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à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

『精神病』についてのあれこれ――パロールを捉える?

 ラカンの『精神病』のセミネールは,いまだ統合失調症の病理を考える上で重要なツールであり続けていると私たちは考える.とりわけ「精神病の精神分析」と銘打ちながらも,実際はヒステリーの重症例の分析であるような分析,つまりは神経症の重症例を「精神病」と呼び習わしているにすぎない「精神病の精神分析」とは一線を画す,強力な切断線が『精神病』にはある.
 ところで,ラカンはむしろ,分析それ自体によって「精神病」が引き起こされてしまうことがあることに注意をむけていた.

かなり持続的で,時には決定的な妄想が極めて急激に発現するという,よくある症例の原因は,想像界をそのまま認証し,象徴的平面での再認の代りに,想像的平面での再認を行うことを旨とする分析関係の操作の仕方に由来していると言わねばなりません.分析は,その当初から精神病を引き起こすことがあるという事実は,よく知られています.
(Lacan:精神病,邦訳上巻p.22-23)

 もちろん,このような「精神病化現象」は,本当に精神病が発病したというよりは,想像的関係を重視する分析の不注意な操作によって,人間が元来もつパラノイア性が突出してくるという事態であろう.ラカンに従えば,自我それ自体がパラノイアの構造を持っているのだから.
 しかし,ときにはそのような不注意な操作を行わなくとも,分析それ自体によって,見紛うことのない精神病が発病することがあるとラカンはいう.

前精神病者に分析的に接近したとすれば,どういうことになるかを私たちは知っています.彼らは精神病者となります.つまり見事な精神病が……少々熱心な分析の初期のセッションから発症するということです.たとえば,この時から急にその分析家が,患者に一日中何をすべきか,何をすべきでないかを言ってくる声の発信者となります.
(Lacan:精神病,邦訳下巻p.159-160)

 このような分析による精神病の誘発という事態はどうして起こるのだろうか.ラカンはおそらく,自由連想を介して自分の頭に浮かんだすべての言葉を自分の言葉として語るという特殊な分析実践の性質によるものと考えている.ラカンのセミネールは次のように続く.

他を探すまでもなく,まさに私たちの〔分析〕経験において,精神病の入り口にある動因の核心にあるものに触れているのではないでしょうか? つまり人間に課せられるもののなかで最も困難なこと,彼の世界内存在がそれほどしばしば立ち向かうことではないこと,それはつまり「prendre la parole」と呼ばれるもののことです.つまり,自分の語り(parole)を為すということであって,これは隣人の語りに「はい,はい」と言うこととはまったく反対のことです.これは必ずしも語で表現されるわけではありません.臨床が示すところでは,非常にさまざまな水準でこの瞬間を位置づけることを知るならば,精神病が発病するのはまさにこの瞬間なのです.
(Lacan:精神病,p.285/邦訳下巻p.160,筆者訳)

 すなわち,隣人の語り(パロール)に同調するのではなく,自分自身の語りをなすということが,分析においては求められる.たしかに,「自分自身の語りをなす」ということは,よくよく考えれば考えるほど希少なことであり,「人間に課せられるもののなかで最も困難なこと」「世界内存在がそれほどしばしば立ち向かうことではないこと」という表現もあながちオーバーなものではあるまい.
 このように理解すれば,上記の引用文中で原文のままにしておいた「prendre la parole」の意味は明瞭であろう.すなわちそれは「発言すること」である.つまり,人の言葉を借りるのではなく,自分自身の言葉で,主体定立的に発言することが,精神病構造を持っている人にとっては発病の契機となりうるのである.
 ところで,「prendre la parole」は邦訳では「パロールを捉える」と訳されており,これでは何のことか分からない.すでに形成されている既存の語りを「捉える」ことが問題なのではなく,何も依拠するもののないところからex nihiloに自らの語りを紡ぎ出すという含意が「prendre la parole」にはある.「パロールを捉える」ではむしろ反対の意味にすらとられかねない.『精神病』のきわめて秀逸なレジュメというべき小出浩之の『シニフィアンの病』でも,この誤訳は同様である.ちなみに英訳は「speak out(正々堂々と意見を述べる)」となっており,主体定立的な含みが十分に表現されている.「prendre la parole」は特殊な用語ではなく,日常的な会話で使うかどうかは分からないが,少なくとも論説では「発言する」という普通の意味で一般的に使われる言葉であり,もちろんフランス語の辞書にも例外なく載っている言葉である.なお,『精神病』より後に訳された『自我』のセミネールでは「prendre la parole」は「発言する」と正しく訳されている(le Moi, p.194).
 ラカンは,子供が出来るときや,結婚相手の父に会いに行くときなど,さまざまな例をつかって,精神病の発病契機となる父の機能に直面するときを表現している.このような事態は,状況因としては,進学・就職・婚姻などの「出立の契機」として捉えることができる.笠原は,ある論文*1において,このような出立の契機が状況因となり統合失調症の発病を招くことを論じている.臨床的にも,くわしく病歴を聴取すればするほど,このような出立の契機において発病したであろうことが観察できる症例は少なくない.
 しかし,おそらくそのような状況としての出立が問題なのではなく,その状況が招く「自分自身の言葉で語ることの突然の要請」が問題なのである.こう言って良ければ,それは「語りの出立」ということになろう.自分自身の言葉で,誰の助けも借りずに発言すること.このような状況では,人は父の機能に対する問いに直面させられることになる.精神病者の発病契機となる事態は,「自分自身の言葉で語ることが不成功に陥る」こととして一括できる.例えば,会社の朝礼で他の社員の前に立たされ演説をさせられたある女性は,その翌日から被害的内容を持つ幻聴と実体的意識性の出現をみた.そして,当時を回想して「(朝礼のときは)うまく喋ることができなかった」と語る.このように,前精神病者は,自分自身の言葉で発言しようとした瞬間,語りが「うまくいかない」という事態に陥る.ここにおいて,宮本のいう「言語危機」*2をラカンの理論と対応させることができよう.
 分析がときに精神病の発病を招くという事実は,自由連想の規則がまさに自分自身の言葉で話すことを求めることによる.
 この事態はさらに,想定的知の主体に対する転移という側面からも捉えられるだろう.Colette Solerのテクストの一節を以下に載せる.

