à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

ジャック=アラン・ミレール「症例提示の教育」の断片

以下に、タイトルの論文を一部訳出します。ラカン派によるクレランボーの精神自動症論のさわりとして、そして、この精神自動症をはじめとする精神病症状に関する精神医学的知がラカンの「大他者」概念の基盤となっていることが明晰に示されていると思います。



 (前半は割愛)
 このS〔S症候群=精神自動症のクレランボーによる別名〕の導入は精神病臨床を途方もないほどに拡大しました。この導入によって、当時しっかりと確立されたものであったマニャンの精神病などの疾患単位を取り壊すことが行われました。これには、〔疾患分類の〕目録を整理したという価値があります。フランスの臨床は、妄想病=精神病déliresを記述し分類することに関しては、つねに抜きん出ていました〔被害妄想病、解釈妄想病、空想妄想病など多数の疾患類型が作られたことを指す〕。Sはこの〔ような精神病を記述的に類型化する〕潮流には属しません。つまり、Sはすべての精神病の初期形式として提示されたのです(真のパラノイアと純粋な解釈妄想病については例外です。解釈妄想病はセリューとカプグラによって単離されたものですが、精神自動症とかけあわされ、混合して現れることが非常に多くあります。)Sはそれ自体では無-主題的a-thématiqueであり中立のものです。言い換えればその内容と情動的色彩は後になって生じてくるのです。それが生じてくるのは、パラノイア的、倒錯的、虚言症的、解釈的といった様々な「資質fonds」*1に従って、あるいは熱情的プロセスに関連しているか否かに従ってであり、それを基盤として生産されるのです。Sは自律的なものであり、言い換えればその所与に依存しません。しかし、Sはそれ自身の上で屈折し、分化し、それぞれの臨床像をとるのです。
 「妄想は〔精神自動症に対して二次的につくられる〕上部構造である」とクレランボーは主張しています。さらに、「その〔妄想の〕観念形成は二次的なものである」とも主張しています。それどころか、精神病の原初的なSは、思考には還元不可能な事実として、絶対的事実として押し付けられるのです。理性についてのカント的な事柄を喚起することをためらうことなく言えば、それは〈定言命法Impératif catégorique〉であり、ここで問題となっているものは言表行為の現象に他なりません。
 クレランボーが精神自動症の最初の陽性現象phénomène positif originaireとした「思考反響écho de la pensée〔=自分の頭の中の考えが声になって聞こえる、という統合失調症の症状を指す。考想化声に近い〕」は、寄生的な起源から開放された、言表と言表行為の関係の撹乱でないとしたら何でしょうか? 主体は、継続的に二重化されていることを、並行放送によって自ら発見します。この二重化は主体を解放し、主体に付随し追従するのですが、何かを言うことすらできません。つまり、消え去る、無言の、空白のものとしての二重化は、受信者の位置にある主体を失効させてしまいます。クレランボーが「純粋な精神的現象phénomène purement psychique」とみなすのはこの独立した純粋な言表行為です。この言表行為が開放する離脱したシニフィアンの戯れを、彼は「言語性現象phénomènes verbaux」と呼んでいます。私がここでクレランボーに対して代理させている用語は、それが「神経インパルスの逸脱déviation d'influx」*2といった漠然としたものの一種ではないということを私たちに示してくれるには十分なものです。私たちは精神自動症を、「間主体的な」コミュニケーションそのものの図式において基礎づけるべきなのです。つまり、こういうことです。送信者が受信者となるのは当然のことであり、精神病に固有の撹乱は精神病者が経験しているものの中にまさにある、ということです。
 私たちがクレランボーのSの頭文字を思い切って「構造structure」という語として扱うことは、十分にラカン的な構成です。丸裸にされた――独身者によって、ですが――構造は、自動症学説のサブタイトルに値します。それは、フランス精神医学によって意味と人格personnalitéの名のもとに拒絶されるでしょう。おそらくクレランボーは機械論者だったのです。しかしこの機械主義は隠喩です(1932年のラカンは〔クレランボーの機械論を〕「心因」のなかで考えており、このことを理解していませんでした)。クレランボーはこの点をまったく練り上げなかったため、この点はまったく形式的なものとして残りました。しかし、あらゆる心理学から構造の秩序を切断するというその決定的価値がそれでもなおあるのです。
