à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

「レイシズムの中の居心地悪さ」

 多文化間精神医学会の雑誌『こころと文化』第13巻2号の特集に寄稿した拙論を、本サイトに公開します。
 掲載版から少しだけ修正を加えていますので、もし引用などされる場合はご注意ください。

 なお、ヘイトスピーチレイシズムに関するより詳細な精神分析的理解に関しては、『atプラス』21号に書いています。また、その他の論点については、『図書新聞』3175号『図書新聞』3216号にも書いています。こちらもぜひ御覧ください。

atプラス21
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レイシズムの中の居心地悪さ――「行動する保守」にみられる享楽の病理

1. 現代日本のレイシズム

 2013年の新語・流行語大賞のトップ10に「ヘイトスピーチ」という言葉が踊った。新聞やテレビをはじめとした各種マスコミでもヘイトスピーチに関する報道が行われ、この言葉は一気に知名度をあげた。ヘイトスピーチとは、直訳すれば「憎悪表現」となるが、その本質は差別扇動である。つまり、特定の民族や人種、あるいは障害者やホームレスなどのマイノリティ(社会的少数者)に対する差別を煽り、差別を助長するような発言のことをヘイトスピーチというのである。

 日本はいま、ヘイトスピーチの春である。なかでも、2007年の第一次安倍政権下で誕生した「在日特権を許さない市民の会」(通称、在特会)や、彼らと密接な関係をもつ団体によるヘイトスピーチ・デモの頻繁な開催が目立っている。彼らは「行動する保守」を自称し、数年前から街頭での排外主義的なデモ活動を行ってきた。しかし、目下の第二次安倍政権下における緊迫した東アジア情勢を背景として、彼らの「嫌韓」「嫌中」感情はますます高まり、2013年に入ると、コリアンタウンである東京・新大久保で頻繁にヘイトスピーチ・デモが開催されるようになった。

 在特会をはじめとする「行動する保守」の団体が行うヘイトスピーチ・デモがどんなものかご存知だろうか。筆者は後述する「カウンター」(ヘイトスピーチ・デモに反対する市民による抗議行動)に2013年6月より個人として断続的に参加しており、彼らのデモを間近で観察している。彼らは、「新大久保は不法滞在者の巣窟です」「日本を罵る朝鮮人朝鮮半島へ帰れ」などと書かれたプラカードを掲げ、「朝鮮人は皆殺しだ!」などの汚い言葉を大声で叫びながら、コリアンタウンを集団で行進する。おぞましい光景である。彼らが通るルートの周辺には、在日外国人が経営する飲食店が立ち並んでおり、彼らはその街に住む在日韓国・朝鮮人に対して直接、差別的なメッセージを投げかけているのである。こういった明らかなレイシズム(人種差別)が「表現の自由」の名のもとに許可されているという異常事態が、新大久保だけでなく川崎や鶴橋など、日本の各地で現在も続いているのである。

 ところで、なぜ彼らはそこまで在日韓国・朝鮮人を憎むのだろうか。それは、在日韓国・朝鮮人には「在日特権」があり、彼らは日本を脅かしている、と彼らが信じているからである。では、「在日特権」とは何だろうか? 在特会のWebサイトによれば、在日韓国・朝鮮人に対する特別永住資格が「在日特権」の筆頭であるという。通常、日本国籍がなければ日本に永住することはできないが、在日韓国・朝鮮人らは日本に帰化することなしに何代でも日本に永住することができる。そのことを在特会は「特権」であると言っているのである。

 しかし――おそらく本学会会員には説明は不要だと思うが――こういった主張は端的に間違っている、あるいは単なる事実誤認にもとづいている。在特会の主張は、日本の戦時中の植民地政策のことをまったく考慮に入れていないのである。現在の在日韓国・朝鮮人の多くは、植民地政策によって強制的に日本国籍を与えられ、「国民」に組み入れられた人たちおよびその子孫である。1945年の終戦の際、日本には約230万人の在日朝鮮人が在住しており、そのうちの約64万人は住み慣れた日本に残ることを選択した。当時すでに日本に生活の基盤があったからだ。しかし、日本政府は1952年に彼らの日本国籍を一方的に剥奪し、彼らは突如として「外国人」としての扱いをうけることになった。1991年に入管特例法が制定され、ようやく彼らが得ることができたのが、上述の特別永住資格である。つまり、特別永住資格はなんら特権ではなく、むしろもとからあった侵略戦争による被害と、その後にとられた差別的処遇に対するほんのわずかな保証にすぎない。

