強調する前に、ヘーゲル形而上学は、人間関係の現象学全体を、人間が同類との関係において人間化される進歩の本質的な第三者である死の媒介の周りに構築することをためらいませんでした。そして、先ほど説明したナルシシズム論は、ヘーゲルにおいて謎のままであったある事実を説明するものであると言えます。結局のところ、死を賭けた闘争の弁証法、純粋な威信を賭けた闘争がまさに開始されるためには、[49]死が現実化してはならないのです。というのも、弁証法的運動は、戦闘員がいなければ停止してしまうわけであり、死は想像上のものでなくてはならないのです。そして、実際にナルシシズム的な関係において問題となっているのは、まさに空想された死であり、想像的な死なのです。エディプスのドラマの弁証法に導入されるのも、空想された想像的な死であり、この死こそが神経症者の形成において問題となっているのです——そしておそらく、ある程度までは、神経症者の形成をはるかに超えたもの、すなわち現代人の特徴的な実存的態度において問題となっているのです。
 次のように無理に私に言わせる必要もないのではないかと思います——すなわち、現実的な分析経験において媒介を行うのは、パロールや象徴の秩序に属する何かであり、別の言語においては信仰行為*8と呼ばれる何かです。しかし、それは分析が要請しているものでもありませんし、分析に内包されているものでもないことは確かです。ここで問題となっているのは、むしろゲーテによって発せられた最後のパロールの領域に属するものであり、私がゲーテを今夜の例としてもってきたことは——信じてほしいのですが——理由のないことではないのです。
 ゲーテについては、次のように言うことができます——すなわち、彼は自分のインスピレーションや彼が生きた存在感によって、[50]フロイトの思考の全体に見事に浸透し、それを生き生きとしたものにしているのだ、と。フロイトは、ゲーテの詩を読んだことによって、医学の道に進み、同時に彼の運命を決めたことを告白していますが、それはゲーテの思想がフロイトの著作に及ぼした影響に比べれば、大したことはないでしょう。そういうわけで、ゲーテが最後に発したフレーズで、分析経験の原動力を言い表わそうと思います。彼はブラックホールに落ち込む前に目を見開いて、よく知られているその言葉を発したのです——もっと光を!Mehr Licht! 、と。

*1:たとえば、アウグスティヌスの「秩序」においては、リベラルアーツ(自由学芸)は、自己自身に向き合うことであり、そこに秩序=比(=構造)が見出されるとされる。

*2:エスのことであろう。

*3:パロールの語源でもあり、叙事詩という意味もある。

*4:レヴィ=ストロース「神話の構造」における「標準的関係」のことを指す(『構造人類学』、252頁)。

*5:frustrationには「横領」の意味もあるが、ここではすぐあとの「社会的負債」すなわち軍隊で管理していたお金を「横領」してしまったことと対比されているため、むしろ貧しい女性を「裏切った」ということを指しているのであろう。いわば、「男性的負債」である。ねずみ男の症状はこの2つの負債(男性的負債と社会的負債)をひとつにするという不可能な試みのなかで展開されているため、立て替え払いの問題と金持ちの女性と貧乏な女性が重ね合わされる「譫妄Delirium」が現れるのである。

*6:ラカンは、ねずみ男のこの夢を(上の注で言うところの)男性的負債と社会的負債を合流させえた夢だと考えているようである。それゆえ、「ローマ講演」で同じ夢を扱った個所では次のように言われているのであろう——「やがて鼠男は、転移の形のもとに、己れの主体性の中に本物の媒介を導き入れることになった…。その媒介というのは、鼠男が、フロイトの娘であると思い込んだある女性である。彼は、フロイトが彼女を自分にくれるだろうと、想像したのである。そしてこの娘は、鍵となる彼の夢の中で、その真の相貌を露わにした。すなわち、タール〔=糞便=お金〕でできた眼で彼を見つめる死の顔であった。…主体における隷属の巧緻がその役目をこの象徴的契約とともに終えた…」(E303)。

*7:エミーリエのこと。『詩と真実 第二部』、岩波文庫、298-9頁。

*8:カトリックにおいて信者が神と教会の教えへの信仰を確認すること。