à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

ファルスの意味作用

E685-695
Die Bedeutung des Phallus(La signification du Phallus) *1 *2


E685
 私はパウル・マテュセック教授に招かれ、1958年5月9日にミュンヘンのマックス・プランク研究所においてドイツ語で講演を行いました。以下に、そのテクストを改変なしに掲載します。
 当時――知識の足りない集団でなければ、ですが――普及していた考え方についてご存知であれば、フロイトの作品から私が初めて抽出した用語――(この講演で言及されている用語の一つを引用するなら)「他の光景[l'autre scene]」のようなもの――の私の使用法が、〔この講演の聴衆に〕どのように響いたか[resonner]、ご想像できると思います。
 もし事後性が、今流行の衒学者[bel esprit]〔=知識をひけらかす人〕の領土からこれらの〔私がフロイトから抽出した〕他の用語を取り戻し、この努力を通行不能[impraticable]なものにしたとしても、この当時はまだ前代未聞のことであった、ということをしっかり理解してほしいと思います。


I (フロイト理論の難所の紹介)

 無意識の去勢コンプレックスは結び目[noeud]としての機能を持っていることが知られています。すなわち、


(1)症候、――症候という用語の分析的な意味において――を動的に構造化するにあたって、無意識の去勢コンプレックスは結び目の機能を果たしているのです*3。これは言い換えれば、神経症、倒錯、精神病のなかで分析可能なものの動的な構造化のことです。
(2)主体の内部に無意識的な位置を据えつけることなしには、同性の理想的な類型と同一化することはできませんし、ましてや性的関係を結ぶパートナーの諸々の欲求[besoins]に答えることには深刻な危険が伴うでしょう。そして、生まれてくるかもしれない子供の諸々の欲求に適切に対処することもできないでしょう。主体の内部に無意識の位置を据えつけるというこの最初の任務に《根拠》[ratio]〔理性、比率〕*4を与える発達を制御することについて、無意識の去勢コンプレックスは結び目の機能を果たしているのです。


 人間[Mensch]における自己の性の引き受け[assomption]に内在的なアンチノミーがあります。つまり、なぜ人間はその性という属性を、脅威を通して、さらには剥奪の名の下に引き受けなければならないのでしょうか? 皆さんご存知のとおり、フロイトは「文化への不満」のなかで、人間のセクシュアリティに――偶発的ではなく――本質的なひとつの混乱を示唆するところまで至っています。そして、フロイトはその最後の論文の一つ*5において、男性的無意識における去勢コンプレックスの影響と、また女性の無意識における「ペニス羨望[Penisneid]」の影響を、終わりある[endliche]分析に帰着させることができないこと[irreductibilite]についてふれています。*6

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 この〔去勢コンプレックスやペニス羨望を分析しきれないという〕アポリアだけが唯一のアポリアである、というわけではないのですが、このアポリアフロイト的経験とその経験から由来するメタサイコロジーが人間の経験に導入した最初のアポリアなのです。このアポリアは、生物学的データに還元したとしても解決されるわけではありません。エディプス・コンプレックスによって引き起こされる構造化の根底にある神話の必要性こそが、このことを十分に証明しています。

 こうした場合に、遺伝によって得た経験――その経験の記憶はなくしているのですが――を引き合いに出すのは、たくみな策略[artifice]〔ごまかし〕にすぎないのです。それは、そのような「遺伝的に獲得される経験」というものがそれ自体論争の余地があるためだけではなく、そのような経験を引き合いに出すことが、次のような問題を未解決のままにしてしまうからです。つまり、もし去勢が近親相姦〔という罪〕に与えられる罰であるという事実を盛り込むとすれば、「父の殺害と原初的な法の契約とのつながり」とは一体どのようなものだろうか、という問題です。

 臨床的事実に基礎を置くことのみによって、議論を実りあるものとすることが出来ます。これらの〔臨床的〕事実は主体とファルス――ファルスは解剖学的性差にかかわりなく確立され、またファルスはこのように女性において、また女性に関しては特に解釈することが難しいのです――の関係を、特に次の四つの点に関連しているものとして明らかにしています。


(1)幼い少女は、一時的であるにせよ、ファルスを奪われたという意味で自分は去勢されたと考えます。少女は自分を去勢した相手を、まず最初は自分の母親であると認識し、そして――これ〔=この転換〕が重要な点なのですが――、続いて自分を去勢したのは父親である、と認識するようになりますが、これは一体何故なのでしょうか。ここに言葉の分析的な意味における転移を認めなければならないでしょう*7
(2)次は、さらに根源的な話になりますが、少女だけでなく少年も、母親をファルスを授けられたもの、つまり、いわゆるファリック・マザー*8として考える、ということは一体どう解釈すればよいのでしょうか。
(3)去勢の意味作用[signification]が症状の形成に関して、かなりの重みを担っていることは臨床的に明らかなとおりですが、〔上にあげた二つの問題と〕相関して、それ〔=去勢の意味作用による症状形成〕は、その去勢が「母の去勢」であると発見されることに基づいてのみ起こる*9、というのは、一体どうしてなのでしょうか。
(4)以上三つの問題は、最終的には、発達において「ファルス期〔=男根期〕」*10が存在するのは何故なのか、そして何のためなのか、という問題に至ります。みなさんご存知の通り、フロイトは最初の生殖的成熟について言及するに際してこの〔ファルス期という〕用語を使っています。フロイトは、ファルス的属性の想像的優位や自慰の享楽がファルス期の特徴であるとしているようです。しかしまた一方で、フロイトは次のようにも言っています。つまり、この〔自慰の〕享楽は女性の場合ではクリトリスに局在させられ、それによって〔女性にとっては〕クリトリスがファルスの機能へと昇格するのである、と。フロイトはこのようにして、このファルス期の終わり、つまりエディプス・コンプレックスの解消が起こるまでは男性においても女性においても膣を生殖的な挿入の場所として本能的にマッピングすることがまったく起こらないとしているように思われます。

