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à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

「(『精神分析の四基本概念』の)文脈と概念」

訳稿

Context and Concept
ジャック=アラン・ミレール


(前半は割愛)


(……)

 私たちに残された限りある時間の中で、四つの基本概念について考えてみましょう。まずはじめに、無意識を取り上げます。このフロイトの概念は自我心理学者たちによって完全に無視されてしまいました。もはや、彼らにとっては無意識は基本概念ですらないのです。彼らは無意識をどう扱うかを知りません。なぜなら、フロイトの第一局所論(無意識、前意識、意識)は第二局所論(自我、超自我、エス)に完全に取って代わられたと彼らが考えているからです。それゆえ彼らは第一局所論を完全に放棄してしまったのです。
 ラカンは主体の概念を導入することによって、無意識というフロイトの概念に新たな命を吹き込みます。実際、ラカンは無意識を主体として紹介しています。なぜなら、主体とはフロイトの概念ではないからです。フロイトがIchと言うとき、主体について言及しているときがあります。フロイトがdas Ichと言うというときは、自我について言及していることがほとんどです。主体はラカンの概念であり、それはフロイトの著作の再整理なのです。

 次の基本概念、反復を取り上げるとき、ラカンはS1とS2の繋がりを導入しています。これは諸物の分節化です。ラカンが転移を提起するとき、それは第一のものと第二のもの――主体と知――の結びつきを通してなされます。つまり、知を想定された主体です。そして、欲動の概念について、ラカンは享楽を導入しています。

 私が提起しているのは、セミネールXIの他の読解です。このセミネールは二つのレベルで読むことが出来るのです。一方では、フロイトの再活性化と称賛です。もう一方では、精神分析について語る新しい方法の導入、つまり精神分析の再基礎づけです。

 ラカンは四つの基本概念を使って、無意識を四つの違った方法で提示しているかのようです。実際、分析経験をあらわす四つの異なったやり方があります。分析のなかで何が起こっているのかを掴む四つの異なった方法があるのです。このセミネールはまったく抽象的なものではなく、アクチュアルな分析実践に非常に近いものです。

 このセミネールは「何が語っているのか?」という問いを提起します。私たちは分析における語りの現象をどのように把握することができるでしょうか? ラカンは裂け目[gap]に特権的な地位を与えています。彼は無意識を定義するのに「躓き、瓦解、ひび割れ」*1を選びました。そして、これ以外に定義する方法はないのです。ここでラカンはフロイトの第一の発見に非常に近いところにいます。その発見は自我心理学者たちによって拒絶されてしまいました。自我心理学者たちはフロイトは彼らほどものを知らないと考えていたのです。「躓き、瓦解、ひび割れです。話された、あるいは書かれた文の中で、何かが躓いてしまうのです。フロイトはこれらの現象に目をひかれ、そこに無意識を捜すことになりました。そこでは、何か別のものが実現化されることを求めています。それは、意図的に見えながら、しかし、奇妙な時間性を持っています。このなかで生まれるものが――「生まれる」、つまり自らを作り出すという意味で生み出されるものが――たまたまの「掘り出しもの」として現れるのです。フロイトの探索が無意識の中で起こることに出会うのはまずこうしてです。」*2

 ここでラカンは『夢解釈』『日常生活の精神病理』『機知とその無意識との関係』に非常に近いところにいます。同時に、ラカンが言うことは非常に実践的です。フロイト派の分析家はこれらの現象に魅了されてしまいました。これらの現象がおこったときに、「まさにこれだ」というのはたやすいことです。ラカンはこの点について、1976年に書いたセミネールXIの英語版の序文にこう書いています「いい間違いの空間がもはや何も意味(あるいは解釈)を支えないとき、そのとき、一つの確信があります。一者が無意識のうちにある。<一者>が知っているのです。」(vii) このようにラカンは別の点、つまり意味における裂け目[gap]を強調しているのですが、また、人が「まさにこれだ」という言うように導かれる瞬間にも焦点を当てようとしています。ラカンはその瞬間を、普通のディスクールにおいて私たちが「そんなことはない」と言う瞬間として、正確に提示しています。分析経験のなかで、反転される何かがあります。そして私たちは、ミスや失敗が起こったときに、「まさにこれだ」と言うのです。これはラカンが主体と呼んでいるものです。ラカンは無意識を無のモードと存在のモードの両方である何かとして提示しようとしています。無意識は、現れるべきでないときに現れる、奇妙な類の存在です。つまり、まさに、奇妙な意図が実現されるとき、というわけです。ラカンは主体としての無意識を強調することを選びました。この主体は実体を何も持っていません。この主体はよろめきです。なぜなら、何かが巧くいかず、欲望それ自身を埋めるように広がるからです。

