à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

フロイト「女性の性愛について」まとめ

S.フロイト, 女性の性愛について, 『エロス論集』(ちくま学芸文庫), pp.331-359


どのようにして女性は父親を対象とするようになるか

正常なエディプス・コンプレックスの段階では、子供は異性の親に情愛をもって愛着しているが、同性の親に対しては敵意の方が優越していることが確認できる。
少年の最初の愛情の対象は母親であり、父親はライバルとなる。
少女の最初の対象も母親である。
では少女はどのようにして父親を対象とするようになるのだろうか。
二つの転換が考えられ、その関係が理解されなければならない。

  1. 第一の転換:中心的な位置を占める性器領域がクリトリス→腟に移行する
  2. 第二の転換:愛情の対象を母→父に取り替える <父性隠喩>

幼い少女は、一時的であるにせよ、ファルスを奪われたという意味で自分は去勢されたと考えます。少女は自分を去勢した相手を、まず最初は自分の母親であると認識し、そして――これ〔=この転換〕が重要な点なのですが――、続いて自分を去勢したのは父親である、と認識するようになりますが、これは一体何故なのでしょうか。〔これは非常に解釈が難しい問題ですが、〕ここに言葉の分析的な意味における転移を認めなければならないでしょう。
(Lacan, E686)

フロイトの観察した臨床的事実

女性において、父親に対して特に激しい愛情が存在する場合には、それ以前に、同じように強い愛情を母親に注いだ時期があった。
愛情の対象が母親から父親に変わったことを除くと、愛情生活において以前の時期と異なる特徴はない。
<母を父へと転換させる父性隠喩> cf.Lacan, S5-Ja253-257など
この母親への愛着の時期は、過小評価されているが、期間も長く、前エディプス期*1において重要な意味を持っている。
また、この時期はヒステリーの病因や、パラノイアの萌芽(母親に食べられてしまう)と密接な関係がある。

父親を手本として夫を選んだり、夫を父親の位置に立たせている多くの女性は、現実の結婚生活では、夫を相手にして、母親との悪しき関係を反復しているのである。夫は父親との[好ましい]関係を引き継ぐべきだったのだが、現実には母親との[悪しき]関係を反復しているのである。(……)母親との関係が原初的なものであり、その上に父親への愛着が構築されたのであるが、結婚生活において、抑圧されていた原初的なものが表に現われてきたのである。愛情をもった結びつきの対象が、母親から父親に転換されることが、女性らしさをもたらす発達の主要な内容なのである。(……)われわれが関心を抱くのは、女性は母親―対象だけに非常に激しい愛着を抱いていたのに、それがどのようなメカニズムによって、別の対象[父親]に転換されるかということである。(ibid, p.340)

女性の両性性

人間は両性性をそなえた存在であるが、女性には男性よりも強くこの両性性が現われる。
なぜなら、

  1. 男性では、中心となる性器領域は一つであるが、
  2. 女性では、本来の性器である腟と、男性のペニスに似たクリトリスという二つの性器領域があるから
女性の性生活の発達

腟は、性器としては長い間、存在しないに等しいものであり、思春期になって初めて腟に感覚が生まれると想定できる。
(これに対して、幼年期においても腟の感覚が存在すると主張する観察者もいる)
cf.ラプランシュ/ポンタリス『精神分析用語辞典』pp.313-314でのホーナイ・クライン・ジョーンズ

これに対応して、女性の性生活も二つの時期に分けられる。

  1. 第一の時期:男性的な性格を帯びた、クリトリス優位
  2. 第二の時期:本来の女性らしさ、腟優位

このように女性の発達においては、二つの時期のあいだの以降のプロセスが存在するが、男性には存在しない。
これは対象発見の領域での差異にも結びついていて、男性では母親が唯一の愛情対象であるのに対して、女性では母親から父親に変わる。

エレクトラ・コンプレックス批判

ユングのいうエレクトラ・コンプレックスという概念は、男性と女性の発達の類似性を強調するためのものであり、使用すべきではない。エディプス・コンプレックスの理論が厳密に当てはまるのは、男性だけである。

少年の自我理想

少年は、父親という新旧を内面化した後では、最初に心的に父親を代表していた人物から、この審級を分離するという課題に直面し、ナルシシズム的な性器に対する関心、すなわちペニスを保持するという関心に基づいて、自分の小児性愛を制限する方向に進む。
<自我理想>

去勢コンプレックスの効果

去勢コンプレックスの効果は、男女で異なる。

男性 去勢されたと考えられる女性に対する軽蔑の念
対象選択の阻害
(器質的要因があれば)同性愛
女性 三つの方向をとりうる
(a)男性的な活動すべてを放棄し、性愛そのものも拒否する
(b)脅かされた男性性に頑固なまでに固執し、いつかペニスがもてると空想する。同性愛的な対象選択
(c)父親を対象として選び、エディプス・コンプレックスの女性的な形式をみいだす。正常な性愛


去勢コンプレックスとエディプス・コンプレックスの順序は男女で異なる。

男性 エディプス・コンプレックス → 去勢コンプレックス → エディプスの崩壊
女性 去勢コンプレックス → 〔女性形式の〕エディプス・コンプレックス → 父親を対象選択

本題:どのようにして愛情の対象を母から父に転換するのか

このメカニズムはただ一つの要素で成立するものではなく、さまざまな要素が存在し、それが一つの最終目標に向かって力をあわせる。

(1)幼児の性愛の特徴、という要因

幼児の性愛の特徴は、本来目標を持たない[ziellos]ものだということ。
愛情関係において目標が満たされなくても、リビドーの備給はそのままに維持されるので、リビドーは満たされない状態を離れて、新たな対象〔父〕を求める。