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 このような〔ファルス期において、膣を性的な挿入の場とみなさないという〕無知[ignorance]は、技法的な意味での用語としての「誤認[meconnaissance]」の疑いが大いにあります。また、このような無知は、ときに捏造された無知であることもあるだけに、いっそう「誤認」の疑いがあるのです。ロンゴスは、ダフニスとクロエー〔という二人の男女〕の性行為が開始されるためには、ある老女の説明が必要であった、という寓話*11を描きましたが、この寓話はまさにこのような誤認と合致しているのではないでしょうか。

II(ジョーンズ他の理論の批判)

 このような事情があって、ファルス期を抑圧の効果であるとみなし、またファルス期においてファルス的対象が担う機能をある症状であるとみなすようになった著作家たちがいます。しかし、〔ファルス的対象が担う症状とは、〕一体どの症状なのでしょうか?――このように問うたとき、問題が生じるのです。その問題に答えて、ある人は「その症状とは恐怖症だ」といいますし、また別の人は「倒錯だ」といいます。ある人物*12はときには両方のことを同時に言ったりしています。後者の場合、その著作家が混乱しているのは明らかです――恐怖症の対象がフェティッシュになるという興味深い変形が起こらないから、ではありません*13。もし、それら〔=恐怖症の対象と倒錯の対象〕が興味深いとすれば、それらの対象が構造のなかで占める位置がそれぞれ異なっているため*14であることは間違いないでしょう。このような著作家たちに、この〔恐怖症の対象と倒錯の対象との構造的な〕違いを当世流行の「対象関係」なるパースペクティヴから定式化してくれるようにお願いするのは無意味なことです。この件に関して、対象関係論の論者たちは、部分対象という曖昧な観念――この観念はカール・アブラハムによって精神分析に導入されてから一度も批判に晒されたことがないのですが――以外によりどころを持っていないのです。この〔部分対象という曖昧な〕観念が、私たちの時代〔の精神分析家〕に提供している安直さは非常に不幸なことです。

 今となってはファルス期についての議論は放置されていますが、もしあなたがたが1928年から1932年にかけて書かれ、現在でも生き残っているテクスト*15を読み直してみるならば、そこでのファルス期についての議論は、教義に関する情熱の実例となっていて、私たちの気分を一新させてくれるということは間違いないのです。その情熱が、アメリカへの移植につづいておこった精神分析の堕落のことを考えると、郷愁をひきおこすとは思いますが。

 ジョーンズがこの問題について捧げた一連の三つの論文*16は、特に示唆にとんでいます――ただし、彼が理論を形成する際の土台として最初の目標〔ねらい〕としたもの、つまり彼が「アファニシス*17という用語を導入して示したものだけですが。なぜなら、彼が去勢と欲望のあいだの関係という問題を提起したこと自体はとても正当なことなのですが、そこで彼は認識能力不足を露呈させてしまうからです。ジョーンズが何を認識できなかったかといえば、つまり、彼は〔問題の核心に〕とても近づきすぎてしまったため、まさにその欠如の結果、自分が一体何に近づきつつあるのかを認識できなかったのだと思います。*18そのため、彼の作品の中に〔シニフィアンとしてのファルスの代わりに〕その〔アファニシスという〕用語が現れてきているように思えるのです。その用語は、後で解決の手がかり*19〔としてのシニフィアン〕を私たちに提示してくれるでしょう。

 ジョーンズはまさにフロイト自身の手紙から、ある立場を引き出すことに成功したのですが、彼はフロイトの手紙とは完全に正反対の立場を引き出してしまっています。こういう彼のやり方は、特に面白いものです。このようなことは、とても難しいことです。「難しい」ものの素晴らしい例となることでしょう。

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 しかし、その問いは、〔ジョーンズによって〕避けられることを拒否しているようです。その問いは、ジョーンズが言う「自然権の平等性を再建する」という言い訳をあざ笑っているかのように見えます(ジョーンズは、聖書にある「〔神さまは〕男と女を作りました」という文句*20で章を終えていますが、これはここで自然権を持ち出すことによって導かれたのではないでしょうか?)。ファルスの部分対象としての機能を標準化することによって、ジョーンズは実際のところ、一体どんな利益を得たのでしょうか? 彼は〔ファルスの部分対象としての機能を標準化するために、〕母親の体内におけるファルスの存在を「内部対象」*21として呼び起こさなければなりませんでした。「内部対象」――これはメラニー・クラインによって明らかにされた幻想を基にした用語です。また、ジョーンズはクラインの視点から離れることがますます出来なくなっています。クラインの視点においては、これらの〔内部対象や部分対象という〕諸幻想は、幼児期の最初期にまで立ち戻り、オイディプス・コンプレックスの形成の再来にまで関係づけられています。

