à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

フィンクの臨床論を読む(1)

以前にもご紹介したBruce Finkによるラカン派の臨床についての著作は、id:rothko様たちのグループの手によって、すでに翻訳が完了しているとのことです(2008年6月誠信書房より刊行)。本書の邦訳の刊行は、日本ではあまり知られていない「ラカン派の臨床」についての素晴らしい紹介になることでしょう。

というわけで、邦訳の刊行が待ち遠しいこの著作『臨床ラカン派精神分析入門[A Clinical Introduction To Lacanian Psychoanalysis]』の要点(だけ)を、最初の方から大雑把に拾い読みしていきます。最後は、ミレールの"Donc"のセミネール*1に大幅に依拠している最終章を中心に紹介できればと思います。


A Clinical Introduction to Lacanian Psychoanalysis: Theory and Technique

A Clinical Introduction to Lacanian Psychoanalysis: Theory and Technique



「要求に句読点を打ち、欲望の空間を開く」

「電球を取り替えるのに、何人の心理学者が必要?」
「たった一人だけさ。でも電球が本気で変わりたがってないとダメだね!」
(Fink, A Clinical Introduction To Lacanian Psychoanalysis, p.3)

本書はいきなりこのようなアメリカン・ジョークから始まる。これはよく知られた電球ジョーク[LIGHT BULB JOKES]のバリエーションである。「電球ジョーク」とは、「心理学者」の部分を様々な職業に変えることによって、その職業を揶揄したりするのに用いる。
電球とは、ここでは患者のことである。精神分析の臨床においては、患者は自ら「変わりたがって」いなければいけないという不可能に直面する。それゆえ、精神分析の臨床は、「欲望[desir]」を扱うことになる。以前(id:lacanian:20070705)に紹介したエルンスト・クリスの「表面の分析」を批判して、ラカンはこのように言っている。

欲望がすでに患者のいる風景において隠されているときに、欲望を地図上から消去することは、フロイトの教えをよく守ることにはならない。
(Lacan, E602)

ラカンの自我心理学批判の要点は、失墜してしまった「欲望」の地位の復権にあるのだ。


では、「欲望を扱う」とはいったいどういうことだろうか。それは、要求[demande]と欲望[desir]の区別にかかっている。

聞き手としての分析家の能力は注目に値するものである。分析家は、分析主体の発言を「単なる」要求である以上のものとして絶えず「聞き」つづけることによって、要求の下や、要求の背後に垣間見える欲望の存する空間を開くことができる。実際、第二章で言及したように、分析の極度に重要なゴールは、要求の不変性と固着を通り抜け、欲望の可変性と可動性へと向かうことなのである。つまり、欲望を「弁証法化」することである。
(Fink, ibid., p.43)

分析は、分析主体の要求する言葉のうちに、欲望を見て取り、欲望の空間を開かなければならない。
欲望の空間を開くためにの技法が、「句読点を打つこと(スカンシオン)」である(ibid., p.15)。文章に句読点を打つことによって、その文章の意味が大きく変わるように、分析主体の発言に句読点を打つことによって、固着した意味から引き離すことができる。

「神託的な解釈が、現実界を叩く」

分析家はスカンシオンによって、分析主体の語る言葉の意味を決定する「大文字の他者」となる。この大文字の他者は、分析主体の要求の言葉のなかから、それ以上のもの(つまり欲望)を取り出すことが出来る。
しかし、分析家はいつまでもこのような「意味の主人」のポジションを占め続けるわけではない。フィンクが言うには、分析家は「解釈」をするときには、大文字の他者としての役割を辞任しなければならない(p.45)。

これは、ラカン派の臨床で行われる「解釈」というものの性質のためである。「解釈」とは、分析主体の欲望に対して、噛み砕いた明瞭な意味を与えることでは決してない。解釈は、説明ではないのだ。むしろ、解釈は、オイディプスがデルフォイで得た「神託」のようなもの、つまり謎めいており多義的な「無意味のシニフィアン」を分析主体に与えることである。デルフォイの神託*2を授かったオイディプスのように、分析主体はその謎めいた言葉によって動揺させられる。これが、ラカンがローマ講演で語っていた「解釈の反響[les resonnances de l'interpretation]」(E289)である。

晩年のラカンは解釈の「神託性」についてこのように語っている。

分析経験がオイディプス神話を威厳ある資格で扱うようになっているならば、それはオイディプス神話が神託の言表行為の切れ味[tranchant]を保っているからです。そして、付け加えるなら、解釈はつねに神託と同じレベルにあります。神託とまったく同じように、解釈はその続き[suites]なしには、正しくありません。
解釈は、「はい」や「いいえ」で〔「はい」や「いいえ」という分析主体の反応によって〕決着を付けられるような真理らしさの試験を行うものではなく、そのような真理の鎖をほどく[dechainer]ものです。解釈は、真に続く[vraiment suivie]限りで、正しいのです。
(Lacan, S18, 1971/1/13)

解釈は、分析主体の症状に固定的な意味を与えて安心させるようなものでは決してない。固定的な意味を与えて安心させるような介入は、「暗示[suggestion]」と呼ばれるものであり、精神分析とはなんの関係もない*3。精神分析における解釈はむしろ、神託の効果を利用して、真理の「鎖を解く[dechainer]」=真理を「荒れ狂わせる[dechainer]」ものである。解釈は諸々の無意識の形成物を生み出す(vraiment suivie)のである*4。このことを、ラカンは「解釈は欲望の原因にぶつかる=かかわる[interprétation porte sur la cause du désir]」*5と言っている。「欲望の原因」とは、対象a、特にその現実界としての含みを持ったものとしての対象である。フィンクはミレールによるまとめを参照しながら、これを「解釈は現実界を叩く[Interpretation hits the real]」と簡潔に表現している(p.47)。


*1:特に、Miller, Donc XVIII - Cours du 18 mai 1994.

*2:以前(id:lacanian:20070920)に紹介したMiller, Marginalia de «Constructions dans l’analyse»での「神託」という言葉、特にその解釈との繋がりも参照のこと。

*3:「解釈は、本質的にシニフィアンの操作に関わる[porter sur]べきであり、そのことは解釈が短いものであることを必要とします。私はあとから、シニフィアンの導入がそれに与えるに違いない明確な特性について強調したいと思います。これに対して、我々がここで見ている〔ブーヴェ「転移の同性愛的局面の重要性[Importance de l'aspect homosexuel du transfert]」の症例における〕介入は、意味を持ち、理解し得るという性格、説得的であるという性格をはっきりと示しています。これは、患者がまさしく分析的な状況を、単純な二者関係として生きるよう誘い込むことです。こうした介入がむしろ暗示に似ているということを理解するのに、分析家である必要はありません」(Lacan, S5, Jb291-292/Fr444-445)

*4:この辺りの話については、以前に紹介したジジェク「欲望:欲動=真理:知」の冒頭が参考になると思います。また、哲学系ならアレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理』第8章もどうぞ。私が引用したサンブランのセミネールと同じ箇所にも触れられています。出所が一緒(ミレール)のためか、いずれの論者も同じようなことを言っています。

*5:Lacan, "l'etourdit", Autres Ecrits, p.473 以下、Autres EcritsはAEと表記する。