à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」を読む(前)

全2回構成でお送りします。読むテキストは、
Jacques-Alain Miller, An Introduction To Lacan's Clinical Perspectives, in

Reading Seminars I and II: Lacan's Return to Freud (Suny Series in Psychoanalysis and Culture)

Reading Seminars I and II: Lacan's Return to Freud (Suny Series in Psychoanalysis and Culture)

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,pp.241-247

ミレールがサンタンヌ病院でおこなったセミナーの記録で、一般精神科を批判し、非常に明快な口調でラカンの疾患カテゴリーを概説しています。

ラカンの診断学

ラカンはフロイトの著作をシステム化し、ラジカルにし、そしてある意味ではシンプルにしたのです。その方法によって、「精神の構造」なるものを診断するための非常にシンプルなグリッドを用いることができるのです。このシンプルなグリッドは、神経症・精神病・倒錯という精神のカテゴリーのすべてをカバーしています。(……)この基本的グリッドがそれほど広くには認識されていないことは、DSM-IIIの存在によって思い出されます。

 精神の構造という言葉は、精神の連続体というものは存在しないということを意味しています。もし精神の連続体なるものがあれば、あの患者はちょっと精神病だとか、ときどき神経症的だったり、倒錯的だったりするなどと言えることになります。このような見方は、アメリカやイギリスの臨床的場面でみられるもので、精神病と神経症の差異をぼやけさせています。このような集団では、精神病と倒錯のミックスという診断をつけることができます。さらに、「境界例」というカテゴリーが全体をさらにぼやけさせてしまいます。彼らの臨床報告を読むと、よく落胆させられます。私たちラカン派の小さな地図は、彼らには使われていないのです。

ここで主張されているのは、精神には構造があり、神経症・精神病・倒錯という3大カテゴリーが、すべて「構造の病」であるということである。つまり、精神疾患は症状の量や質で規定されるような「性質」ではなく、その基礎にかならず構造的異常があるものである。
これは直接的なDSM批判である。DSMでは構造やコンプレクスなどの病因論は関係なしに、症状のみを診断基準としている。
例えば精神分裂病なら、

診断基準
A.特徴的症状(以下の症状のうち、2つ以上が1か月以上存在)
  (1)妄想
  (2)幻覚
  (3)解体した会話
  (4)ひどく解体した行動、または緊張病性の行動
  (5)陰性症状:感情平板化、思考貧困、意欲欠如
B.社会的または職業的機能の低下
C.持続期間:少なくとも6ヶ月
D.分裂感情障害と気分障害を除外
E.物質の影響や一般身体疾患によるものを除外
F.広汎性発達障害の既往があれば、顕著な幻覚や妄想が1か月以上存在

このように、規定の精神症状を一定数満たせば精神分裂病と診断されうる。
ミレールがこれに批判しているのは、政治的な意図だけではもちろんなく、臨床的な危険性への直観、精神症状と疾患を単線的に結びつける傾向に注意を促すためだと思われる。

それぞれのカテゴリーにおいて、同じ記述的要素にでくわすこともあるということです。しかしそれでもなお、特定の記述的要素があるからといって、ある特定の構造があると証明することにはなりません。記述的要素は、他の要素との関係を考えないことには私たちに何も教えてくれません。例えば、ヒステリーと精神症の両方に幻覚がみられますが、それは構造の証明ではないのです。それは他の要素によって体系化された構造の一要素として考えること必要があるからです。幻覚のような要素を見つけたなら、異なった構造的カテゴリーを区別するための非常に精密な問題を問わねばならないのです。

「同じ記述的要素」とは、精神症状のことであり、例としてあげられている「幻覚」は、ヒステリーにも精神病にもみられる。そのため、「幻覚」と精神病とを単線的に結びつけるわけにはいかない。疾患のうらにはかならずその疾患を引き起こす構造があり、その構造を把握しなければ診断にはいたれない、というのがラカン派の診断学である。

私たちが教え、症例を提示し何をすればいいかを話し合う臨床的訓練の場では、問題となっている主体をどの場所に位置づけるかを決める際に、かならず素晴らしく喜ばしい瞬間が出現してきます。これは臨床的専門技能がその姿をあらわす堂々たる瞬間であり、このグリッドを用いていない集団には起こりえない瞬間です。私たちはヒステリーと精神病のあいだをとても嫌うことがあります。主体がどちら側にいるかを知らなければならないと考えるのです。いっそうの観察なしには診断をつけることはできないのです。二、三の症例で、ラカン自身が生きた症例を提示するにあたって、診断をつける前にさらなる症候を待つことを好んでいました。