 ある意味では、ラカンが「主体」と言うとき、それは「欲望」――巧くいかない何か――と言うことと等価なのです。しかし、これがフロイトの無意識のすべてではありません。なぜなら、無意識は反復としても現れるからです。これはラカンがシニフィアンのネットワーク*3として提示しているものです。無意識はシニフィアンの分節化でもあります。しかし、フロイトは患者の夢や錯誤行為に何度も繰り返して現れるものに気づいたことによって、この究明の領野を実践的に作り出したことを私たちは知っています。フロイトはこのことによって、彼自身のロゼッタ・ストーンを発明し、シャンポリオンのカルトゥシュの彼自身のバージョンを指摘したのです。ラカンはまず最初によろめきとしての無意識を強調しましたが、フロイトが反復的な出来事に気づいたのと同様に、つねに同じことを言う無意識の反復をも強調したのです。

 「反復としての無意識」を強調しておくことは重要なことです。なぜなら、それは自我心理学において基本的な考え方である「抵抗としての無意識」を強調することとは完全に違うからです。この著作でラカンが展開しているテーゼは、無意識は反復するが、それと同じように抵抗するわけではないということです。ある意味で、抵抗はこのテクストのなかでは消えてしまっています。抵抗は基本概念としてはまったく現れていません。二次的概念としてすら現れていないのです。ラカンは抵抗の代わりに反復を強調しています。そして、彼が転移について語るとき、騙すことを強調しているのであり、抵抗を強調しているのではありません。ラカンはこのように言っています。

交差という概念によってお解りになったと思いますが、「回帰[Wiederkehr]」の機能、これが重要です。それはたんに抑圧されていたものの回帰という意味での「Wiederkehr」ではありません。無意識という領野の構成そのものが「Wiederkehr」によって保証されているのです。フロイトがその確信を確かなものにしたのはこの点からです。
(Lacan, S11-J63/Fr47-48)

 そしてまた、このようにも言っています。

〔主体が〕そこにいることを知るには、たった一つしか方法はありません。それはネットワーク[réseau]の地図を描くこと[repérer=位置を割り出す]です。では、どのようにネットワークの地図を描くことができるでしょう。それは、戻ることによって、帰ることによって、道を横切ることによってです。つまり何かがつねに同じ仕方で交差することによってです。そして『夢解釈』のこの第七章には彼の「確信」を保証するものは次のことしかありません。つまり、「偶然だと言いた人はそう言うがよかろう。私は、私の経験から偶然というものは決してないと断言する。なぜならそれは、偶然を免れるような仕方で交差するからである。
(Lacan, S11-J59/Fr45-46、邦訳を多少改変した)

 これは無意識についてのもう一つのパースペクティヴです。無意識は裂け目であるだけでなく、反復でもあるのです。そして、この交差を通して、〔シニフィアンの〕ネットワークが構成されるのです。