 しかし、在特会らのデモに参加する人々は、この歴史的事実をみようとしない。さらに彼らは、在日だけでなく韓国人や朝鮮人といった人種そのものについてもヘイトスピーチを行う。実際、在特会の会長、高田(桜井)誠は、デモの際に「アメリカではですね、ベトナム人と黒人が一緒になってね、韓国人を襲撃する。…オーストラリアでも韓国人狩りが行われております。これがグローバルスタンダードなんですよ!」と述べている。これはもはやヘイトスピーチというより、明確な犯罪行為(ヘイトクライム:差別による物理的暴力)を扇動するきわめて危険なものである。彼らは実際、2009~2010年の京都朝鮮学校襲撃事件や、2010年の徳島県職員組合業務妨害事件などのヘイトクライムを行っており、それらの事件ではすでに刑事罰を課されたり、民事訴訟を起こされたりしている。

 こういった醜悪なヘイトスピーチを規制することはできないのだろうか。通常、ヘイトスピーチという言論行為それ自体や、レイシズムという思想それ自体を取り締まることには困難な点があると言われている。それは、「表現の自由」が憲法によって保証されているからである。しかし、日本は国連人種差別撤廃条約を1995年に批准しているため、国内に人種差別が存在する場合にはそれを撤廃するための国内法を整備する義務がある。しかし、現在に至るまで、日本政府は国内に憂慮すべき人種差別が存在することを国際的に認めておらず、それゆえ法整備はまったく進んでいない。一方、同条約を批准した他の先進国の多くでは、何らかの人種差別撤廃のための国内法が整備されている*1。こういった状況を鑑みると、「表現の自由」を盾にしてヘイトスピーチ規制を行わないことは妥当なものではないと考えられる。

 ヘイトスピーチ規制が一向に行われない一方で、2012年末の第二次安倍政権の誕生後、新大久保での在特会らによるヘイトスピーチ・デモが激化し、毎週のようにデモ行進が行われるようになった。所轄警察はこのような醜悪なデモに許可を出し続け、行政もまったく動かなかったのである。一方、在特会らによるヘイトスピーチ・デモに反対する市民たちは、2013年2月9日からいわゆる「カウンター」と呼ばれる直接行動を開始した。「レイシストをしばき隊」(現「C.R.A.C.」)などの団体が有名であるが、彼らカウンター陣営は、ヘイトスピーチを行うデモ隊に対して沿道から抵抗し、ときには進路妨害すれすれの行為を行いつつ、文字通り体をはって抗議を行った。こういった「カウンター」は次第により穏健な「プラカ隊」(「仲良くしようぜ」等と書いたプラカードを掲げて沿道に立つことによってヘイトスピーチに反対の意志を示す)、「知らせ隊」(ヘイトスピーチ・デモが行われる前に、デモの周辺住民にそのことを周知する)などに多様化していき、現在ではヘイトスピーチ・デモが行われるたびに、差別的なデモ隊の参加人数を何倍も上回る大量の「カウンター」勢力がデモ隊を取り囲む、という状況が続いている。

 こういった対抗運動の結果、カウンター陣営は有田芳生氏を中心とした国会議員の協力をとりつけることができた。そして、2013年3月には国会内でヘイトスピーチに関する院内集会が初めて開催され、それを契機としてテレビをはじめとした各種メディアでヘイトスピーチの問題が批判的に報道されるようになったのである*2

