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à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

無意識の位置

Position de l'inconscient



E829
ボンヌヴァル会議にて。1960年の発表を1964年に書き直した。


フランス精神医学界を支配する権威を持つアンリ・エーは、フロイトの無意識をテーマとして、ボンヌヴァル病院における彼の部門に、非常に幅広い専門家を集めた(1960年10月30日〜11月2日)。
私の生徒であるラプランシュとルクレールのその会議での報告は、私の仕事の構想[conception=概念形成]を広めた。それは、タン・モデルヌ誌[Temps modernes]に発表されて以来*1、そのことを証明しているが、また、お互いの意見の相違[divergence]も明らかになった。
会議で行われる介入というものは、議論が賭けを伴っているときには、位置づけられるためにそれなりの注釈[commentaire]を要請する。
会議でなされたテクストをすっかり書き直すにしても、その作業は非常に骨の折れるものである。
その書き直しに必要な時間とともに、面白さが失われてしまうのである。それゆえ、論理的時間として考えられるこの時間において起こることをもって、それに代えなければならない。
一言でいえば、〔1960年の会議から〕三年半の時が経ち、その期間を追う暇もほとんどなかったのだ。そのため、私は、デクレ・ド・ブルウェール社から刊行されるこの会議についての書籍*2のなかで、アンリ・エーに以下のように紹介してもらうことを決めた。

《このテクストは、J.ラカンの発言を要約しており、この発言はその重要性によって、討論全体の中軸となった。この発言の要約は、私の要求によって、1964年3月に書かれた以下のページに、ジャック・ラカンによってまとめられた。》

私たちとしては、より親密なまとまり〔であったボンヌヴァル会議〕から抽出された一つのテクスト〔=この論文〕において、この〔三年半の〕論理的時間が諸事情を以下のような記載に還元してしまったことを、読者にお許しねがいたい。


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 哲学者、精神科医、心理学者そして精神分析家がそれぞれの専門分野という明目で招待されたこのようなコロックにおいて、フロイトの諸々のテクストが持つ真理[verite]の水準において、注解[commentaire]が一致していません。
 無意識については、フロイト的経験からその核心へ向かわなければなりません。
 無意識とは、主体を構成する[constituer]ために操作するものの痕跡[trace]に基づいて鍛え上げられた概念《である》。
 無意識とは、心的現実における意識の性質(あるいは徳性)を持たない領域[cercle]を定義する種概念《ではない》。
 〔「無意識」という語についての〕これら二つの語義[acceptions]の下に、無意識に属する[relevent]現象がありうるでしょう。〔しかし、〕これら二つはやはりお互いに異質な[etranger]ものにとどまります。この二つのあいだには、同音異義[homonyme]の種概念という関係しかありません。
 私たちがランガージュに与える主体の原因[cause]としての重要性のために、私たちはもっと正確を期さなければなりません。といいますのも、最初に示した語義を引きずり降ろしてしまうような「無意識」概念についての非常識[aberration]が盛んになってきており、同音異義の種概念〔である第二の語義〕の下に無制限に[ad libitum]登録可能であるような諸現象にまで「無意識」の概念が適用されてきているのです。このような〔無制限の〕諸現象から出発して〔無意識という〕概念を復興する[restaurer]ことなど、考えられないことです。
 私たちが初めにお示しした〔二つの〕立場である《である》と《ではない》が招いてしまう曖昧さ[equivoque]について、はっきりさせておきましょう。
 もしフロイトが諸論文で述べていることを聞こうと欲するならば、無意識とは、私たちが言うところのもの《であります》。
 フロイトにとっての無意識は他の場所でそのように〔「無意識」と〕呼ばれているものではないと言ってみましても、私たちが言おうとしていることを聞いていただかなければ、ほとんど意味がありません。つまり、フロイト以前の無意識[l'inconscient]は、まったく[purement et simplement]存在しないのです。なぜかといえば、フロイト以前の無意識は、それを「非-黒[l'in-noir]」と位置づけることによって定義することほどしか、対象[objet]としての価値を持っておりませんし、実在[existence]を持つと見なしうるにも値しないからです。
 フロイト以前の無意識はこの《非-黒》程度の確かさしか持っていません。すなわち、黒という語に与えられる様々な意味[sens]の集合、そして、(物理的、道徳的意味での)腹黒さ[noirceur]の属性(あるいは徳性)を拒絶するその言葉のの集合であります。
 ドゥヴェルショウヴェ[Dwelshauvers]が古くなったとはいえ、時代遅れになったとはいえない著作(1916)*3のなかで調べ上げた〔無意識についての〕八つほどの定義を扱ってみましょう。ここにある八つほどの定義には、実際、どのような共通点があるというのでしょうか? 1.感覚の無意識(いわゆる光学的コントラストや錯覚[illusion]におけるもの)、2.習慣が生み出す自動症的無意識、3.二重人格における共通意識[coconscient](?)、4.思考の創造[creation]に方向付けを与える潜在的活動のイデア的出現、5.その思考の創造に関連しているといわれるテレパシー、6.記憶に獲得され統合された基盤、7.私たちの性格を凌駕する情念的なもの[le passionnel]、8.天賦の才能に認められるという遺伝、9.「精神活動[l'acte de l'esprit]」に含まれる理性的あるいは形而上学的な無意識。