 つぎに、転移としての無意識に移りましょう。転移は無意識の一つの側面であり(私はこのことを70年代まで、「盗まれた手紙」まで発見していませんでした)、セミネールXIでは転移と反復は二つの異なった概念として扱われています。これは転移についての一般的な理論ではありません。長いあいだ、フロイト自身が転移を反復の一つのモードであると考えてきたのです。つまり、転移は、患者の幼年期における基本的対象への一次愛の反復であるとフロイトは考えていたのです。たとえば、あなたが父親を愛したとしましょう。すると、父親があなたの望むすべてのものとなるのです。あなたは一次愛の対象を手にします。あなたはその対象を、過去の関係を反復することによって分析家へと移送=転移[transfer]します。ラカンの理論構築のなかで基本的なことは、これら二つの概念〔反復と転移〕の完全な分裂、分離です。これは転移の新しい理論を作るためになされました。ラカンはこのことを非常に正確に言っています。「分析家たちの概念化において転移と反復が同じものだとされてしまったために、反復とは分析において覆われている真の性質となったのです」(S11-Fr54) すなわち、シニフィアンのネットワークとしての反復が覆い隠されてしまったのです。これはラカンが以前は到達していなかった真の飛躍的進歩です。『エクリ』のなかには転移を理論化しようとしている箇所がいくつか見受けられますが、そこでラカンが転移を反復のモードとしてみていることが分かるでしょう。ここで私たちは驚くべき飛躍的進歩を手にしているのです。つまり、これらの二つの概念〔転移と反復〕は完全に区別されるのです。

 ラカンは転移を心的現実と結びつけます。例えば、ラカンが転移を「無意識における現実性の現勢化」として定義するときです。しかし、この言葉は現実性[realite]と現実界[le reel]を区別したときにのみ、その真の意味を得ることができます。それゆえ、ラカンが転移を「無意識における現実性の現勢化」であるというとき、無意識における現実界の現勢化と言っているのではありません。あとで分かるように、これは基本的な区別です。ラカンは、無意識の現実性はつねに曖昧かつ騙すものであり、一方、反復は現実界と繋がっており、騙さないものであるということを示しています。セミネールXで不安について語るとき、ラカンは不安をその他のすべての情動と区別しています。分析においても生活においても、不安は欺いたり騙したりするような情動ではありません。ラカンは不安を、彼が現実界と呼ぶものと結びつけています。現実界とは人が掴むことのできないものですが、騙すことはありません。

 セミネールXIを理解するためには、転移を騙すものとしての現実性と繋げる必要があります。そして、反復は欺かないものとしての現実界と繋げる必要があるのです。転移としての無意識を問題にするとき、欺いたり騙したりするものとしての無意識が提示されています――これはフロイトの著作に非常によく現れています。例えば、分析に関する患者の夢を議論するにあたって、フロイトは、患者が夢をみることによって分析家のうちの何かを満足させるよう試みていることを指摘しています。もし、夢の柔軟性と流動性を真剣に受け取るならば、無意識は嘘のない真理それ自体ではないということを認めなくてはなりません。これが、ラカンが真理は虚構の構造を持っていると言うときに意味していることです。これは、ここでの転移についての講義から生まれたのです。

 四番目に、欲動としての無意識があります。これはラカンの著作のなかに常に現れています。そして、ラカンはこれを後に『テレヴィジオン』において発展させました。主体は、あるレベルにおいて、つねに幸せであり、常に自分自身を楽しんでいます。フロイトが『快原理の彼岸』で言っているように、それが不幸や不快として現れようが、いずれにせよ、主体は満足を得ます。もし私たちが快原理の彼岸へいこうとしても、この「彼岸」は、快原理における内的な彼岸であることを強調することになります。フロイトはこのことを非常に正確に説明しています。すなわち、快原理が失敗したとき、現実原理が始動する。このように、快原理が失敗したとしても、快原理によって背負わされた仕事を現実原理が担うのです。現実原理は快原理が失敗したとき、快原理の仕事を引き受けその場所につきます。事実上、現実原理は満足を得るための、より厄介な方法なのです。夢を見るとき、悪夢を見たとすれば、あなたは目を覚まして現実性と接続します。なぜなら夢の基本的機能は眠りを保護することであり、悪夢を見ることによって夢はあなたの眠りを保護することに失敗したからです(夢は願望充足であるということは本当なのですが、その前に何よりも夢は眠りを保護するものなのです。)快原理が失敗し、あなたは目を覚まします。ラカンが言うように、それは目を覚まして夢を見続けるためです。これが、ラカンが現実性は幻想だという理由です。私たちは感覚知覚を通してデータを受け取りますが、この純粋であると想定されるデータを除いて、現実性とは幻想なのです。このように、私たちは幻想と等しい現実性と、私たちが現実界と呼ぶものを区別しなければいけません。現実界とは、圧倒的かつ非常に力強い快原理によって満足されるものに関係しています。つまり、変わらない何かです。それは私たちの夢見と覚醒のすべてを必要としますが、それでもなお快なのです。