さらにLacanがテクストのなかで強調している非常に独特な難しい点がある.それは精神病者にとって転移が発病の要素であるという点である.Freud自身も,患者がFlechsigの人格に対してなした転移のうちにSchreberを精神病へと陥れたものがあることを認めていた.迫害,つまり迫害的な人物の突然の出現は,Schreberにとってすでに転移の効果であることになる.それゆえ,妄想的同性愛は疾患の原因ではなく,その一つの表れであるということになる.それならば,転移それ自体が精神病者にとって病原的であるならば,転移によっていかに操作を行うのだろうか? Lacanはセミネール3巻のなかで実際に,精神病発病前の主体を分析するということは,一般的に言って結果的に精神病の発病を招くことを示唆している.自由連想において想定的知の主体を動員することは,Lacanが<父-の-名>への呼びかけと呼ぶものと等価なのである.
(Soler, C. :La psychose: une problematique. L'inconscient a ciel ouvert de la psychose, p.19)

 一般に自由連想という場におかれると,人は分析家に想定的知の主体の位置をとらすようになる.これは精神病者においても同じである.しかし,精神病者にあっては,これが発病を招く.そして,精神病者が転移において,自分が知らない知を分析家が持っていると想定することは,他者が自分に対して特定の意図を持ち,自分を操作しようとするかもしれないという極めてパラノイア的な妄想を賦活するのである.精神病性転移によって他ならぬ医師や分析家からの迫害妄想が生まれることは,シュレーバーの例を見れば良い.つまり,精神病者は分析家に享楽の意志を見出し,その享楽の対象aとされてしまう.このような事態を,後にラカンは「屈辱的エロトマニー(érotomanie mortifiante)」*3と呼んでいる.
 それゆえ,精神病の臨床においては,「なにかいわくありげだ」と患者に感じさせるような「思わせぶり」な介入をしてはならない.精神病の妄想はまさに「なにかいわくありげだ」(病的な自己関係付け!)から発生するからである.精神病者に対しては,神経症者に対してすすめられるような,無意味のシニフィアンを生じさせるような解釈(Seminaire XI)などもってのほかである.そこに患者は私たちの享楽の意志を見出すかもしれないからである.私たちはむしろ,狂者の秘書となり,曖昧さのない言葉で,彼らの生きる構造的二重見当識を十分に尊重することが必要である*4


 さて,さらにラカンのセミネールの続きを見てみよう.

そのときまで蚕のように繭の中で生きてきた主体にとって,時に実にささいな「発言する(prendre la parole)」という仕事が引き金となるのです.これは高齢女性の「精神自動症」という名によってクレランボーが見事に取り出した形態です.
(Lacan:精神病,p.285/邦訳下巻p.160,筆者訳)

 なぜ女性にとって,高齢になって初めて「発言すること」が求められるのかはここでは明らかではない.女性が父性機能を担わされる機会は,伝統的な男尊女卑の社会ではそれほど多くはなかっただろうと考えられる.そのように生きてきた女性が,高齢になって初めて「発言すること」を求められるというのは,おそらく夫の死別などによって対人的孤立状況に陥り,発言の拠り所とするものを失うことに一つの原因があるのではないだろうか.精神医学は,高齢女性が,死別などの喪失体験から対人的孤立状況に陥り,パラノイア的な病像を呈する一群を「接触欠損パラノイド(Kontaktmangelparanoid)」(Janzarik, W.)と名付けているが,ラカンが語っているのはこの一群ではなかろうか.
 最後に,ラカンが上述の箇所で触れているクレランボーの一節を引いておこう.

あらゆる幻覚性被害妄想病が精神自動症をもって発病すると考えているのではない.はじめから本来の意味での幻覚が出現する例も存在する.そうした例では,精神病は最初の原因後まもなく生じ,主体は一般に30歳以下である.一方,精神自動症をもって発病する例は,遠因による潜行型として40歳頃発展する.そうした例では侵襲は最大限に体系的であり,感情と知的活動は保たれている
クレランボー:精神自動症,邦訳p.43)

 つまり,クレランボーは精神病を年齢で大きく二群に分けて論じており,彼のいう精神自動症は高齢初発群に頻発するものだとされている.<若年―解体型>は30歳以下に発病し,精神自動症などの初期症状を認めずに解体に陥る.反対に,<高齢―非解体型>は40歳ごろ発病し,精神自動症などの初期症候を認め,解体を認めない.
 年齢による発病過程,症状進展,および転帰の違いという点は,十分に考慮されてよいだろう.何よりも,精神分析における精神病の主要な準拠枠であるシュレーバーこそ,高齢初発のもっとも良い例なのだから.

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*1:笠原嘉:「内因性精神病の発病に直接前駆する「心的要因」について」

*2:宮本忠雄:言語と妄想ーー危機意識の病理.

*3:Autres Ecrits, p.217.

*4:加藤敏:統合失調症の語りと傾聴.