 結局のところ、クレランボーが彼の自動症を機械論的なものにしたとしても、それは自動症を自律的なもののままにしておくためだったのです。ラカンはクレランボーの自動症に象徴界le symboliqueを発見します。それは、ユングのような象徴ではなく、機械論のなかによりよく関連付けられる象徴です(もちろんそれはクレランボーの機械論ではなく、チューリングやウィーナーの機械論です)。ラカンは象徴界を中立的で原初的なものとし、それをシニフィアン的で構造論的なものとして創設しました。クレランボーが自動症を無-主題的a-thématiqueなものとするとき、そして自動症はまず「思考の通常の形式において、言い換えれば未分化な形式において、かつ明示的な感覚的形式においてではなく」生じると主張するとき、それはひとつの公準postulatです。その公準は、私たちは観察によっていつでもそれを確かめることができます。しかし、その論理的射程を無視することは間違いです。Sは何も意味しません。そして、そのことはその〔思考〕反響という名に含まれています。この意味で、Sはシニフィアンの純粋な効果が関わっているのです。そしてこのシニフィアンの効果は非合理なものとなるのですが、それは妄想的な解読déchiffrement délirantがそれに想像的な意味作用を注ぎ込むからです。
 このような理解は、精神自動症に対する妄想的解釈interprétation déliranteとしての迫害persécutionを、真の迫害から区別することを可能にしてくれます。妄想的解釈はいかなる「医師による取り扱い」をも受け付けないというわけではありません。それは、妄想的解釈では「信頼、同情、寛容、心情の吐露」といった能力が主体に保たれているからです。一方、クレランボーは真の迫害が心因性のものであることを認めていました。私たちとしては、知の構造――これが心因性の真の迫害では問題となっているのです――と言表行為の構造を対立させて区別することが適当であると思われます。私は構造論的な再読ということを行おうとしているだけなのですが、「解釈的妄想délire interprétatif」、「観念因説の刻印を受けたempreinte d'idéogénisme」別の形式は、この構造論的な再読に非常に適したものです。付け加えれば、クレランボーはマニャンの進行性体系性幻覚精神病psychose hallucinatoire systématique progressiveの解体を成し遂げましたが、これは認識論的な模範であるように思えます。
 自分自身に対する関係のなかで言表行為にズレが生じ、そのズレが何らかのテーマをもった個別化された声を発生させ、それが現実界のなかで荒れ狂うに至るとき、あるいはまったく単独で語る言語によるバーストしたメッセージの通過を主体が自ら経験するとき、あるいは主体が自分の内部から監視されていると感じ、〔その内部からの〕命令や制止に従属し、かつその命令や制止の生産物を自分のものにすることができないとき、それは偉大なる「外来症状xénopathie」〔フランスの精神医学者ポール・ギローの用語。外部から主体のなかに侵入してくるような現象の総称として用いられる。精神病症状の特徴は外来性xénopathiqueであると彼は考えた〕です。ラカンはこの外来症状を言語の領野のなかに基礎づけ、それに大他者のマテームを与えたのです。大他者のディスクールは、ラカンがそれを発明する前から、そしてそれをフロイトがフェヒナーのなかに見出していた前史的な大他者と接合する前から、精神医学臨床のなかに既に存在していたのだと言い立てることは行き過ぎでしょうか? すべてのパロールが大他者のなかで形成されることをその構造が望むとすれば、〔精神病症状の/という〕外来的な出現は構造のなかに基礎づけられます。そのため、もはや「狂人とは何か?」ではなく「なぜ私たちは狂人にならずにすんでいるのか?」が問題となるのです。
 いわゆる正常な主体は〔精神病者よりも〕パロールの作用が少ないわけではなく、精神病者よりも外来的でないわけではないのですが、なぜそのことに気付かないのでしょうか? 次の問いは私たちがいま指摘した事柄よりも転覆的なものであると私は考えます――なぜ私たちは自分が自分の思考の権利所有者であると信じられるのでしょうか? 私たちはあらゆる主体的な書き込みに先行する文法をもつディスクールの操り人形なのですが、そのことを私たちが見誤るようにしているのはどのような転倒なのでしょうか? 正常であるもの、それは外来的なのです。ある主体にとってもはや大他者が覆われていないとすれば、その主体は確かに想像的な術策の手の届かないところにいるのです。
 こうした回り道を経ることによって、私たちは症例提示に連れ戻されます。正確にはラカンが昨年のセミネールで言及した唯一の人物、つまり非常に純粋な精神自動症の症例を「ラカン的精神病psychose lacanienne」という用語でピン止めした、あの症例のことです。