 フロイトは〔ファルスの問題において〕明らかにパラドキシカルな見地にいますが、一体何が彼をそうさせたのでしょうか?――このように問うことによって、この〔ファルスの〕問題を再び検討すれば、私たちは道に迷うことはないでしょう。なぜなら、以下のようなことを認めなければならないからです。無意識的現象の秩序――これはフロイトが開拓したものです――を認識することにかけては、フロイトに勝るものはいません。そしてまた、フロイトの追従者たちは、これらの〔無意識的〕現象の法則を適切に明確化することをしなかったために、多かれ少なかれ道をふみはずすように運命づけられていたのです。

III(「話す人間」と「エス」における、シニフィアン受難

 このような〔ファルスの問題を再検討するという〕賭けから出発することによって――私たちが七年間続けているフロイトの著作の注解*22の最も重要な点は、この再検討という賭けなのです――、私たちはある結論にたどりつきました。すなわち、何よりもまず、分析の現象を分節化するには、現代言語学においてシニフィエの概念と対置させられる限りでのシニフィアンの概念が必要不可欠である、ということを推進することです。
 現代言語学フロイトより後に生まれたものですから、フロイトは現代言語学を考慮に入れることができませんでした。しかし、諸々の言語学の大流行に直面することが期待できなかった分野から出発したにも関わらず、フロイトの発見は現代言語学の形成を予期していました。このような理由から、フロイトの発見はまさに突出したものであった、と主張したいと思います。
 むしろ逆に、フロイトの発見こそがシニフィアンシニフィエの対立にその全容を与えているのです。つまり、意味することができるものすべては、シニフィアンの痕跡に屈服しており、この〔シニフィアンの痕跡への屈服という〕効果を決定するのに活発な役割を果たしているのがシニフィアンなのです。シニフィアンの痕跡は、ある受難を通過することによって、シニフィエとなるのです。

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 このシニフィアン受難は、このようにして人間的状況における新しい次元となります。つまり、まず第一に、語るのは人間[l'homme qui parle]だけではなく、人間の中で人間を通してエス*23もまた語る[dans l'homme et par l'homme ca parle]、という点です。*24もう一つは、人間の性質が諸効果――その効果には、人間がその素材となるランガージュの構造を再発見することができます――によって織られていくという点です。また、パロールの関係がこのようにして彼のなかで反響し、様々な観念についての心理学が到達した場所を越えていく、という点であります。

 この意味において、無意識の発見の諸帰結は、〔分析〕理論においていまだ垣間見られてすらいないということができます。人々がそれ〔=無意識の発見の諸帰結〕と対決することから逃げるという形をとっている、ということだけでも、その〔無意識の発見の諸帰結の〕インパクトが〔分析の〕実践において理解されるよりも感じられている、ということができます。

 私が人間のシニフィアンへの関係を強調するのは、言葉の普通の意味における「文化主義的」立場とは何の関係もないのだ、ということをはっきり言っておきましょう。――〔「文化主義的」立場の例としては、〕たとえばカレン・ホーナイ*25の立場は、ファルスについての議論から予想されるように、フロイトによってフェミニストと形容される立場なのです。ここで問題になっているのは、「社会的現象としてのランガージュ」に対する人間の関係ではないのです。また、私たちが慣れ親しんでいるイデオロギー的な心因発生論ともまったく似ていません。そして、そのイデオロギー的な心因発生論は、「情動」の名の下にまかり通っている徹底的に形而上学な観念――これは具体的なものに訴えるという論点回避をしています――を有無を言わさず絶対化するという主張を上回ることはありません。

 ここで問題となっているのは、――フロイトが夢の主題〔『夢判断』〕に関して、「無意識の舞台」として指定したこの「別の舞台[eine anderer Schauplatz]*26」を支配する法則の中で――ランガージュを構成する物質的に不安定な諸要素〔=シニフィアン〕の連鎖のレベルで発見される諸効果を再発見することなのです。その諸効果は、シニフィアンにおける結合と代理のダブルプレイによって決定されています。また、シニフィエを生成するための二つの側面*27、つまり換喩と隠喩にしたがって、主体を設立する決定要因となる諸効果なのです。その過程において、数学的な意味におけるトポロジーが現れてきます。このトポロジーなしでは、分析的な意味における症状の構造を書き留めることすら不可能であるとすぐにお分かりになるでしょう。

 エス[Ca]が<他者>の中で話す[parle]のです。<他者>という語によって私たちが指し示しているのは、<他者>の介在するあらゆる関係におけるパロールへの依拠、といったものが言及している場そのもののことです。主体が〔エスの話を〕自分の耳で聞いているか否かに関わらず、エスは<他者>の中で話しているとすれば、すべてのシニフィエの目覚め[eveil]より自分の方が論理的に先立っているはずだということを通して、主体は主体自らのシニフィアン的場所[sa place signifiante]を<他者>の中にみつけるのです。*28この場所、すなわち無意識において主体が何を分節化しているのか[articuler]しているのかということについての発見は、主体がこのように構成されるにはどのような分裂[Spaltung]という代償が必要であったのか、ということを私たちが理解することを可能にしてくれます。