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(思い違いでなければ、精神分析家たちが蒙昧主義によってそこに〔=これら八つほどの無意識の定義に〕付け加えたものほど、これらの無意識の定義に似ているもの*4はありません。彼ら精神分析家たちは無意識を本能あるいは彼らの言う本能的なもの[l'instinctuel]から区別していません。つまり、アルカイックあるいは原初的なものであり、このような錯覚[illusion]はクロード・レヴィ=ストロース*5によって決定的に暴き立てられました。さらには、いわゆる「発達」の発生論からも区別していません。)
 私たちは、心理学的客観性によってそれを基礎付けようとも、ここには何も共通のものがないということを言いたいのです。たとえ精神病理学に図式を広げても共通のものはありません。そして、この混乱[chaos]は心理学の中心的エラーを映しだす反射装置[réflecteur]に過ぎないのです。このエラーは、意識それ自体という現象を単位[unitaire]として扱いますが、統合化能力[pouvoir de synthese]として考えられる同じ意識について、感覚野の解明された領域や、感覚野を変化させる注意力や、判断の弁証法や、平凡な夢見についても語っているのです。
 このエラーは、〔前段落のような〕諸現象を例にとった思考実験の価値を、不当にもその諸現象に譲り渡す=転移させる[transfer]ことの上に立脚しています。
 この〔思考〕実験、つまりデカルトのコギトは、最大のそしておそらく最後の快挙です。これによって知の確実性に到達するのですから。しかし、だからこそコギトは、〔コギト〕自らが依拠している契機がいかに特権的なものであるかを暴きだしています。そして、コギトは意識を備えた諸現象に身分を与えてやるために、その特権を拡大しましたが、これがどれだけインチキであったかを暴き出しています。*6
 科学にとっては、反対に、コギトは直観[intuition]において条件付けられるあらゆる保障[assurance]からの断絶を記しづけています。
 この創設的契機[moment fondateur]の潜在性が追い求められているわけですが、それは自己意識[Selbstbewusstsein]のように、ヘーゲル精神現象学弁証法的シークェンスにおいて、絶対知[savoir absolu]という前提に立脚しております。
 反対に、心的現実の組成[texture]がどのように整理されようとも、すべてのことが心的現実における意識の配分[distribution]を証明しています。この意識の配分というのは、レベル[niveaux]とそれぞれの不安定さ[chacun erratique]に関して異所性であります。
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 意識の唯一の均質化作用は、自我が自らの鏡像的反射物によって想像的に篭絡[capture imaginaire]されることにあり、また、そこに繋がれてのこっている誤認の機能にあります。
 心理学に内在的な否定〔=ではない〕[denegation]は、この点で、ヘーゲルに従うならば、むしろ、心の《法則》ならびにうぬぼれの妄想のせいであるとすべきなのです。
 この不滅のうぬぼれが受け取る助成金は、科学的名誉のようなものに過ぎませんが、ある問いを生みます。この問いは、この不滅のうぬぼれによる利得というお上品さ[bon bout]がどこから生じているのか、というものです。この問いは、多少の豊富な概論を出版したからといって解決できるようなものではありません。
 心理学は諸々の理想の伝達手段なのです。つまり、心理学ではもはやプシュケは心理学にアカデミックな資格を与える後援者にすぎないのです。その理想は社会の奴隷です。
 私たちの〔社会〕の特定の進歩が、この事柄〔=心理学が伝達する理想が、社会の奴隷となっていること〕を明らかに示しています。心理学は市場調査に道を提供しているのみならず、市場調査の要望に従っているのですから。
 この種類の研究は独自の方法によってアメリカ合衆国の消費を支援することを決めましたが、心理学はこの目的に最も適した人口の半分〔つまり人口の半分を占める女性〕に、女性は性の諸理想を通してしか自己実現されないと呼びかけることに自ら加わり、そしてフロイトをそれに加えさせているのです(戦後のある時代に指導された「女性信仰[mystique féminine]」の潮流についてのベティ・フリーダン〔の研究〕を参照)*7