 メディアでの報道でヘイトスピーチ・デモを眼にした人々は、その醜悪さに驚き、これは「一部の極端な人々」によるものだという感想をもったかもしれない。しかし、レイシズムに関してのまとまったモノグラフを書いた社会学者ミシェル・ヴィヴィオルカ(2007)が指摘するように、レイシスト(人種差別主義者)の言動が公的に禁止されず、メディアに何度も取り上げられ、レイシズムが日常風景となっていくことこそがレイシズムに一種の正当性を与えてしまう。さらには維新政党・新風など、在特会らと密な関係にある政治団体が登場していること、また政府中枢をふくむ国会議員にも彼らと似たような主張をする者がおり、その発言が物議を醸しながらも反復されていくことによって、レイシズムは次第に政治的な暴力として結実してしまう。たとえば、「三国人(敗戦後に日本国籍を失った旧植民地の人々に対する蔑称)が凶悪犯罪を行っている」と主張した石原慎太郎元都知事や、最近では「従軍慰安婦は必要だった」「どこの国にもあった」と臆面もなく述べ、日本の戦争犯罪を相対化・矮小化しようとする橋下徹などの発言は、その都度大きな非難を受けてはいるものの、少なからぬ日本人にとって一種の本音の発露として受け取られたのではないだろうか。さらには、第一次および第二次安倍政権従軍慰安婦の「軍による強制性」を否定しようとし、そのたびに国際社会から強い反発をうけて撤回するという身振りそのものが、建前では過去の戦争犯罪を謝罪しながらも、本音では戦争犯罪とそれに対する戦後保証の不十分さを否認し、日本の無垢性を主張したいという動機を見え隠れさせている。このような政治動向を背景に『呆韓論』『悪韓論』などといったあからさまなレイシズムを表題に掲げる書籍がベストセラーとなり書店で平積みにされる昨今、日本のレイシズムはきわめて危険な状態に至っており、もはや「一部の極端な人」だけがこれに加担しているわけではないと考えざるをえない。

 そして、このようなレイシズムの高まりは、私たち精神科医にとっても決して無関係なものではない。私たちは同じ社会に生きる在日外国人の精神医療にも携わっているからだ。また、差別的発言は在日外国人というマイノリティだけではなく、生活保護受給者や障害者などの社会的弱者にも人種の別なく向けられることがあるため、今後、生活保護受給者や精神障害者など私たちが臨床的に関わる人々に対するヘイトスピーチヘイトクライムが本格化する可能性があるのである。

2. レイシズムと精神医学

 さて、レイシズムの高まりに関連して精神科医が注目すべき論点は少なくとも2つある。ひとつは、ヘイトスピーチヘイトクライムの被害者に対する心のケアの問題であり、もうひとつは、ヘイトスピーチヘイトクライムを行うレイシストの心理の問題である。

 まず、被害者に対する心のケアの問題をみていこう。筆者の知るかぎり、近年の日本でのヘイトスピーチヘイトクライムの被害者のメンタルヘルスの問題については、師岡(2013)の他はほとんど言及していないことが現状である。前述の京都朝鮮学校襲撃事件を取材したルポルタージュ(中村一成, 2014)によれば、襲撃事件の後から、夜泣きや夜尿をふたたびするようになる、襲撃者を思わせる作業着姿の大人に怯える、廃品回収の拡声器でのアナウンスを聞いて「在特会が来た」とパニックを起こす、一人では留守番ができなくなってしまった等の精神症状を示す子供たちが確認されたという。また、師岡(2013)が引いているアメリカでのヘイトスピーチ被害の研究では、「芯からの恐怖と動悸、呼吸困難、悪夢、PTSD、過度の精神緊張、精神疾患自死にまで至る精神的な症状と感情的な苦痛」などが確認されている。これらは、典型的なPTSD症状であると考えられる。

 また、海外ではレイシズムに暴露されたマイノリティにおいて、コーピングとしての物質依存(Gerrard et al., 2012)や、うつ病(Fernando, 1984)が生じるという報告がある。これらはおそらく日常の地域生活に組み込まれた持続的な差別によるものであると考えられる。一方、日本で起こった京都朝鮮学校襲撃事件のようなヘイトクライムは、地域生活における持続的な差別の上に重ねられた突発的な差別であったと考えられる。こういった突発的なヘイトクライムは、その対象となる人々に持続的な差別とは異なる強い衝撃と不安を与え、そこからPTSDが生じると考えられる。いずれにせよ、ヘイトスピーチヘイトクライムの被害者のメンタルヘルスについての調査・研究は十分でなく、今後この分野の発展がぜひとも必要であると考えられる。