IV(ファルスのシニフィアンの機能=欲望の設立、ロゴスとの接続)

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 ここでは、ファルス*29はその機能に基づいて考えることによって、よりよく理解されます。フロイトの教義におけるファルスは幻想ではありません。もっとも、私たちが幻想を想像的な効果と見た場合ですが。また、ファルスは(部分対象、内的対象、良い対象、悪い対象等などといった)このような対象でもありません。というのも、「対象」なるものはある関係性に巻き込まれている現実性を測る傾向にあるがゆえです。ましてや、ファルスはそれが象徴する――ペニスやクリトリスといった――器官でもありません。そして、フロイトが、古代人にとってファルスが表わしていたシミュラクルを参照事項として取り入れた*30のは、理由なきことではありません。

 なぜならファルスはひとつのシニフィアンであるからです。分析における主体内部のエコノミーにおいて、神話のなかでファルスが保持していた機能にかけられている覆いを取り去ることができるという機能を持つシニフィアンなのである。ファルスのシニフィアンがその現前によって〔シニフィエの〕全体を条件づける限りで、ファルスは全体としてのシニフィエの諸効果を指し示すよう運命づけられたシニフィアンなのです*31

 ここで、この〔ファルスの〕シニフィアンが現前することによる諸々の効果について考えてみましょう。まず第一に、〔このシニフィアンは、〕人が語る[parle]ということによって、人の諸々の欲求[besoins]を迂回させるという効果があります。つまり、人の諸欲求が要求[demande]に従属させられている*32ために、人の諸々の欲求は、疎外された形式をとって人に戻ってくるということです。この第一の効果は、人の真の依存性の効果ではありません*33(神経症の理論における依存性の観念によって代表される、おべっか使いの概念をここに見つけようと期待してはいけないのです)。これはむしろ、欲求の存在をシニフィアンの形式にそのようなものとしてに流し込む効果であり、また欲求が人のメッセージが送られる<他者>の場所から〔要求の形式をとって〕やってくるという事実の効果であるのです。

 このようにして、諸々の欲求のうち疎外されたものは、要求という形でははっきり表現する〔=分節化する〕ことがおそらく〔仮説によると〕できないでしょうから、原抑圧[Urverdrangung]として構成されます。しかし、「欲求において疎外されたもの」はそれでもなお支流[rejeton]*34の中に姿をあらわし、その支流はそれ自身、欲望[das Begehren]として人間に現れるのです。しかし、分析経験から出現した現象学は、確かにある種、欲求と欲望を区別する性質――つまり欲望の逆説的な、異常な、常軌を逸した、奇妙な、さらには顰蹙ものの性質を実証しています。この事実は明快すぎたため、古代のモラリストの名に値する人々にとっては明らかでないことはありませんでした。彼らフロイディアニスムの先駆者たちは、それに十全の地位を与えなければならなかったように思えます。しかし、逆説的なことに、現在の精神分析は、理論・臨床の両面において「欲望を欲求に還元する」という理想をもっており、その理想ゆえに事実を否定するという退屈極まりない蒙昧主義を先陣切って主張しています。
 これこそが、私たちがここでこの性質〔欲求と欲望の区別〕をはっきりさせておかなければならない理由なのです。そのためには、要求から考え始めなければなりません。要求の特異的特徴は欲求不満[frustration]*35――この観念はフロイトは一度も使ったことがないのです――の観念においては避けられています。

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 要求はそれ自身、要求が呼び求めている諸々の満足とは異なる何か別のもの[autre chose]に関係しています。要求は在あるいは不在の要求です。母との原初的関係は、<他者>――この<他者>[cet Autre](=母)は、それ(=<他者>)が満足させうる諸欲求の手前に[en deca]位置づけられなければなりません――を孕むことによって、「要求が在あるいは不在の要求であること」を明らかにしています。*36要求は<他者>を、欲求の満足という「特権」を持っているものとして、つまり、諸欲求からそれ〔=諸欲求〕が満足させられる唯一の手段を剥奪する力を持ったものとして、すでに構成してしまっています。<他者>のこの特権は、このようにして「(<他者>は自分が)持っていないものを与える」*37という根源的な形式、つまり愛として知られているものの概略を描いているのです。

 このようにして、要求は、与えられうる全てのものの特殊性を、愛の証明へと変換することによって、揚棄[aufhebt]するのです。そして要求が欲求のために得る満足はまさに、愛の要求が引き起こす衝突以上のものではない存在の点まで、その質を落とされています(これらのことすべては、幼時期の子供の心理学においてはまったく明らかなことであり、私たち分析家や乳母はそのことを理解しています。)

 このようにして消去された〔与えられうる全てのものの〕特異性は、要求を超えたところに[au-dela]〔=彼岸に〕再出現することが必要です。実際、その特異性はその場所に再出現するのですが、愛の要求の無条件性によって隠蔽された構造を保持しているのです。単純な否定の否定ではない逆転によって、純粋な損失の力が抹消の残余から現れるのです。すなわち、要求の無条件性にかわって、欲望が「絶対的」条件を代理するのです。この条件は実際、要求の満足に対して反抗する愛の証明のなかの要素を解消します。これこそが、欲望が満足を求める欲[appetit]*38ではなく、愛の要求でもなく、前者から後者の引き算から帰結する差異、つまりまさにその二者の分割[Spaltung]である理由なのです*39