 おそらく心理学はこの皮肉な販路をつかって、心理学の常に変わらぬ生計の道理〔=心理学がどのように生計を立ててきたか〕を白状してくれるのではないでしょうか。しかし科学は、科学の形成に暗黙のうちに含まれている倫理を忘れてはいないでしょう。その〔科学の〕倫理は包囲されたイデオロギーをすべて拒否すべきだと命じるのです。いずれにせよ、心理学者たちの無意識は思考に対して衰弱しているものであり、〔心理学者たちが〕唯一の信用〔あるものとして考えている〕思考*8は無意識に異議を唱えるようにするものなのです。
(……)
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(……)
 〔無意識についての〕このような配慮は政治的なものではなく,技術的なものです.それは,私たちの教義によって確立された以下の条件に基づくものです.すなわち,精神分析家たちは無意識のあて先となるものを構成しており,そのために無意識の概念の一部をなしているのです.私たちはそれ以来,無意識にかんする私たちの言説を,無意識が語る命題に含めずにはいられません.*9無意識の存在は,<他者>の場に位置づけられるために,すべての言説において,その言表行為のうちに見つかるのです*10
(……)
 導入的な段階として、動物がある度合いのランガージュ――すなわち人間のランガージュ――を持っていない場合、動物における無意識を想像できるか、という問いを生徒にたずねることによって、言表行為としての効果を想像することができます。もし生徒が、無意識が存在する可能性を考慮するための条件として少なくともランガージュが必要であるということを肯定するなら、彼は「無意識」と「本能」を区別しているのだということを確認できるのです。
 これは最初の良い兆しです。同じようにすべての分析家に聞いてみましょう。その分析家が養成された教義にかかわらず、彼の分析家としての職務(患者のディスクールに耐え、意味の効果を回復し、返答することによって患者を疑問のまっただなかへ放り投げたり、また沈黙をたもっていたり)を全うするにあたって、なにか本能のようなものを扱ったと感じたことが今まであったかどうかを聞いてみるのです――はたして彼らは「はい」と答えるでしょうか。
 フロイトの分析的著作や著作の公式翻訳*11フロイトは一度も「公式」とは言いませんでしたが)を読んでいると、「本能」という言葉がたくさん使われていますが、フロイトの概念の有効性を塞いでしまうこのようなレトリックは取り除いてしまったほうがよいでしょう。分析経験についての論文にふさわしい文体は、理論全体を構築することはありません。しかし、次のようなことは保障できます――分析経験は諸々の言表によって操作を行いますが、言表とともに言表行為という隔たり[recul]を維持しているのであり、その言表行為のなかで隠喩と換喩の効果が構成されるのです。すなわち、私のテーゼに従えば、フロイトが無意識のメカニズムとして描き出したメカニズムそのものは、言表行為のなかで構成されるのです。
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 しかしここで当然のように疑問が生まれます。その隠喩や換喩といった無意識のメカニズムはランガージュの効果なのか、それともパロールの効果なのか、という疑問です。この疑問はソシュールの二分法の概略を想定しているだけであると言っておきましょう。ソシュールが興味を持っていたもの――ラング[la langue]における諸効果――に方向をさだめるなら、共時態と通時態のあいだに織りなされているものに縦糸[chaine]と横糸[trame]を提供するのがその疑問なのです。
(……)
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(……)
 シニフィアンの領域は、シニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を代理表象するという事実を基礎に成立しています。これはすべての無意識の形成物、すなわち夢、いい間違い、機知の構造です。これと同じ構造はまた、主体の原初的分裂[division]を説明してくれます。シニフィアンはいまだ位置づけられていない《他者》の場所に作り出され、いまだ話すことのできない存在から主体を生み出します。しかし、このことはその存在を凍りつかせてしまうということをその代償とするのです。《そこにあった[il y avait]》今にも話さんとするものは消え去り、もはやシニフィアン以外の何物でもないものになります。ここで私が「il y avait」と申し上げたのは、フランス語の半過去の二つの意味を念頭においています。つまり、今にも話さんとするものを前の瞬間に位置づける(すなわち、そこにあったがもはやなくなってしまった)という意味と、後の瞬間に位置づける(すなわち、そこにありえたのだから、少し時が経てばそこにあるであろう)という意味です。

