à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」を読む(後)

前回は、

  1. 分析の診断は症状ではなく、構造によってなされる。その構造とは否定の3モードである抑圧、排除、否認であり、それぞれ神経症、精神病、倒錯の基本的構造である。
  2. ラカン理論は、フロイトの精神分析理論を構造化したものと、古典的ドイツフランス精神医学とが合わさってできている。

というミレールの説を確認した。

ラカンと古典精神医学

ここでミレールが言っている古典的ドイツフランス精神医学とは、おそらく主にドイツではクレペリンとヤスパース、フランスではクレランボーのことであると思われる。

(1)クレペリン

前回指摘したとおり、ラカンはフロイトとともに、精神病圏の疾患のなかでパラノイアを中心にすえるという独自の見方をしている。ラカンは「精神病」のセミネールにおいて、パラノイア論を展開するにあたって、まず初めにクレペリンのパラノイア研究を紹介している(Lacan, S3-Ja26-29)。

そこでの要点は、

  1. パラノイアは古くから非常に広い範囲の精神状態を指す言葉として使われてきたが、パラノイアの意味を限定し現代的な定義としたのがクレペリンの業績である。
  2. クレペリンのパラノイア論は、内因を重視していたり、妄想体系の変化に注目していなかったり、不十分な点がある。

である。

(2)ヤスパース

ヤスパースについては、「了解」概念をめぐって、ほとんど馬鹿にしている。

了解という概念の意味するところは、一見極めて明瞭に見えます。それはヤスパースがそれを手がかりに、了解関連という名の下に、彼の精神病理学のいわゆる総論の要とした概念です。了解という概念は、自明だと言える事柄が存在すると考えることから成り立っています。たとえば、人が悲しいのは、欲しいものが手に入らないからだと考えることです。しかし、これ以上の誤りはありません。欲しいものをすべて手にしても、やはり悲しい人もいます。悲しみとはそういうこととはまったく違った本性から由来する想いなのです。(……)〔ヤスパース『精神病理学原論』の〕「了解関連の概念」という章にあたってみて下さい。一貫性のなさがすぐにはっきりするでしょう。それこそ、一貫した言説の効用です。
(Lacan, S3-Ja8-9)

(3)クレランボー

クレランボーはラカンの精神医学上の師である。ラカンはクレランボーの「基礎的現象」という概念に非常に重きをおいており、ヤスパースの「了解」概念にかわって精神病理学を基礎づけることができる概念だと思っているようにみえる。

「基礎的現象」とは何か

基礎的現象の「基礎的」とは、妄想の構造全体の下に隠れているという意味ではなく、「植物にたとえて言えば、一枚の葉をよく見れば、そこに葉脈が入り組み、繋がり合う、その仕方によって、その葉の詳細が明らかになるのと同じように基礎的」であり、「その植物全体に共通する何かがあり」それが「再生産される」という意味である(Lacan, S3-Ja28-29)。これはまさに構造主義的な構造の概念である。
この葉脈の例えは、ラカンのもう一つの構造概念として名高い「シニフィアン」の説明にも用いられている。*1

私たちがここで見つけたもの〔シニフィアンによるシニフィアンの代理〕は決して顕微鏡視的なものではなく、葉っぱがそれが分離された植物の構造的特長を持っているということを認識するのと同じように、特別な道具をまったく必要としません。たとえ葉っぱのついた植物を一度も見たことがない人でさえも、葉っぱが皮膚の一部よりは植物の一部に似ているということに気づくことでしょう。
(Lacan, E621, 「治療の方向性とその能力の諸原則」筆者訳)

基礎的現象という概念は、ラカンの構造主義的側面においてあの「シニフィアン」と同じほど根底的な概念であると思われる。つまり、ミレールの言うように、ラカン理論がフロイトの構造化と、古典精神医学の輸入によって生まれたものであるとすれば、その基礎理論として、それぞれシニフィアンと基礎的現象が対応していることになる。これを以下に表で示す。

フロイトの構造化 古典精神医学の輸入
構造の要素 シニフィアン(の連鎖、隠喩と換喩) クレランボーの基礎的現象
つくられる構造 神経症、夢、錯語行為 精神病(パラノイア

では、ミレールによる「基礎的現象」の解説を読んでみよう。

精神病的な幻覚は主体にとって経験上もっとも現実的なものとしてとられます。精神病的主体はそれを疑う余地のない完全な確信をもって話します。これは基礎的なことであり、私たちは傾聴によってそれを把握することができます。幻覚は映像に收めることも観察することもできませんが、私たちは精神病患者が幻覚的メッセージを静かに編成していることを観察することができます。そのためには何をみればいいのでしょうか? 彼らの言表行為をみるのです。
 誰かが何かを言うときには、文章あるいは主張が議論に載せられますが、言っていることに対して主体がとっている位置に注目することもできます。いいかえれば、彼のメタ-言語学的位置に注意を向けるのです。彼は自分の言っていることをどうみているだろうか? (……)自分の言っていることが対話的プロセスにまったく開かれていない場合、私たちはそれを精神病の基礎的現象と呼んでいます。〔精神病的〕主体はこのような基礎的現象を否定できないものとして考えており、またその基礎的現象によって主体は驚かされるのです――精神病的主体は彼自身、共和国の大統領が個人的に時間を割いて自分の頭に話しかけてくるなどということは変だと思っているのです。しかし、彼はその体験を否定できないのです。