 この患者sujetは『エクリ』を読んでいました。しかし、実際のところ『エクリ』を読んでいたからといって、彼の経験の真正性を疑うことはまったく出来ません。彼は自らが「押し付けられたパロールparoles imposées」、さらには「放出されるémergentes〔パロール〕」と呼ぶものに占拠されていました。そのパロールが彼の私的な思惟の領域に侵入するのです。そして、そのパロールの言表内容がたとえ彼に最も頻繁に割り振られていたとしても、彼は自らをその発言行為の主体énonciateurとして認めることができないのです。それぞれのパロールは、パロールを他の種類のフレーズで、「反省的réflexif」と言われる種類のフレーズで補完するように彼に要求します。この「反省的réflexif」と言われる種類のフレーズは、彼が自分で発信していることを知っているものです。反対に以前の種類のもの〔=押し付けられたパロール〕については、彼は主体として言表内容に参加してはいません。彼は、いわば大他者のディスクールの出現に参加していたのです。しかし、直接的な形式下において、彼はあの転倒を安心して無視するということがないのです。つまり、私たちが語られているのにもかかわらず、私たちは自分が語っていると信じてしまう、あの転倒のことです。この点から私たちは移動し、私が狂気に関して述べた問いである「私たちはなぜ気づかないのでしょうか?」を見てみましょう。ラカンは「私たちが依存するパロールはいわば押し付けられたものであり、そのパロールは上張り、寄生するもの、人間存在が苦しむ癌の形式ではないでしょうか」と問いました。この問いによって、私たちが自らを精神病者と同一視するとしても、それは精神病者が私たちと同じように言語の虜になっているからです。しかし、もっと重要なことは、精神病者がそのことを私たちに教えてくれるということです。
 ラカンの提示での患者の〔=患者による〕教育は――こう言われなければならないわけですが――、規範が社会的なものであること、ある人間の狂気は他者の狂気とは異なること、正常なるものは狂気であり、狂気は論理的である、という煩瑣な議論よりずっと先を行っているように見えます。「正常」という語をアンチノミー的にならないように用いる良い用法はありません。ラカンは正常という語をその反対物の同義語として用いました。彼を軽い精神遅滞、イタリアのための活動する非文化人、単にプラース・ド・イタリーで車にはねられた者、非社会的な人物、虚言癖の誰でもない人物、かつては怠惰ないたずらっこであり、外来症の現れ方manifestations xénopathiquesはあまり説得力がなくヒステリー的かもしれないような人物として紹介しているのであり、ラカンが彼に正常であるという診断をつけることもありうることです。強い人格、それはパラノイアの側に見出せるものです。パラノイア精神病は人格と「関係」をもってはいません。ラカンが修正するところでは、パラノイアとは人格なのです。
 提示された人々は、偉大な妄想者grands délirantsばかりであったというわけではないと思われます。ラカンは老人性認知症とは対面しませんでしたが、偉大な精神病は稀でした。では結局のところ私たちは何を目にしていたのでしょうか? そこには、いくらかの要素現象phénomènes élémentairesを呈する人々がいました。要素現象というのは、それに基づいて、病の進行を予想するという本質的な問いがなされるものです。また、ラカンの意味での正常な人間もいました。正常な人間といっても、適切に象徴界に捕捉されていないがゆえに、警察官が収容所へと追いやろうとし、出所したり歳入所したりしながらその人生を終える恐れのあるようなトラブルメーカーのことです。彼らは不安定さ、非一貫性を残しており、解消されるという望みがほとんどないのです。
 私は昨年提示されたある人物のことを思い出します。ラカンによればその人物は「私たちの環境を構成している普通の狂人たちのなかの一人」として数えられます。彼女は〔症例提示の〕のっけから「人々が自分を価値付けvaloriserしようとしている」と言いましたが、多くの出席者が彼女を公衆のものとしていたのですから、その発言はしっかりしたものです。「私はいつも雇用主とのあいだに問題がありました。私は、やらなければならない仕事があるときに人が私に命令を与えることが受け入れられないのです。他にも、時間を押し付けられることも受け入れられません。私は自分を楽しませることをするのが好きですから、給与明細書を破きます。私は何も参照しませんし、社会の中に場所を探そうともしません。これ以上場所をもっていないのです。私は真の患者でも偽の患者でもありません。私は自分に似ていない複数の人物に同一化しました。私は衣服のように生きるのが好きで……」 おそらく、言語の創造の下書きに気づくことができるでしょう。彼女はほんの一瞬、誰かが彼女に催眠術をかけ、誰かが操り人形の糸を引くことを望む、という観念を持っていました。しかし、それはすべて一貫したものではありませんでした。彼女は絶え間ない流動のなかにあり、それは彼女が次のような特筆すべき公式によって明晰に翻訳したようなものだったのです――「私は自分自身のパートタイムなのです」。母、彼女は「母に似ること」を望んでいました。そして、ラカンが彼女に子供のことを聞いたとき、彼女は子供から離れて暮らしていたので、子供の写真をみせられても何の反応もしませんでした。