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 この操作が疎外[alienation]と呼ばれるのは、この操作が《他者》のなかで始まるからではありません。主体にとって《他者》が主体のシニフィアンの原因であるという事実は、どんな主体も自身の自己原因にはなれないということを説明してくれるだけです。これは主体が《神》ではないからというだけではなく、《神》を主体としてとらえた場合、《神》自身も自己原因になれない、ということから明らかです。聖アウグスティヌスはこのことを非常に明確に理解していたので、個人としての《神》に「自己-原因」としての性質を与えることを拒んだのです。

 疎外は主体の分裂[division]に存在しています。主体の分裂の原因についてはさきほど指摘しましたので、その分裂の論理的構造の議論に移りましょう。この分裂とは、ヴェル[vel]です。これは、私がここに初めてその独自性をお示しするものですが、その独自性をお示しするために、いわゆる数論理学において集合(これはすでにある種のヴェルを定義するものとして認められています)として知られているものに由来するものである必要があります。

 この集合は、疎外のヴェルと私が呼んでいるものが集合の項のなかの一つの項を取り除くためだけに選択を押しつけるような集合です。この集合は、選択がいかなるものであれ、つねに同じものになります。そのために、集合が二つの項を含む場合には、賭けは他の項を保持するか失うかということに明らかに限定されています。この分離[disjonction]は、シニフィアンが要求や供給における――「金か命か」「自由か死か」における――さらに個人的なレベルにおいて具体化されるやいなや、劇的ではないにせよ、非常に明示的なかたちで具現化されます。

 これはただ、あなたが命を守るか、あるいは死を避けるかどうかを知ることなのです。なぜなら、もう一つの項、つまり金や自由を選べば、あなたの選択は期待はずれなものにならざるをえないからです。

 その選択によって残されるものはいずれにせよもぎとられた不完全なものであるということに注意してください。それは金のない命になったり、死を避けたために自由を代償とした居心地の悪い人生となるのです。

 これはヴェルがここで弁証法的に機能し、「et」(然りと否[sic et non])と等価なものとして知られている論理集合についてのヴェルにおいて明確に操作する、という事実の痕跡です。このことは、長い目で見れば金のなくなった命をあきらめざるをえないであろうことや、最後に残されるものは死ぬ自由だけであるという事実に明らかである。

 同じように、私たちの主体も、受けとるべき意味か、化石化か、というヴェルに従属しています。主体は意味を保持するために、主体がシニフィアンへと変化することによって生産される無意味がこの(意味の)領土を侵略することになります。この無意味は《他者》の領野の支配下にありますが、主体の消滅[eclipse]によって生産されるのです。
(……)

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 (……)解釈において働いているのは意味の効果ではありません。むしろ、解釈において捉えられた(まったく意味を欠いた)諸シニフィアンが、症状のなかで分節化することが働いているのです。
 第二の操作にとりかかりましょう。この第二の操作において主体の原因づけが閉じるのですが、その操作では、縁の構造をそのリミットとしての機能において、また、無意識の侵略を動機付けるねじれにおいて試しています。私はこの操作を「分離[separation]」と呼びます。この「分離」において、フロイトが「私の分裂[Ichspaltung]」あるいは主体の分裂と呼んだものを見つけることができます。また、フロイトがその「私の分裂[Ichspaltung]」という概念を紹介したテクスト*12において、主体の分裂ではなく、対象(すなわち、ファルス的対象)の分裂にその基礎をおいたことの理由を理解することもできるのです。
この第二の操作によって弁証法的に変形する論理形式は、象徴論理学において「共通部分」と呼ばれ、また、(……)


*1:タン・モデルヌに掲載されたラプランシュとルクレールの論文は、以下のものである。LAPLANCHE, Jean, LECLAIRE, Serge. Inconscient, une étude psychanalytique, Les temps modernes, 1961, juil., n°183, p. 81-129. これは、イェール・フレンチ・スタディーズにも英訳されている。Laplanche, Jean, and Serge Leclaire. "The Unconscious: A Psychoanalytic study." Yale French Studies 48 (1972): 118-78.

*2:アンリ・エー『無意識』(みすず書房

*3:Georges Dwelshauvers, L'inconscient (Paris:Flammarion,1916)、S11, J30/Fr26も参照。

*4:ressemble。Ey版ではrassembleとなっており、Finkは後者を採用している。

*5:『親族の基本構造』の「アルカイックな錯覚」の章。

*6:デカルトはコギトによって一度は亀裂、空隙としての無意識の主体を発見した(=《思考実験の価値》)のだが、その発見をあらゆる意識現象にまで拡大してしまい、凡庸になってしまったというような意味か。

*7:Fink注:See Betty Friedan, The Feminine Mystique (New York: W.W.Norton, 1963), especially chapter nine, "The Sexual Sell."
isbn:447988033X:detail

*8:Ey版ではpenséeのあとに「,」なし。

*9:Ey版では,「meme qu'il enonce」の後がカンマではなくコロン.

*10:Cf. E800.

*11:英語版全集、いわゆるStandard Editionのこと。

*12:「防衛過程における自我の分裂」。ラカンはこの「自我の分裂」という訳に異議をとなえている。