 次に、ヘイトスピーチがどのような心理から発生してきているかということを考えなければならない。過去には、精神分析の理論を援用し、人格形成における障害がレイシズムにつながると考える議論がみられた。エーリッヒ・フロム(1965)による「権威主義的パーソナリティ」についての研究は、集団の権威を無批判に受け入れ、その集団の理想に従わないマイノリティを排斥するような性格を記述し、テオドール・アドルノ(1980)はこれをもとに反ユダヤ主義についての心理尺度を作成した。また、自己愛的パーソナリティの関与を指摘する研究も散見される(Bell, 1980; Thomas, 1981)。しかし、力動精神医学の退潮と軌を一にして、近年ではパーソナリティとレイシズムの関係はほとんど議論されなくなっている。変わり種では、降圧薬であるプロプラノロールでレイシズムが緩和されるという驚きのデータが発表されている(Terbeck et al., 2012)。たしかにプロプラノロールには攻撃性や暴力を抑える作用があることは以前からよく知られていたが、するとレイシズムは抗アレルギー剤が鼻炎を抑えるように薬剤によって抑えられるべきものなのだろうか。

 レイシズムを単に精神疾患やパーソナリティの問題として、個人のレベルで扱うことでは、おそらく何の解決にもならない。また、巷に流布している言説にみられるように、「社会のなかに居場所を得られなかった人たちがヘイトスピーチで憂さ晴らしをしている」といったステレオタイプに与することは、結局のところレイシストと非レイシストのあいだに境界線を引き、あらたな分断と排斥を生み出してしまう危険性がある(そもそも、レイシストが「社会のなかに居場所を得られなかった人たち」であるのなら、非難されるべきは彼らではないはずである)。筆者の考えでは、レイシズムの理解に関して、次に示すようなフロイトラカンによる議論が一定の示唆を与えてくれるように思われる。

3. レイシズム精神分析

(1) フロイト

 みずからもユダヤ人迫害の憂き目にあった精神分析の始祖ジークムント・フロイトは、反ユダヤ主義をはじめとするレイシズムについて、「集団」との関係から数回論じている。

 まず、フロイトは「集団心理学と自我の分析」(1921)のなかで、民族間相互の反感が、近い民族どうしのあいだにだけ生じることに注目している。彼が挙げている例は、南ドイツと北ドイツ、イングランドスコットランドといった地理的にさほど離れてはいない2者のあいだで生じる対立である(当然、日本のレイシズムにおいて問題になっている日本と韓国・朝鮮・中国の関係もこの系列に属する)。言語も文化もまったく異なる遠く離れた2者間のあいだよりも、文化的にも共通の部分をもち地理的にも近い2者間のあいだで対立が生じやすいのはなぜだろうか。フロイトによれば、それは「ナルシシズム的自己愛」のせいである。ナルシシズムは、自分がほかならぬ自分であることを主張する。ナルシシズム的自己愛をもつ人の前に、自分とよく似てはいるが少しだけ異なる他者があらわれた場合、その他者の存在は、まるでそのわずかな差異に関して自分を批判し、自分を作り変えろという横暴な要請を行ってくる疎ましい存在であるかのように感じられてしまう(このことをフロイトは「小さな差異のナルシシズム」と呼んでいる)。そのため、自分とよく似た他者に対して、憎悪や攻撃性が生じるのだとフロイトは述べている。

 しかし、フロイトによれば、このようなナルシシズム的自己愛から生じるレイシズムは、集団形成によって一時的ないし持続的に消失してしまうという。なぜなら、「集団形成が継続する間は、あるいは、それが及ぶ範囲では、個人はまるで自分たちが同型の存在であるかのように振舞い、他人の独特さを我慢し、その人に自分を合わせ、その人にいかなる反発も感じない」からだ。言い換えれば、集団においては「ナルシス的自己愛の制限」が起こる。つまり、この時点でのフロイトは、レイシズムは安定した集団の形成によって乗り越えることが可能だと考えているのである。