 私が〔ノートから〕復元するところでは、ラカンはそのときこう言っています。「精神疾患の境界を考えることは非常に難しい。この人物は、ドレスの下に身につけるべき最小限の身体観念を持っておらず、彼女の衣服に住み着くものは誰もいません。彼女は私がサンブランと呼ぶものを例証しています。誰も彼女に明確な形を与えるに至らないのです。ここではそれは深刻な精神疾患ではなく、見分けられる諸形式のひとつであり、それは見当がつくものです。彼女が言ったことには重さや分節化がありません。彼女の再適応を監視することは、私には空想的で取るに足らないものに思えます」。ついで、ラカンはクレペリンにさりげなく言及します。「これをパラフレニーと呼ぶことができます。空想パラフレニーとしてはいけないでしょうか?」 さらに付け加えてこう言います。「これは精神疾患の例で、卓越した精神疾患です」。謎めいた教育であることは間違いありません、しかしあるメンタリティmentalitéを持っていることに苦しんでいるのだということに気づかせてくれます。言語によって侵食されたすべての語る存在parlêtreはメンタリティを持っています。彼女が催眠術と呼んだものは、パロールに内在する暗示の効果に他ならないのではないでしょうか? 虚言症という結果は、シニフィアンによって導き出された主体の縦割りrefenteに内在的なものではないのでしょうか? しかし彼女を見事で説得力のあるものにしているのは、彼女の存在が純粋なサンブランであるということです。つまり、彼女の同一化は、いわば、「自我=私moi」に沈殿しておらず、結晶化しておらず、誰もいないのです。彼女は、ディスクールのなかに書き込まれていないものが精神薄弱であるとすれば、精神薄弱です。そして彼女は、軽躁的であり、自分を失って取り乱したように想像的でした。彼女は至るところで鏡に引っかかるのですが、何にも捕らえられることがありません。純粋で突飛なメンタリティなのです。彼女には主人のシニフィアンがなく、同時に、彼女に何かしらの実体を詰め込むものもなく、彼女の括弧の中を満たし、彼女を「価値付けるvalorise」対象(a)もないのです(対象(a)とは、ラカン派の単独的な実体であり、欠如を作りますが、この欠如は主体の人物に統合の幻想をつねに与えてくれるものです)。
 これは、ラカンの非常にわずかな指摘に無駄骨を折っているだけなのかもしれません。しかし私は、私たちの臨床にはメンタリティの疾患と大他者の疾患を区別することが不可欠である、と言おうと思います。メンタリティの疾患は想像的関係の解放と関わります。つまり、a-a'の反転可能性、象徴的去勢に従属していない取り乱したもののことです。これは純粋なサンブランに接近する諸存在の疾患です。二番目の大他者の疾患を描き出すために、もう一例を思い出しましょう。それは偉大なる犯罪者(懲役20年)の症例です。彼は3年来、思考が聞こえていました。そして、世界が彼を聞いており、卑猥なことを聞いているという印象を持っていました。
 もっとも際立った点は、彼が非常に型にはまった言語を話すことです。「私は幼き頃よりdepuis ma plus tendre enfance」と彼は自分自身について感情豊かに話すのです。自分自身について――彼は52歳で、自分の父親の名前を知りません、会ったこともないのです――、彼はこう繰り返します。「私はささいな卑怯者の一種ですJe suis une espèce de petit salopard」、と。これは彼が確信していることです。彼は迷いませんし、そのことについて揺れ動いたりしません。彼は自分が何であるかを知っています。自分が何の価値もないこと、「堆肥fumier」であることを知っているのです。彼は自殺をしようとしたことがありました。このAという単純な文字なしに、彼の歴史の姿を一続きのものとすることができるでしょうか。彼に恩赦を与え医師のところへ彼を送った高い人格、彼を診察する傑出した精神科医、彼の妻などです。彼の妻は完璧であり、彼は妻のことを何も非難できませんでした。彼の妻は彼の母親を代理している、と彼はあるがままに語りました。