 性的関係が欲望というこの閉鎖領野を占領し、その領野において自らの運命を展開しているのは一体どうしてなのかが理解されることでしょう。それは、この〔性的関係の〕領野が謎を生産するように策定されているからなのです。この性的関係は、主体への二重の「意味効果[signifier]」によって、主体のなかに謎を喚起するのです。二重の意味作用とはすなわち――(1)この性的関係が引き起こす要求の回帰――これは、欲求の主体についての要求という形式をとります、(2)要求されている愛の証明について問題になっている<他者>に現前している曖昧さ――この二つのことです。この謎によって構成される裂け目[beance]は、何がそれを決定するのかを断言しています。すなわち、可能な限り単純かつ明快に言うなら、〔性的〕関係におけるパートナーは双方ともに、つまり主体と<他者>の両方にとって、欲求の主体であったり愛の対象であったりするのでは十分ではなく、欲望の原因の位置を占めなければならないということです。*40 *41

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 性生活に関する精神分析の領野に存在するすべての欠陥[malfacons]の核心に、この真実があります。この真実はまた、性関係における主体の幸福の条件を構成しています。愛情の成熟(すなわち、現実性としての<他者>に助けを求めることのみ)を通して「性器的なもの」の長所がその裂け目を解決する、ということを憶測することによって、その〔性関係の〕裂け目を偽装する〔ギャップを埋める〕ことは、その意図がどれほど恭しいものであったとしても、詐欺以外の何物でもありません。フランスの分析家たちは、性器的な献身性という偽善的な観念をつくりだし、道徳的な調子を植えつけはじめ、これが救世軍の楽団の懸命な努力によって、それ以後各所で続いているのだ、ということをここで指摘しておくべきでしょう。

 どのような場合においても、ひとたび移動と圧縮の働き――人間は自分の機能を行使するにあたって、この移動と圧縮の働きに運命付けられているのです――が、主体としての人間のシニフィアンに対する関係をしるしづける[marquer]と、人間は全体的な存在(「トータル・パーソナリティ*42」として――これは現代の精神療法が道を踏みはずしていった末にたどり着いたもう一つの前提です――)たらんとすることはできないのです。

 ファルスは、〔主体のシニフィアンへの関係を設立する〕この徴の特権化されたシニフィアンであり、このファルスというシニフィアンにおいて、ロゴスの役割が欲望の出現と接続されるのです。

 このファルスというシニフィアンは、性的交わりというリアル[le reel de la copulation sexuelle]のなかでつかむ[理解する]ことができるもののうちでもっとも顕著なもの[le plus saillant]として選ばれたのだと言うことができるでしょう〔=ファルスの現実性〕。同様に、用語の文字通りの(印刷技術上の)意味において、もっともサンボリックなもの[le plus symbolique]として選ばれたのだと言うこともできます。なぜなら、そのファルスのシニフィアンは(論理的)連辞[copule (logique)]と等価であるためです〔=ファルスの象徴性〕。また、その膨張性によって、世代をわたって伝えられていく生命的な流れのイメージであると言うこともできます〔=ファルスの想像性〕*43

V(覆われているものとしてのファルス、他者の非一貫性)

 しかし、そのような見解はすべて、以下のような事実を覆い隠すだけです。すなわち、「ファルスというシニフィアンは覆い隠されているときしかその役目を果たさない」という事実です。言い換えれば、ファルスは、ひとたびシニフィアンの機能へと高められる[aufgehoben]〔=揚棄される〕やいなや、あらゆる「意味しうるもの」が帰着する潜在性の記号そのものになる、ということです。

 ファルスは、自らの消失によって開始(通過儀礼)を行う、この揚棄そのもののシニフィアンなのです。古代の神秘劇で、男根がヴェールをとられるまさにその瞬間に、アイドース(羞恥Scham)の守護神*44 *45が登場するのはこのためなのです(ポンペイの館の有名な壁画を参照せよ)。*46

 そのときファルスは棒[barre]となり、このダイモンの手によってシニフィエを打ち、それを自らがもたらすシニフィアン連結*47の私生児として指し示すのです。

 こうして、シニフィアンによる主体の設立における相補性という条件が生み出されるのですが、この相補性が主体の分裂[Spaltung]*48と、それが完成される場である[シニフィアンの]介入運動を説明しています。

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 すなわち、
 1.主体が自らの存在を、それが意味するあらゆるものに抹消線を引くこと[barrer]によってのみ指示します。それは主体が自分自身のために愛されることを望むという点に現われており、この幻想は文法的なものとして示されるものに還元されることはありません(というのも主体はディスクールを廃棄するのですから)。
 2.原抑圧されたもの[l’urverdrängt]におけるこの存在の生ける部分は、ファルスの抑圧[Verdrängung](それによって無意識はランガージュなのです)の徴を受け取ることによって、自らのシニフィアンを見出すのです。

 シニフィアンとしてのファルスは(調和的分割の「中末比(=黄金比)」という意味で使われるときの「比[ratio]」という用語の意味において)欲望の比[ratio]を提供しています。*49