 一方、フロイトは「モーセという男と一神教」(1939)のなかでは、まったく逆のことを述べている。フロイトによれば、「集団の共同体感情は、より完全なものになるために局外に立つ少数者(マイノリティ)に対する敵愾心を必要とする」という。つまり、国家のようなひとつの集団は、その集団を維持し、結束の固い緊密な集団であろうとするために、自分たちとは異なる他者を排斥することになる。そして、その際に生じるマイノリティの排斥は、やはり「根本的な差異に対してよりも、むしろ小さな相違に対して、よりいっそう強く現れる」。つまりここでフロイトは、レイシズムを生み出すナルシシズム的自己愛は集団の維持・強化に起因すると述べているのである。

 集団はレイシズムを克服するのか、それともレイシズムを生みだすのか――フロイトの2つのテクストにみられるこの矛盾をどのように解決できるだろうか? 答えはおそらくひとつしかない。レイシズムがもっとも鮮烈に出現するのは、安定した集団ではなく、崩壊の危機にある不安定な集団――すなわち、集団における連帯が危機に瀕し、「集団」なるものが過剰に意識されはじめた集団――においてである。そのとき、それまで「自分たちが同型の存在であるかのように振舞」っていた個人は、お互いのわずかな差異に鋭敏な反応を示すようになり、そこからレイシズムが生じるのである。

 東日本大震災福島第一原発事故のあった2011年、その年の流行語として「絆」という言葉がトップテン入りし、地域共同体を中心とした「絆」の再興を希求する言説が巷にあふれたことは記憶にあたらしい。たしかに、私たちはあのとき、バラバラになっていた。原発メルトダウンしたと述べる人とするはずがないと述べる人の対立、避難をする人と安全であると主張する人の対立など、様々な対立があったことを覚えているだろう。原発を撤廃すべきと考える人と、推進すべきと考える人の対立は、いまでも続いている。ならば、現在私たちが眼にしている日本におけるレイシズムの前景化は、繋がりが解けつつある危機の時代における集団の病理であると言えないだろうか。1923年の関東大震災後におこった「自警団」による朝鮮人虐殺は、「日本」という共同体を守ろうとする民衆、軍隊、国家による暴挙であったことを私たちは知っている。その愚を今ふたたび反復しないためにも、このような精神分析の議論の意義が再考されるべきであろう。


(2) ラカン

 レイシズムについての考察は、実はラカンにもみられる。70年代のラカンは、集団をまとめあげる〈父〉の機能が衰退した際に生じる事態について何度か予言的に論じているが、そのなかの一つとして彼は「レイシズムの興隆」を挙げているのである。

 例えば、ラカンは、1972年6月21日の講義の最後に次のように述べる。

父に関してはまったくお話しませんでしたが、それは、「統合する(unie)」父、「否(non)!」という父の周囲に、普遍であるものすべてが基礎づけられるのであり、基礎づけられるべきであり、基礎づけられるほかはないということを皆さんに示すことで十分だと考えたからです。そして、私たちが身体の根に戻るとき、同胞(frère:兄弟)という語の価値を引き上げるのならば、父は良い感情の水準にたくさんの帆をもって帰ってくるでしょう。/それでも、みなさんにバラ色の未来だけを描写していてはいけません。みなさんは次のことを知っておくべきですからね。興隆しているもの、その最終結果まではまだ見えていないもの、身体の中に、身体の同胞愛(fraternité)の中に深く根を下ろしているもの、それはレイシズムです。みなさんはまだレイシズムについて語られるのを聞き終えていないのです。(Lacan, 2011, pp. 235–236)

 周知の通り、フランス革命は文字通りに王(=〈父〉)の首を切る革命であり、そのスローガンは「自由・平等・友愛(Liberté, Égalité, Fraternité)」であった。この「友愛」という言葉は、他者を自分の兄弟のように愛するという意味である。この意味で、フランス革命は〈父〉(集団を一つにまとめあげる象徴的権威)を厄介払いし、残された兄弟たちによる愛にもとづいた平等な集団をつくりあげる思想としての一面をもっている(この点で、同じくヒエラルキーを廃棄し、民主化を要求する運動としてのフランスの五月革命のあとにこのラカンレイシズムに関する発言がなされたことに注意しておこう)。しかし、その際に、厄介払いされた王=〈父〉は別のかたちで回帰し、それがレイシズムの興隆という不幸な結末を引き起こす、とラカンはここで指摘しているのである。先のフロイトの集団論との関係でいえば、共同体を支える「絆」が瓦解したとき、あらたな「絆」が再来し、それが共同体の危機を背景としてレイシズムを生み出すということになるだろう。