ここでミレールは、分析の技法の一つである「言表enonceと言表行為enonciationの区別」にふれている。ラカンが言表行為に注目するのは、セミネールにおいて何度も語られてきた「誰が語るのか」「ディスクールの主体は誰なのか」という問題(Lacan, S1-Ja62,70あるいはS3-Ja37,E592)を概念化するためである。
この問題の答えは以前に紹介したシェーマLの想像的軸と象徴的軸である。ラカンは空虚なパロールと真のパロールを区別しており、自我心理学は想像的二者関係による空虚なパロールに堕しているが、ありうべき正当な(ラカン的)分析は、象徴的軸に基づく真のパロールでなければなしえない。

自我心理学 ラカン派
治療 想像的軸(a-a') 象徴的軸(S-A)
語り 空虚なパロール 真のパロール

ミレールはまた、このように言っている。

治療とは象徴的であり、分析的治療とは本質的に象徴的な軸に位置し、それが想像的な軸と衝突することによってのみ妨げられる(……)精神病は本質的に象徴的関係におけるある種の欠陥、象徴的軸のある欠陥に起因している。

シェーマLの軸と神経症、精神病

想像的軸(a-a') 象徴的軸(S-A)
精神病 神経症

上に示した表の意味するところは、「精神病の症状は想像界と等しい」「神経症の症状は象徴界に等しい」である。

(1)精神病の症状は想像界と等しい

ミレールの解説では、こうなる。

ラカンは精神病を本質的に想像的なものによって定義していました。ラカンはある意味、精神病と想像的なものは等価であると考えていたのです。ラカンの著作における想像的なものはこのように精神病的であり、鏡像段階パラノイアの記述として読み直すこともできるでしょう。すなわち、他者との基礎的な衝突があり、それは他者が私の役割を強奪していくからである、と。

つまり、シェーマLの想像的軸とは、自我心理学の二者関係の分析の語りであるだけでなく、鏡像段階パラノイア的な双数的関係として読まなければならないのである。
もっと言えば、ラカンの批判する自我心理学の語りは、精神病を作ってしまう危険性のある語りであるのである。

精神分析を双数(決闘)*2的なものと理解する枠組みの下で現に行われている対象関係の取り扱いは、象徴的次元の自律性を無視することに基づいています。この無視は自ずと、想像的平面と現実的平面との混同を引き起こします。(……)この無視から、次のことが起こります。つまり、真の象徴的交流の平面でこそ自らを認めさせたいと主体の中で要求しているものが、――それはとかく干渉を受けて歪められるものなので、そこまで到達するのは容易ではありませんが――想像的、あるいは幻想的な次元での再認にとって代わられるということが起こるのです。このように、主体の中で想像界の次元に属するものすべてを認証してしまうことは、正に分析を狂気の入り口にすることです。(Lacan, S3-Ja22)

(2)神経症の症状は象徴界に等しい

こちらは比較的理解しやすい。ラカンの定義にしたがえば、神経症者の欲望とは大文字の他者の欲望である。これはつまり、大文字の他者から主体に向けられた真のメッセージを主体が受け取って行動しているのが神経症である、ということである。これはシェーマLの象徴的軸に対応している。
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神経症と分析治療が同じ象徴的軸に位置づけられるのは一見奇妙に思えるが、ミレールはまた別の論文でこう言っている。

分析のディスクールという法の制定は、<主体>のある一定のヒステリー化を前提としている。ヒステリー化は分析における無意識の法の制定のための<主体>の条件である。これをちょっとしたコンセンサスであると思うのは極端なことではないだろう。 神経症に属する病気群の全体はこの前提によって説明されるに違いない。そのために私たちは神経症のすべての形式について、ヒステリーの正確な意味作用をはっきりさせることを怠ってはならない。
(Jacques-Alain Miller, "H2O : Suture In Obsessionality"("H2O"はヒステリーから強迫へ、の意))

ラカンは『精神分析の裏面』のセミネールで、このことをヒステリーのディスクールとして定式化している。

精神病の症状をラカンの三界によって基礎づける

精神病と想像界について、ミレールはこのように言っている。

精神病は大文字の他者を小文字の他者へ還元することを伴うと言っています。言いかえれば、象徴界想像界への崩壊です。ラカンは最初、精神病的主体が「誰かが自分にメッセージを送っている」という確信を持つことをこのように説明したのです。