 フロイトは欲動のgoalとaimを区別しています。人は欲動の対象を手にしたり手にしなかったりします――口唇欲動の場合を例にとれば、対象とは食べ物です。しかしそれでもなお、フロイトが言うように、対象そのものは重要ではありません。欲動の対象はこれでもあれでもありえますが、欲動の回路において満足させられるものは同じものとして残り続けます。goalに達しないときですら、aimを実現することができます。それが、享楽です。


 私はここまでこれらの四つの基本概念を様々に図式化してきました。最初の概念は、主体としての無意識でした。このことはヒステリーにその基礎を持っています。なぜなら、ヒステリーの臨床的構造は欲望の特権化を示しているからです。反復は強迫神経症によってよく例証されます。ラカンが「ねずみ男」の反復強迫に言及する理由です。セミネールXIにおいて、無意識についての章は症例ドラとの関係から読むことができます。また、反復についての章はねずみ男の症例との関係から読むことができます。転移についての章はヒステリー者の嘘に言及しています。一方、欲動についての章は嘘をつかないものである分析経験の一部について本質的に言及しています。この軌道にのって、私たちは無意識からエスへと進むことができます――これは、ラカン派がフロイトの第一局所論と第二局所論を一つにすることの理由です。私たちは無意識――これは無意識/前意識/意識の区別に関連しています――から出発し、エスに関連する欲動へとたどりつくのです。

 しかし、私がお示ししたいと思っているのは、これら四つの基本概念についてのラカンの概念化に現れている相同的な構造です。ある意味で、ラカンは実際に同じことについて四つの方法で語っているのです。

 まず、ラカンは夢、失策行為などといった無意識の形成物と彼が呼んでいるものによって無意識を提示しています。失策行為を例にとれば、人は言おうと思っていたことを言い損ない、やろうと思っていたことをやり損ないます。人は間違いを犯すわけですが、これこそ分析家が「それこそ正しいことだ」という場所なのです。その場所に真理があります。人が言おうと思っていたことのなかにではなく、人が結果として言い、行動したことのなかに真理があります。このようにして私たちは諸価値の反転にたどり着きます。すなわち、goalにはたどり着けませんでしたが、真のaimは達成されたのです。これがラカンがセミネールXIの終わりでgoalとaimの区別として提示したものです。この構造はラカンによる無意識の提示において既にそこにありました。この奇妙な諸価値の反転は分析経験の要石であります。

 反復。何度も何度も、何かが繰り返されます。(セミネールXX『アンコール』のタイトルの真の訳語は、AgainあるいはMoreとすべきでしょう) ラカンがセミネールXIの「無意識と反復」のセクションにおいて明らかにしていることは、反復するのはaimが満たされていないからだということです。人は何かを満たしますが、それは満たされるべきであったものとは違うものです。『アンコール』においてラカンは、人は満足を得ることはできるが、それはかくあるべき満足には絶対になりえないと言っています。ラカンが、主体にとって常に同じ場所に帰ってくるものとして現実界の概念を発展させたことの理由がここにあります。ラカンは反復を、失敗の反復として捉えています。成功の反復ではありません。このことは、失敗神経症[failure neurosis]*4の概念すら生じさせるのです。