 このラカンの指摘は、当時の聴講者たちにはあまりピンとこなかったようである(というのも、現在ますます力を強めているフランスの極右政党・国民戦線の結成はこの発言と同じ1972年にあたり、フランスの現代的な反レイシズム運動の先駆けであるSOSラシスムの設立は1984年を待たなければならなかったからである)。事実、1973年、ラカンの弟子のジャック=アラン・ミレールは、「レイシズムの興隆」の真意を、ラカンに対して次のように問いただしている。

ミレール:先生はレイシズムの興隆を予言しておられますが、その確信は何に由来しているのですか。また一体、なぜそうおっしゃるのですか。
ラカン:(…)私たちの享楽が混迷するなかで、享楽を位置づけることができるのは〈他者〉だけなのですが、それは私たちが享楽から引き離される限りでのことです。そこから、人種が混ざり合っていなかったころには未聞であった様々な幻想(fantasme)が生まれています。〈他者〉を彼ら固有の享楽のモードのままにしておくことは、私たちの〔享楽の〕モードを〈他者〉に強要しないこと、そして〈他者〉の〔享楽の〕モードを発展途上なものとして扱わないことによって始めて可能になることでしょう。/私たちがもつ享楽のモードの不安定性(précarité)がその上に加わるならば、どうして、私たちの暴挙が身に纏う見せかけの人道主義が続くことが期待できるでしょうか。(…)/神がそこから力を取り戻して、存-在する(ex-sister)ことに至ったとしても、それは神のもたらした不幸な過去の再来以上のものを予告してはいません。(Lacan, 2001, p. 534)

 ラカンがここで述べているのは、レイシズム研究のなかでしばしば指摘される古典的(科学的)レイシズム/現代的(文化的)レイシズムの2つの区分のうち、後者の現代的レイシズムに相当すると考えられる。古典的レイシズムは科学に依拠しながら、人間の本能や身体能力には本質的な差異があるとする考え方であり、ナチスの優生思想のように遺伝学や医学、生物学、歴史学などあらゆる科学によって人種の差の根拠を見出そうとするものである。一方、現代的レイシズムは、自らの集団の均質性や純粋性を希求し、他の集団を「破壊すべき脅威や障害」とみなして攻撃・排斥するものである。つまりそれは、文化や民族性にもとづく差別であるといってよい(ミシェル・ヴィヴィオルカ, 2007)。

 上記の引用のなかで、ラカンは現代的レイシズムにおける排斥の原因となる文化的差異を、「享楽のモード(mode de jouissance)の差異」であると考えている。様々な人種や出自の人々が共存する世界では、飲食の慣習や性行為、あるいは冠婚葬祭のやり方など、生活のなかで快を得たり不快を処理したりするための方法(享楽のモード)には様々なヴァリエーションが共存することになる。そのとき、享楽のモードは単一のものではなくなってしまう。すると、マジョリティは自らにとっての〈他者〉(=マイノリティ)の享楽のモードを「発展途上」すなわち劣位のものとみなし、それを排斥したり、自分たちの享楽のモードを彼らに押し付けようとしたりする。ここにレイシズムが発生する、とラカンは述べているのである。

 しかし、これだけでは、フロイトが述べた「ナルシシズム的自己愛」を「享楽のモード」という言葉に置き換えただけにすぎない。ラカンレイシズム論に付け加えた重要な寄与は、レイシズムを享楽の病理として捉える際に、そもそも自らの享楽が本質的に〈他者〉の享楽によってしか位置づけることができない、という逆説の存在を強調したことである。