 これから私はこれ〔=ファルス〕を一つのアルゴリスムとして使用することにします。あなたがたにこの〔ファルスの〕使用法を理解していただくためには、私が無期限に喋りつづけるということをしないのであれば、私たちを結びつける経験の残響[echo]に頼るほかはありません。

 ファルスが一つのシニフィアンだという事実によって強いられるのは、主体がファルスに接近するのはまさしく〈他者〉の代わりに[〈他者〉の場所において]である、ということです。ただし、このシニフィアンはヴェールで覆われた以外のものではなく、〈他者〉の欲望の比としてあるのですから、主体が認識するよう命じられているのは、そうしたものとしての〈他者〉――すなわち、自身がシニフィアンの分裂[Spaltung]によって分割された主体としての他者――の欲望なのです。

 心理学的発生において現われる諸々の発現[emergence]が、ファルスのこのシニフィアン的機能を裏付けています。

 このようにして、母親がファルスを「含み持っている」と子供が最初から理解している[apprehender]*50というクライン的事実をより正確に定式化することができます。

 しかし、発達が秩序づけられるのは愛の要求と欲望の試練〔欲望によって構成される試練〕*51の弁証法によってなのです。

 愛の要求はある欲望において苦しむほかはありません――ある欲望とは、その欲望のシニフィアンが愛の要求にとって異質なものです。もし母の欲望がファルスであるならば、子供は母の欲望を満たすためにファルスになりたいと思います。そして、〔母の〕欲望に内在する分割[division]*52が<他者>の欲望のなかで経験される〔=つまり、母の欲望は父の審級に依拠している〕おかげで、〔子供は〕その分割の存在を既に感じ取っています。

 臨床経験によると、この<他者>の試練〔<他者>による試練〕が決定的な契機であることが分かります。この契機が決定的だというのは、<他者>の試練によって、主体が現実的なファルスをもっているのかいないのかを学ぶという意味ではありません。そうではなく、<他者>の試練によって、主体にとっての母が現実的なファルスを持っていないことを学ぶという意味において決定的であるのです。*53<他者>の試練とは、これなくしてはいかなる症状的帰結(恐怖症)も構造的帰結(ペニス羨望)もその効果を発揮することができまなくなるような経験の契機なのです。ここに、ファルスのシニフィアンが徴しづける欲望と、所有欠如[manque a avoir]〔=所有しそこなうこと〕*54の脅しあるいは所有欠如に基づく〔失ったペニスへの〕郷愁との結合がつまっているのです。

VI(「あること」と「もつこと」、仮装としての女性性)

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 もちろん、その未来は、このシーケンスにおいて父によって導入される法に依存しています。

 しかし、ファルスの機能に限って言及することによって、両性間の関係が従属するようになる構造〔=両性間の関係を支配する構造〕を指し示すことができます。

 いわば、これらの関係は「あること」と「持つこと」の周囲をめぐることになります。*55両者は、ファルスという一つのシニフィアンへと関係付けられることによって正反対の機能を持つのであり、一方〔男性〕ではこのシニフィアンにおいて主体に現実性を与え、他方〔女性〕では意味されるべき関係を非現実化しています。

 このこと〔ファルスのシニフィアンに関係した存在と所有の効果〕は、ある見かけ[paraitre]が介入することによって起こります。この見かけは所有を置き換え、一方では所有を守ることになりますが、他方ではそこにある欠如を覆い隠すことになります。この結果、両性の行動の理想的・典型的なあらわれは、性交も含め、喜劇のなかに映し出されます。

 これらの理想は、自らが充足させることのできる要求――それはつねに愛の要求です――によって活力を得ているのですが、それは欲望を要求へと還元するという補足を伴ってのことです。

 女性が仮面[mascarade]*56を通して女性性の本質的部分、すなわちそのすべての属性を拒絶[rejeter]するのは、ファルス――すなわち<他者>の欲望のシニフィアン――になるためなのだと言いたいと思います。*57この公式化がどんなに逆説的にみえるとしても、そうなのです。女性が欲望され、同時に愛されようとするのは、女性がそうでないもの〔=ファルス〕のためなのです。しかし、女性は自分自身の欲望のシニフィアンを、自身の愛の要求の宛先となる人物の身体のなかに発見します。もちろん、このシニフィアン機能に覆われた器官がその結果、フェティッシュとしての価値を持つことも忘れてはなりません。しかし、女性にとっての結果はつねに同じであり、二つの物が同一の対象に収斂[convergence]することになります。すなわち、(上*58で見たように)その対象が与えるものを理想的に女性から剥奪する愛の経験*59と、この対象のうちにそのシニフィアンを発見する欲望とが一つの対象〔=ファルス〕に収斂するわけです。これは、なぜ性的欲求の満足の欠如、言い換えれば冷感症が男性に比べて女性では比較的耐え忍ばれているのか、そして一方で、男性に比べて女性では欲望に本質的に属する抑圧[Verdrangung]が少ないのかということの理由である。

 反対に、男性の場合では、欲望と要求の弁証法は愛情生活に特有のおとしめ(Erniedrigung)*60という結果をひき起こします。この愛情生活に特有のおとしめという名のもとに、男性が依存しているものを正確に位置づけたときのフロイトの確信を、いま一度賞賛しなければならないでしょう。