また、精神病と現実界についてはこうである。

しかし、これでは現実界の問題は解決できません。象徴界が構成されなかったとしたら、現実界とは何でしょうか? ラカンはこの問題にセミネールIで答えています――精神病では、象徴的秩序全体が現実的なものである、と。つまり、象徴的次元が欠如したとき、象徴的なもの全てが現実的なものとして経験されるのです。象徴的秩序に存在する欠如は精神病的主体にとって現実としてあらわれてきます。この文脈で現実が意味しているものについて考えましょう。〔精神病的〕主体はさまざまなものを描写しようとつとめます――身体の不統一の感覚や、世界の終りが近づいてきた、などです。もしこのような現象が象徴的次元にあるなら、精神病的主体は大文字の他者との対話に入ることができます。しかし精神病では、主体は彼の世界のなかのもっとも現実的なものに直面しているのです。

まとめればこうなる――精神病者の世界は、想像界現実界で構成されている。

  1. 想像界による症状:前述のパラノイア的世界=妄想(例、誰かが私を監視している、私を略奪する、という妄想)
  2. 現実界による症状:象徴界から排除されたものの回帰=幻覚(例、精神病性の幻覚として人の姿や顔があらわれたり、背中を血の塊が流れているなどの訴え)

私たちはヒステリー現象と精神病現象を区別するために、非-対話的なものとしての精神病における現実界の概念を使用してきました。精神病的な幻覚は主体にとって経験上もっとも現実的なものとしてとられます。

ここでミレールは「対話的dialectic」「非-対話的not-dialectic」の区別を導入している。これは「弁証法的」とも訳せる。
ラカンの原典では、こうである。

〔精神病の〕患者の知覚、妄想的な推論、自身についての患者の説明、そしてあなたとの患者の会話などの或る点が、多少なりとも了解しうるということは、実は重要なことではないのです。了解ということにこだわるならば、これらの点から完全に了解可能な核が実際に存在するのだと思わせるような何かが出て来るかもしれません。しかし、その何かが了解できるということは、何の興味もないことです。逆に、非常に私達を驚かすことは、その何かがどんな弁証法的な動きによっても、近づき難く、反応を示さず、流れのないものだということです。
基礎的な現象としての着想を取り上げてみましょう。それは、おそらく、何らかの意味という基本要素を携えていますが、その要素は、そのままの形で反復され、繰り返されます。患者は結局この要素を加工するに至りますが、確かなことは、少なくとも暫くの間は、この要素はそれが持つ「解らない」という特徴をそのまま残して繰り返されるということです。この要素に対していかなる答えも与えられませんし、この要素を会話の中で統合しようとするいかなる試みもなされません。こういう現象は、どんな弁証法的構成へも至ることはありません。(Lacan, S3-Ja35)

つまり、ラカンはヤスパースの「了解」概念に対して、「弁証法=対話」概念をもってして対抗しようとしているのである。
神経症者の幻覚や欲望は対話的である。その対象はつねに葛藤のなかに巻き込まれ、肯定と懐疑につつまれている。
それに対して精神病では、知覚される幻覚の対象は懐疑されない。それは確実に存在するものとして主体に経験される。これをラカンは「排除されたものの回帰」と言っている。
精神病的な幻覚としての「排除されたものの回帰」のもっとも有名な例はフロイトの「狼男」である。もちろん「狼男」は神経症の症例であるが、フロイトの治療が終わってからの短期間のあいだパラノイアであった時期があり、そのときに指を切り落としかける幻覚をみたのである。これは去勢の幻覚である。
以下にこれを表にしたものを示す。

対話的 非-対話的
三界 象徴界 現実界
回帰 抑圧されたものの回帰 排除されたものの回帰
性質 否定できる 否定できない

精神病の幻覚――「基礎的現象」は否定できないほどの「リアルなものle reel」である。それは精神病の主体にとって、通常の現実性よりもずっと強固な現実性として目の前にあらわれる。彼らの周りの人間や治療者がその幻覚をいくら否定しようとも、彼にとってはその幻覚こそが最もリアルな「もの」なのである。このような幻覚は対話に開かれていない。
一方、神経症的な主体にとっては、幻覚は対話に開かれており、常に葛藤と懐疑がある。これは臨床的には、彼らの幻覚が精神病者にくらべて明瞭ではなく、ぼやけたものとして訴えられることに対応している。



以上、ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」を紹介しました。
全訳もおいています。

*1:さらに、これはミレールの整理によると、症状とサントームの違いの説明にも応用される。Ecole de la Cause Freudienneに掲載されている「Du symptome au sinthome」なるミレールの論を参照のこと。

*2:duel