 これが、ラカンが反復とその他の種類の行動を区別する理由です(S11-Fr143)。フロイトの反復[Wiederholung]の概念は、習慣やステレオタイプの行動とは何の関係もありません。なぜなら、フロイトが反復について語るとき、それは、つねに出会い損ねられる何物か、つまり欠如したものとの関係において語っているからです。このようにして私たちはフロイトが「潜在期」という言葉で意味していたことをよりよく理解することができます。繰り返し関係を打ちたてようとした一次的対象があります。反復はつねに或る失われた対象と繋がっています――反復とはその失われた対象を再び見出そうとする試みなのです。しかし、その対象は<父の名>の操作を通して、常に禁止され失われています。ラカンは母親が基本的なもの[Ding]であると言っています。これは常に失われたものであり、反復が回復しようとしますが、常に出会い損ねるものです。

 ラカンは現実界を、つねに間違いと不可能な遭遇と関連付けて語っています(S11-Fr53)。それならば、私たちはどこで現実界と出会うことができるのでしょうか? 私たちが精神分析の発見において持っているものは、一つの出会い、本質的な出会いであり、私たちを逃れる現実界とともに常に召集される約束です。それは一つの約束なのですが、何物かが出会いの場所に現れることがありえない約束です。愛の領域における予約、出会い、デートの重要性を考えてみてください。現実界なしにはどのようなラヴ・ストーリーもありえません。なぜなら、人は会う約束をし、何度も繰り返し日程を変更しますが、現れるのは何か違うものなのです。

 これはオートマトンの彼岸である現実界との遭遇です。記号の執拗性あるいは回帰です。現実界とはオートマトンの背後にあるものです。この場所にラカンは反復を導入します。重要なのは反復ではなく、出会い損なわれるもの〔現実界〕なのです。

 このようにして、ラカンの反復についての議論と、主体としての無意識の提示との相同的な関係がお解りになったことでしょう。それは常に、出会い損なわれるものについての問いです。そして、この間違いにおいて、それ〔現実界〕が位置し、また現れるのです。

 第三の点、転移に移りましょう。もう時間がほとんどありませんから。ここでラカンはgoalとaimの弁証法を導入しています。ラカンは転移を無意識の基本的な騙しとして提示しています。ラカンは「私は嘘をついている」という言表の例を用いています。ここで彼の議論のすべてを追うつもりはありませんが、ラカンが言うには「私は嘘をついている」という患者は、論理的な長ったらしい説明を省けば、「私はあなたを欺いている」ということを意味しているのです。その瞬間に分析家はこのように言うでしょう、「そのように私に言うことによって、あなたは真理を言っているのです。」 ラカンは「分析と真理」と題された章にみられるシェーマにおいて、この価値の反転を再び例証しています。これは真理を言っていないと人が言うまさにその瞬間に起こるのです。人が夢の中で嘘をつくときでさえ、夢の解釈によってそこに真理を生じさせることができます。このように、ここにも前にみた同じ構造があるのです。

 第四の概念は欲動です。ラカンは例として、食べることは口唇欲動の表明であるだけではないことを示しています。この欲動の対象あるいはgoalは食べ物です。しかし、この欲動のaimは享楽であり、どんな食べ物でも満足させることがおそらくできないでしょう。例えば、食思不振症は口唇欲動の全域を例証しています。すなわち、食思不振症者は何も食べずに、口唇享楽から死に至るレベルへと――死の欲動のレベルまで――引き上げられたものを抽出します。食思不振症者は口唇享楽における究極をあらわしているのです。



以下の注はすべて訳者のものである。

*1:Lacan, S11-J31/Fr27

*2:Lacan, S11-J31/Fr27

*3:邦訳で、「シニフィアンの網[réseau]」とされている言葉。サイバネティクスに対するラカンの関心や「順列組み合わせ」などの表現から考えて、英訳で使用されている「ネットワーク」という訳語の方が妥当であるように思う。「réseau」は単なる網でもあるが、交通・通信などの組織網、あるいはクモの巣の網[réseau d'une toile d'araignée]のような意味だと思われる。

*4:ルネ・ラフォルグによって作り上げられた概念。