E695

 もし男性が女性との関係において彼の愛の要求を満足させることが実際にできるのなら、ファルスのシニフィアンがその女性を明確に彼女が持っていないものを愛において与えるものとして構成する限り、反対に、彼のファルスへの欲望はその欲望の残存する分岐(逸脱)[divergence]のうちに――つまり、このファルスを様々なやり方で意味する[signifie]ことができるかもしれない「他の女性」、例えば処女や娼婦のほうへ――その欲望のシニフィアンを出現させるでしょう。*61このことから、愛情生活における性器欲動の遠心的傾向が帰結します。これによって、男性にとって不能をずっと耐え難いものにしており、一方で、欲望に本質的である抑圧は大きいのです。

 だからといって、男性的機能を構成すると思われる類の不誠実が、男性に固有のものであると考えるべきではありません。というのも、注意深く見るなら、同じ二重化が女性にも見られるからです。ただし、《愛》の《他者》[Autre de l’Amour]はそのようなものとして、つまりそれが与えるものを奪われているものとして、女性がその属性に執着する同じ男性の存在の代わりになるような後退の中にいることになかなか気づかない、という点を除けばですが。*62

 ここで次のように付け加えることができるでしょう。すなわち、男性の同性愛は、欲望を構成するファルス的徴に従って、欲望の側面*63にそって構成されます。一方、女性の同性愛*64は観察が示すようにその反対であり、愛の要求の側面を強化する失望によって方向付けられています。この指摘〔=再-徴づけremarquer〕は、マスク[masque]の機能に立ちもどることを通じて洗練されるべきです〔微妙な差異を与えられるに値します〕――マスクが要求の拒絶が解決される同一化*65を支配している限りで――。

 女性性[la feminite]がこのマスクに隠れ場を見つけるという事実は、欲望のファルス的徴のおかげで、人間存在において男らしい顕示それ自体が女性的に見える[paraisse]という興味深い帰結をもっています。

 このことと相関的に、いままで解き明かされなかった特徴、またフロイトの直観の深遠さがもう一度はかりしられる特徴の理由が垣間見られます。すなわち、フロイトが一つのリビードしか存在しないと言い立てたことの理由、そしてフロイトのテクストが教えるところでは、リビードは男性的性質をはらんでいるが、このことの理由が垣間見られるのです。*66ファルスのシニフィアンの機能は、ここでそのもっとも深遠な関係に通じています。すなわち、<古代人>がそれによって精神(ヌース)とロゴスを受肉させた関係に通じているのです。



これは掲示板「エクリを読む」のまとめになります。
参加者:Wetton、ysさん、somamitiさん

*1:以下、特に断りがない注は訳者によるものである。ラカンのテクストは、Ecritsは"E"につづいてSeuil版の頁数を、Seminairesは"S"につづいて巻号数と頁数を表記する。頁数については、"Fr", "Ja", "Jb"がそれぞれSeuil版、邦訳上巻、下巻を示している。セミネール11巻のように邦訳が一巻のみのものについては、"J"とのみ表記する。また、未刊行のセミネールについては、巻号数につづいて日付を示す。

*2:表題である"Die Bedeutung des Phallus"について、晩年のラカンは以下のように語っている。「むしろ、実際、die Bedeutung des Phallusは冗長であることを強調したいと思います。ランガージュにはファルス以外のBedeutungは存在しないのです。」(S18, 1971/6/9)また、同セミネールの1972/1/19の講義ではこの表題の主格属格と目的格属格について、ならびにフレーゲの"Sinn/Bedeutung"の区別に触れている。

*3:去勢コンプレックスに対して主体がとる布置によって、神経症、倒錯、精神病という臨床的カテゴリーが決定されるということか。それぞれ、否定の3モードとしての抑圧、否認、排除が対応する。父、母、ファルスの三角形への関係の布置が結節点をなしているという指摘は、S5, Ja273/Fr186.で「ファルスであるのか、ないのか」の問題として論じられている。

*4:E693で「黄金比」として使用される箇所を参照。

*5:フロイト「終わりある分析と終わりなき分析」。

*6:cf.S5, Jb106/Fr319. 「男性にとっては去勢コンプレックスのなかに、女性にとってはペニス羨望のなかに、つまりファルスとのある根本的な関係のなかに、何か還元不可能なものがあるということを強調しています。」

*7:去勢を施したのが最初は母親であり、次に父親であると思うという少女における現象には、転移が認めらる、ということ。フロイトの論文「女性の性愛について」では、女性において、父親に対して特に激しい愛情が存在する場合には、それ以前に、同じように強い愛情を母親に注いだ時期があったことを指摘している。つまり、幼い少女の心的生活において、愛情の対象を母から父に取り替える作業が行われるのである。ラカンはこのことを「父性隠喩」という概念で論じる。cf.Lacan, S4, Jb225/Fr367.「母による去勢の先行性があり、父による去勢はその代入です。」その他、 S5, Ja253-257/Fr173-176.など。

*8:ファリック・マザー[mere phallique]は、男性同性愛の構造の問題と関わっている。ラカンは、男性同性愛ではエディプスの三つの時において、法をなしたのが父ではなく母であり、母が父に対して法をなしたことを強調している。反対に、異性愛者では父が母に対して法をなす。cf.S5, Ja305-310/Fr208-212ならびにS5, Jb392/Fr516. セミネール5巻でのファリック・マザーについての言及はもう一箇所あり、そこでラカンは、服装倒錯では主体がファリック・マザーに同一化しているとの俗見を排して、服装倒錯の主体が同一化するのは、母の衣装の下に隠されたファルスに対してであると主張している。cf.S5, Ja270/Fr184.