 彼は、その人生を通して、彼に一切の場所を残さない大他者に直面してきたということを明らかにしています。そしてこれは、大他者が彷徨の文体を全く持っていないことの理由なのです。彼はぐらつくことなしに廃物と同一化し、彼は堆肥”です”。無視することのできない確実性のなかでの主体的な一貫性を確かに手にするのです。ラカンが提示の最後に述べた「彼は水没しないIl est insubmersible」という言葉はこのように解釈することができます。さらにラカンは、「彼は妻のことを信じている、彼は妻のことを固く信じているIl croit à sa femme, il y croit dur comme fer」と続けています。実際、彼は妻のことを、彼岸の出現を信じるかのように信じていました。彼は何も欠如していない完全な大他者を信じるかのように妻のことを信じていますが、彼自身を信じているわけではまったくありません。それゆえ、彼に対するその真理が知られるのです。糞便であるということについての彼の確信や、妻への信頼は、彼の思考が見抜かれることや、彼を侮辱する大他者の粗野な声の侵入とともに、まったく同じ一つのものなのです。
 提示の最後に、医師が質問をしています。その質問は、法と人間性が彼に押し付けるようなものでした。「彼は妻にとって危険なのでしょうか? 私は彼を恐れています、私は彼が…と信じています」。ラカンは「いいえ」と返答しました。構造を確信しての返答です。「彼は、彼のためのものです。私は彼がまた自殺をしないかということが非常に心配です」。症例提示の教育があるとすれば、それは、確実性を探すchercher la certitude、ということです。デカルトヘーゲルのような知と確実性を探しもとめるラカンを想像することができるでしょう。これももっとも真な事柄ですが、ラカンは最も具体的な経験からそれらを読み取っているのです。行うべき臨床があるとしれば、それはこういった用語を用いる臨床です。
 知、パラノイア症者はそれ以外を知りません。パラノイア症者の知への関係は症状を形成します。世界中で知が歩きまわり、知が世界を形成するのでなければ、パラノイア症者を迫害するものは一体何なのでしょうか。主体は、他の側に転倒する瞬間に、つまり今朝マルセル・チェルマックが取り上げたような精神病の発病の瞬間には、確信を手にすることが非常に頻繁にあります。
 エロトマニーよりも主要な確信の機能はどこにあるのでしょうか? すべての精神療法をとても無駄なものとしているのがこの点です。つまり、精神療法は、それ固有の明証性を生み出すほどのあまりに強すぎる確信には躓いてしまうのです。それゆえクレランボーは、ひとつの〔臨床〕単位を作りました*3。その単位の妥当性については再度問題とはしません。そして彼はその確信について、公準postulatという語を用いました。この語の論理学的な精彩は、その機能に対して完全に適切なものです。
 エロトマニー症者が大他者の愛を信じるのは、エロトマニー症者がどの個人も信じておらず、エロトマニー症者を誤りに気づかせようとする大他者すら信じていないからです。大他者のエロトマニー症者は、「彼は私に反対のことを言っている〔私のことを愛していないそぶりをみせて、私のことを愛していると言っている、の意〕」と言います、「彼は逆さまの比喩で私に語るのよ」。
 クレランボーの意味で、エロトマニー症者は規則に適った大他者の姿を〈対象〉として選ぶのです。その姿はエロトマニー症者にとってはどこにも位置づけることができません。そしてエロトマニー症者は妄想のなかでその欠如を自ら熱情的に探求するものとしてつくり上げるのです。それゆえエロトマニー症者は、何も欠如していない大他者に欠けているものであり、慈善家であり、全知のものであり、可能であれば無性的asexuéなものであり、聖職者であり、教授であり、医師なのです。
 主体が確信を手にするとき、精神疾患は深刻なものとなります。それは、斜線を引かれていない大他者の病なのです。パロールが無駄話としての位置しか持たないとき、どうやってパロールを用いた治療を行うのでしょうか? メンタリティの疾患は、もし深刻なものでなければ、パロールを深刻には捉えません。なぜなら大他者の次元そのものに欠陥があるからです。一体だれが精神病者の転移を説明することができるのでしょうか?
(了)

Texte paru dans Ornicar?, bulletin périodique du Champ freudien, n° 10, juillet 1977, Ed. Lyse.

*1:「精神自動症…に付け加えられる構築には、誇大妄想的・神秘的・パラノイア的なものがある。どの構築になるかは、病前の心的資質fondsと自動現象の内在的ニュアンスに左右される。」『クレランボー精神自動症』18頁

*2:「私は神経インパルスの拡延的拡散をS症候群の起源であると考える」『クレランボー精神自動症』168頁

*3:熱情精神病psychose passionelleのこと。公準postulatはその中心となるメカニズム。