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à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

フィンクの臨床論を読む(2)

引き続き、ブルース・フィンク『臨床ラカン派精神分析入門[A Clinical Introduction To Lacanian Psychoanalysis]』*1から。前回取り上げた「欲望」について議論される第5章を参考に論じていきましょう。


精神分析はどのような意味で「親離れ」であるか

「親離れ」という、ラカン理論とはおおよそ何の関係もなさそうなところから始めよう。フロイトは『精神分析入門』第21講で以下のように語っていた。

個々の人間は思春期から、両親から離れて独立するという大きい課題に挺身しなければならなくなります。この課題を解決したのちにはじめて人は幼児であることをやめ、社会共同体の一員となるのです。男の子にとっては、自分のリビード的願望を母親から離し、誰か現実の肉親以外の愛の対象へとさしむけることが課題となります。(……)これは万人に課せられる仕事ですが、その解決が理想的な仕方で、すなわち心理的にも社会的にも正しい姿でなされることがどれほど少ないかは注目に値します。ところで神経症者は、一般にこの解決に成功していないのです。
フロイト『精神分析入門』新潮文庫版(下)p.30、SE16, p.337、強調は引用者)

極度に大雑把にまとめるなら、ここでフロイトが言っているのはこういうことだ――人間の発達課題の一つに「両親と離れて独立すること」つまり「親離れ」があり、親離れできていないのが神経症者である。このような常識的あるいはバナルな見解を、私たちはいったいどのように読めばいいのだろうか。また、ラカンはこのフロイトの文章を、いったいどのように読んだのだろうか。

先に答えを示すなら、こうである。「両親から離れる」とは、ラカン語では「他者の欲望から分離する」と翻訳される。

ではなぜ、欲望はそのように(親の、他者の欲望に)固着してしまうのだろうか? それは、他者(親)の欲望が「汝、何を望むか?[Che vuoi?]」というエニグマティックな回路を通って、欲望についての謎をそのままにしながら、主体の望むことを構成するからである(人間の欲望は、他者の欲望である)。ここで他者の欲望は、主体の欲望の「原因」として機能している(p.53)。欲望は対象を持たない。欲望は「対象a」という対象を持ってはいるが、それは欲望される対象ではまったくない。対象aは、むしろ欲望を「引き起こす―原因[cause]」としての特殊な対象である。このような欲望にあっては、満足と欲望は対立しており、満足を得ることは欲望を殺してしまうことになる。
神経症に分類されるヒステリーと強迫神経症の二つの疾患は、欲望を《満足に至らせないままに》維持する二つの作戦の形式である*2強迫神経症者は、お互いに矛盾する排他的な二項に拘泥する「不可能な欲望」を用意する(「ねずみ男」における父の死と、愛する女性との結婚の二律背反)*3強迫神経症者はいわば「生きながら死ぬ」という論理的不可能を生きている。一方、ヒステリー者は欲望の満足それ自体を消去してしまう欲望、つまり「満たされない欲望」を用意する(「肉屋の女房」の「私にキャビアをくださらないでね」)。このように用意された欲望は、満足を目指さない。もし分析が成功し、主体が自らの欲望の原因との関係を再構成することができたなら、欲望はもはや主体の満足の追求を妨げはしないようになるだろう(p.52)。


一人の人間が分析主体となるとき、つまり分析に入るとき、欲望はどのような状態にあるだろうか。欲望は固着し、固くなってしまっている(p.50)。欲望は対象aに固着してしまっているのである。分析家の役割は、解釈の神託的な効果を使って、この固着した欲望を再び「動かす」ことにある。分析家が、分析主体にとって想像的な他者でもなく、象徴的な大文字の他者でもなく、現実的な欲望の対象、つまり対象aの位置を占めること(対象aとしての分析家)が出来たなら、そのとき「転移操作」「反芻処理[Durcharbeiten]」*4が可能となり、原因へと固着している欲望をひきはがすことができる(p.53)。このことは、前回に述べた「神託的解釈」と併せて、分析家のディスクール[discours de l'analyste]として表現できる。

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分析家が分析主体の欲望の原因を引き受けるようになるにつれて、分析主体は自らの基礎的ファンタスム($◇a)を分析状況に移動させる(p.57)。ここで分析家はどのように対応しなければならないだろうか。

〔基礎的ファンタスムが分析状況に移動させられた後、〕分析主体はこのように考える――分析家は彼(分析主体)に、両親が望んだものと同じもの(……)を望んでいる――。分析主体の考える「大文字の他者が望むもの」が投射・再投射されるのである。しかし、分析家は、分析主体が分析家に期待するところのものにならないことによって、それを打ち砕き、かき乱しつづけなければならない。分析家は原因としての大文字の他者を具現化し、分析状況において原因としての大文字の他者の代理となるが、行動、返答、介入において、分析家は分析主体の期待に答えてはいけない
(Fink, ibid., p.57、強調は引用者)

基礎的ファンタスム($◇a)とは、欲望の固着をつかさどる誤認[meconnaissance]である。正確に言うならば、《ファンタスムは欲動の誤認》*5である。分析家は、分析主体の期待に応えるような形で誤認を助長する方向にすすんではならない。*6むしろ分析家は、ファンタスムという誤認を引き剥がし、欲動(享楽)の現実界を「裸にする」。この操作が、S1という原初的シニフィアンによる同一化の平面の乗り越えを可能にする。分析は、欲望の固着をひき起こした同一化とは逆の方向に進むのである。この点にかんして、ラカンは分析家の欲望、つまり「絶対的差異を得ようとする欲望」*7と名指している。

分析家の欲望とは、主体の享楽を裸にすることであり、一方で、主体の欲望は、ファンタスムとして知られる欲動の誤認によってのみ維持されるのです。
(Miller, "Donc", XVIII - Cours du 18 mai 1994.)

(つづく)


*1:本書は、Google Booksで一部が閲覧できます。

*2:「神経症はあたかも、欲望と呼ばれる何か分節化したものを維持するために出来ている[une nevrose est construite comme elle est construite pour maintenir quelque chose d'articule qui s'appelle le desir.]」(Lacan, S5, Jb270/Fr431)

*3:この点については、フロイトによる見事な定式化を参照すべきである。「ヒステリーにおいて通常起こっていることは、ある妥協が、二つの対立する傾向が表現を同時に探そうとすること――二羽の鳥を一つの石で殺そうとするような――を可能にするものへと到ることである。一方で、強迫神経症では二つの対立する傾向が個別に満足を探す。もちろん、対立者との間にある種の(しばしばすべての論理に抵抗するような)論理的なつながりを作り上げはするのだが」(「強迫神経症の一例に関する考察」、著作集9巻, pp.240-241, SE10, p.194) 神経症とは、欲望を満足から引き離したまま維持する論理的な企みなのである。

*4:以前は「徹底操作」と訳されていた言葉。岩波のフロイト全集の訳語に従った。

*5:Miller, "Donc".

*6:念のために、ラカンの言葉を引いておこう。「我々の操作は、まさに節制的あるいは棄権主義的[abstinente ou abstentionniste]です。それは、要求を要求として決して認証しないということです」(Lacan, S5, Jb268/Fr429)このabstinente ou abstentionnisteという言葉は、おそらくフロイトの「禁欲原則」に対応している。

*7:Lacan, S11, J371/Fr248