 どういうことか? 精神分析が教えるように、私たちの享楽は、十全なものとしてはつねにすでに失われている。それゆえ、私たちは自らの十全な享楽を位置づけることができず、「性関係の不在」に悩まされることになる。しかし、この享楽の不可能性は、「どこか他のところに十全な享楽を得ている人物=〈他者〉が存在している」という空想を生み出す(このことを、ラカンは「享楽を位置づけることができるのは〈他者〉だけ」であるが、それは「それは私たちが享楽から引き離される限りでのこと」であると先の引用のなかで述べているのである)。性関係の不在に悩まされている人の前に、自分とは異なる享楽のモードをとる人物があらわれた場合、この「どこか他のところに十全な享楽を得ている人物が存在している」という空想が活発化し、その人物こそが十全な享楽を得ている人物なのだと錯覚される。そこから、「私が十全な享楽に到達できないのは、この人物が私の享楽を盗んだからだ」という結論が引き出されるとき、そこにレイシズムが生まれる。つまり、十全なものとしての享楽は、〈他者〉を介してしか位置づけることができないにもかかわらず、ひとたびそれを身近な人種的〈他者〉を介して位置づけてしまうと、レイシズムを生み出してしまうのである。「在日韓国・朝鮮人が「在日特権」を享受(jouir)する一方で、日本人が差別されている」という在特会らの主張は、まさに「享楽の盗み(vol de la jouissance)」の論理――私たち日本人がうまく享楽できないのは、在日韓国・朝鮮人が私たちの享楽を盗んでいるからだ!――を例証している。そしてこの「享楽の盗み」という錯覚は、自分がそもそも最初からもっていない十全たる享楽を、あたかも〈他者〉さえいなければ獲得できるものかのようにみせてくれる点で、非常に魅力的なものとなる。そのため、ひとはこの錯覚から容易に抜けだすことができなくなってしまうのである。

 このレイシズムの論理は、〈父〉の機能の衰退にはじまるグローバリゼーションと共犯関係にある。グローバリゼーションは、旧来の国家の垣根を超えて、さまざまな人や文化の共存を可能にする。これは享楽のモードの複数化として考えることができる。しかし反対に、グローバリゼーションは「グローバル」の名のもとに単一の享楽のモードを唯一の「理想」に仕立てあげてしまう(近頃「グローバル人材」として称揚される人物類型の驚くべき画一性をみよ)。つまり、グローバリゼーションは、複数の享楽のモードの共存を許しつつも、単一の享楽のモードを「理想」とし、その他の享楽のモードを排斥してしまう可能性――すなわち、レイシズムの可能性――をつねに内包させているのである。

 ラカン的な意味での多文化共生とは、享楽の多文化共生であるといえる。極右政党が躍進し、移民が大きな問題となっているフランスでも、ラカンレイシズム論は精神分析家たちの注目を集めている。レイシズムに対する精神分析的アプローチは、グローバリゼーション下で顕著にあらわれる自分とは異なる享楽のモードの存在にいかに煩わされずにすますか、いかに共存していくか、ということを問題とする享楽の多文化共生の実践となることであろう。

4. おわりに

 本稿では、日本におけるレイシズムの現状を在日外国人に対するヘイトスピーチの問題を中心に紹介し、その後にレイシズムに関する精神医学と精神分析の議論を簡単に紹介した。

 多文化間精神医学会の諸先生方にお願いしたいのは、時間が許すなら、ぜひともヘイトスピーチ・デモの現場を実際に見に来ていただきたい、ということである。繰り返すが、ヘイトスピーチヘイトクライムによって生じるメンタルヘルス上の問題は、いまだその実態が明らかにされていないばかりか、私たち精神科医からその存在を認知されてすらいないのである。

参考文献

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*1:具体的には、ドイツ、イギリス、フランス、カナダ、オーストラリアなどにヘイトスピーチ禁止法がある。ヘイトスピーチ規制には慎重な立場をとるアメリカにもヘイトクライム禁止法がある。

*2:日本におけるヘイトスピーチの現況に関しては、安田浩一『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』(講談社)、有田芳生ヘイトスピーチとたたかう!――日本版排外主義批判』(岩波書店)が、ヘイトスピーチの法規制をめぐる諸問題に関しては、師岡康子『ヘイト・スピーチとは何か』(岩波書店)、エリック・ブライシュ『ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか』(明石書店)などが参考になる。なお、本稿の記述においてもこれらの書籍を参考にした。