これは非常に臨床的な記述で、おそらく臨床カンファレンスや症例検討会での経験をもとにした話なのであろうが、目にみえた症状にすぐ飛びつくことなく、「待って」から診断せよ、という教えである。

ちなみに、さきほどから繰り返されている基礎構造とは、おなじみの、抑圧・排除・否認という否定の3種類のことである。

もし構造があるならば、それぞれに一つ中心的メカニズムがあるはずなのです。ラカンはフロイトの著作のなかに、それぞれの構造に対する特異的な用語があることを指摘しました。神経症では抑圧Verdrangung(repression)、精神病では排除Verwerfung(foreclosure)、倒錯では否認Verleugnung(disavowal,desaveu)です。最後に、ラカンは否認Verleugnungにdementi(denial)という訳をあてることを好むようになりました。
(……)精神病における排除Verwerfungは父のシニフィアンの否定であり、倒錯における否認Verleugnungはファルスのシニフィアンの否定の特別なモードであり、神経症における抑圧Verdrangungは主体自身のより広範な否定である

ラカンと古典的精神医学

 ラカン派は古典的ドイツフランス精神医学を継承しています――もっとも、多くのフロイトの指摘によって増強された古典的ドイツフランス精神医学ですが。臨床的にいえば、ラカン派のカテゴリーは古典的ドイツフランス精神医学からあまり離れていません。
(……)このことの証明は『エクリ』のなかに見つけられます――ラカンはシュレーバー症例を詳細に探査していますが、精神病の次元を理解するにあたって、自分の精神医学の経験を頼りにしているのです。彼は分析家としてそうしたのですが、分析的操作の理解の外によこたわる主体の位置を再公式化しようとは思わなかったのです。
(……)ラカンは今では臨床的区別のすべてをあいまいにしてしまう薬物療法によってとってかわられたこれらの古典的精神医学の宝物を組み入れたのです。これらの古典的精神医学の宝物を博物館のなかのものにしておこうという精神科医もいます。しかし、私たちはこれらの臨床的観点が効力のあるものだと信じています。ラカンは私たちにパラノイア概念の歴史を学ぶことを求めています。フロイト以前のパラノイア概念の歴史もです。ラカンはそれを再公式化の必要があったとしても、しっかりしたものだと考えていたのですから。
(……)一方、精神分裂病という概念はフロイト以降のものです。この用語はブロイラーによって、フロイトの著作を読んだ後に、フロイトの神経症理論を精神病にまで拡大しようとして紹介されました。ブロイラーはユングのように、フロイトの神経症の理解を精神病の領域に移送しようとしたのです。フロイト精神分裂病というカテゴリーにつねに慎重であった、とラカンは精神病のセミネールで指摘しています。

これは、セミネールIIIの、

精神病の治療に関しては、過去から現在まで、そして現に今でもそうなのですが、分裂病の方が、パラノイアよりも良く研究され、はるかに活発な関心が寄せられ、その成果がより期待されています。それなのになぜフロイトの理論においてはパラノイアが少々特権的な位置を占め、核心、しかも接近困難な核心となっているのでしょうか。
(……)もちろん、フロイトは分裂病を知らなかったわけではありません。分裂病という概念が登場したのは、彼と同時代のことでした。確かにフロイトはチューリッヒ学派の業績を認め、評価し、さらにそれを奨め、ブロイラーを中心に成立した理論と精神分析理論とを関連づけています。それでもフロイトは、彼らの考えとはかなり隔たっていました。フロイトは、まず第一にパラノイアに基本的な関心を寄せていました。精神病に関するフロイトの理論の主要なテキストであるシュレーバー症例の考察の終りの箇所を思い出してください。そこに皆さん方の参考になる点があります。そこで彼はいわば分水嶺を設定しています。その分水嶺は一方はパラノイア、そして他方はフロイトがパラフレニーと呼ぶのがふさわしいと考えたもの、つまりまさしく分裂病に相当するものとの間にあるのです。ここに、後に私達が言わんとすることの理解に不可欠な点があります。つまり、フロイトによると精神病の領域は二つに分かれるのです。
(Lacan, SIII, Ja pp.4-5)

この箇所と対応している。フロイトにとって、精神病は「パラノイア」と「それ以外」の二つに分かれている。ラカンにしてもそれは同様で、学位論文「人格との関係からみたパラノイア」や、初期の「鏡像段階」論文で想像的情念の関係をパラノイアに関連づけて説明しているように、関心が大きくパラノイアに傾いている。


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