女性性へと入ることは、(……)能動的であるようなリビドーから出発して起こります。人が女性的態勢に到達するのは、失望が一連の変形と等価関係を通して、何か自分の欲望を満たすものがやって来てほしいという父的人物に対する要求を、主体に生じさせるのに成功するからなのです。結局のところ、フロイトの前提とは、そもそもまったくはっきり述べられていることですが、子供の原初的な要請[exigence]が、彼の言い方では「ziellos」すなわち目標点を持たないということです、それはすべてを要請するのであって、そもそも満足させることの不可能なこの要請が失望に終わることから、子供は少しずつ、より規範的な態勢のなかに入っていくのです。そこにあるのは、(……)一つの開口部を含み持った定式化であり、この開口部こそが、私が強調しようとしている欲望や要求といった項によって、我々が問題を分節化するのを可能にしてくれることでしょう
(Lacan, S5-Jb53/Fr283)

(2)自由にマスターベーションに耽ることができなかったという恨み

マスターベーションの禁止は、これをやめるきっかけになるとともに、それを禁じた人物、すなわち母親や母親の代理者(後の記憶では、母親と同じ存在になる)に対する敵意を抱く動機ともなる。

マスターベーションの禁止にもとづく、こうした最初の時期の心的なプロセスは、後の時期の心的なプロセスによって覆い隠されたり、記憶が変形されたりする。<事後性>
たとえば、少女の成長の過程において、去勢の事実がオナニーをしたことに対する罰だと受け止められ、父親がこの罰を下したと想起されることがある。また、少年でも、去勢すると脅すのは母親であるにもかかわらず、父親が去勢するのをいつも恐れている。

(3)母親の価値が下がる

少女ははじめは去勢が自分だけに行われたと考えるが、次にすべての少女が去勢されていると考えるようになる。
最後に、すべての女性が去勢されていると考えるようになる。
この否定的な特徴が、すべての女性にそなわっていることが認識されることは、母親を含む女性そのものの価値を著しく低下させることになる。

(4)いずれにせよ、少女は母親を非難するようになる

自分に男の子のような性器をつけて生んでくれなかった、など。

不満よりも、最初の少女の母親への愛情が激しすぎるために、破滅しなければならない。

感情のアンビヴァレンツ

感情の備給におけるアンビヴァレンツは、一般的に妥当する心理学的な法則であると主張するつもりはない。
正常な成人であれば、愛と憎しみという二つの感情は問題なく区別できる。
しかし、これは成長しているからこそできることであり、愛情生活の最初の段階である幼時期には、こうしたアンビヴァレンツが基本的なものとして存在すると考えられる。

少女の前エディプス期の性目標

幼女がひたすら母親に愛着を感じている時期の性目標には、
受動的なものと能動的なものがある(cf.フロイトエディプス・コンプレックスの崩壊」)。

  1. 受動的なものとは、最初の性的な体験、すなわち母親から食物を与えられ、身体の世話を受けることなど
  2. 能動的なものとは、遊びにおいて表現される(人形遊びなど)

性愛についてだけでなく、心的な経験のすべての領域において、子供は受動的な印象を受け取ると、それに能動的に反応する傾向がある。
これは子供が外界から自分に行われた事柄を克服しようとする試みの一部であり、自分にとって苦痛な内容を避けるために、こうした印象を反復してみせる(cf.フロイト「快原理の彼岸」)。

ファルス期の受動的な動きの中で特に目立つのは、少女がつねに母親が誘惑したと非難することである。母親(またはその代理となる養育者)が子供の身体を清潔にしたり、世話をした際に、初めて非常に強い性的な感覚を感じたというのである。二歳や三歳の娘を持つ母親たちから、少女がこの性的な感覚を好み、何度も繰り返して触って摩擦し、この感覚を強めるように母親に求めるという報告を受けている。このようにやむをえない事情から、母親が少女のファルス期を開始させるのは事実である。成長した少女の空想において、父親がいつも性的な誘惑者として登場するのは、このためだと考えられる。〔愛情の対象が〕母親から〔父親に〕転換するとともに、性的な生活の手解きをしたという非難も、〔母親から〕父親に転換されるのである
フロイト「女性の性愛について」p.352)

母から父への「転換」にともなって、能動的な性の動きが著しく低下し、受動的な動きが亢進する。

少女も少年と同じようなリビドー的な力が働いている。
少女の場合は、能動的な目標と受動的な目標という複数の種類のメカニズムがあるが、「リビドーは一つ」である。
(cf.Lacan, E736)

ホーナイ批判、ジョーンズ批判

カレン・ホーナイ

ホーナイは「女らしさからの逃走」で、精神分析では少女の一次的なペニス羨望が過大に評価されていると考えているが、フロイトの印象とは一致しない。
最初のリビドーの動きの強度を軽視するべきではない。

アーネスト・ジョーンズ

ジョーンズは「女性の性愛の最初の発達」で、少女のファルス期は実際の発達段階ではなく、二次的な防衛反応であると主張しているが、これは力動的な状況にも、発達の時間的な順序にも一致しない。


cf.Lacan, S5-Jb39-54。ここでラカンは、1927年に発表されたジョーンズの「女性のセクシュアリティの初期の発達」に対して、1931年に フロイトが「女性の性愛について」において軽蔑的な調子で退けた、と指摘している。実際、邦訳にしてわずか3行程度の記述であっさり片付けている。しかもこの批判は論文の末尾である。
その他、Lacan, E727の「女性におけるファルス期の問題が、1927〜1935年の間に猛威をふるった」との記述も参照のこと。

*1:フロイトは、前エディプス期は母親にだけ愛着を示す時期だといっている(ibid, p.340)