*9:母の去勢によって、事後的に去勢コンプレックスが確立される、ということ。セミネール5巻「エディプスの3つの時」の講義と、当論文の後半の議論を参照のこと。

*10:幼児(ファルス期)の性生活は成人(性器期)の性生活と酷似しているが、幼時期の体勢においては、両性において一つの性器(つまりファルス)だけが重要な役割を果たしている、とフロイトは指摘している。(フロイト「幼児の性器体勢」、『エロス論集』pp.204-5.)

*11:cf. ロンゴス『ダフニスとクロエー』松平千秋訳、岩波文庫、1987. ロンゴスの牧歌劇[pastorale]『ダフニスとクロエー』についてラカンは何度か言及しているが、とりわけS11, J265/Fr186.を参照。「性的関係というものは《他者》の領野の偶然に任されているのです」。その他、E669等。

*12:アーネスト・ジョーンズのこと。cf. E703, E732.

*13:ラカンはS4, Ja108-113/Fr88-92.でそのような興味深い症例を紹介している。ここで紹介された症例は、R. Lebovici, Perversion sexuelle transitoire au cours d'un traitement psychanalytique. Bulletin d'activités de l'association des psychanalystes de Belgique. Bruxelles 25 (1953), pp. 1–17. である。ラカンはE610でも同じ症例にふれている。他、S5, Ja338/Fr231. では「倒錯は恐怖症の出現に、消失に、そして恐怖症の代償的な運動の全体に、化学結合のようにして、もっとも緊密な仕方で結びついている」と言われている。「恐怖症の対象がフェティッシュになるという興味深い変形」について、フィンクはR.von Krafft-Ebing, "Psychopathia Sexualis"を挙げている。また、ラカン派の臨床テクストとしては、Rene Tostainのものがある。これはシリセットの第一号に掲載された臨床ケースレポートであり、後にスチュアート・シュナイダーマンが編集したラカン派臨床症例の集成である”How Lacan's Ideas Are Used in Clinical Practice”において英訳された。

*14:E682でこの点についての解答が与えられている。恐怖症と倒錯の二つの対象は、対象aが象徴界から受けとる機能として解明できる。恐怖症においては、欲望の消失の脅威[menace]に対しての防御手段が対象aとして与えられる。一方、倒錯の構造においては、欲望の絶対的条件としてのフェティッシュの役割が対象aに与えられる。E877では、以下のように言われている。「フロイトが母のペニスの欠如の議論において結び目を解いたことを思い出しましょう。ここでファルスの性質が明らかになるのです。主体はここで現実性に関して分裂する、とフロイトは私たちに教えてくれています。ここで開く裂け目 [gouffre]に対して、主体は恐怖症を以て自分自身を守り、またその際、ひとつの表面を以てそれを覆い、その表面の上にフェティッシュを建造します。つまり、固定されたものとしてのペニスの存在が、移動させられたものだとしてもです。」 その他、cf. S6, 1959/6/10.

*15:ジョーンズの3論文など、並びにフロイトのそれに対する反論である「女性の性愛について」のこと。

*16:ジョーンズの一連の論文とは、Jones, E. (1927). The Early Development of Female Sexuality. Int. J. Psycho-Anal., 8:459-472, Jones, E. (1933). The Phallic Phase. Int. J. Psycho-Anal., 14:1-33, Jones, E. (1935). Early Female Sexuality. Int. J. Psycho-Anal., 16:263-273.の3つのことで、ジョーンズの論集"Papers on Psycho-Analysis"にすべて収録されている。

*17:ジョーンズのいう「アファニシス」とは、去勢不安よりも根源的な恐怖を引き起こすものであり、それは「享楽する能力と機会が完全に、永遠に失われること」である。ジョーンズは「すべての欲望を失ってしまうことへの恐れ」と定義している。"If we pursue to its roots the fundamental fear which lies at the basis of all neuroses we are driven, in my opinion, to the conclusion that what it really signifies is this aphanisis, the total, and of course permanent, extinction of the capacity (including opportunity) for sexual enjoyment."(The Early Development of Female Sexuality, p.461) cf.S5, Jb98-99/Fr314, E729. また、『欲望とその解釈』のセミネールでもこの問題は扱われている。とりわけ、S6, 1958/12/17, 1959/2/4など。

*18:ジョーンズが近づいていったのは「ファルス」の概念である。ファルスとは、この論文の後半で言われるように、ある欠如を覆いかくすシニフィアンであり、そのようなファルスのシニフィアンに近づいていったジョーンズが欠如(無)しか見つけられなかった、という意味か。

*19:フィンクは「解決の手がかり」とは「シニフィアン」のことであるように思う、としている。

*20:ジョーンズが論文で触れている「女性は生まれたのか作られたのか」という問題のこと(Early Female Sexuality, p.273)。男になるか女になるかが先天的に決まっており、なるようになるという考え方。cf. E729.

*21:前エディプス期の母の身体の内部にさまざまな悪い対象が含まれているというクラインの発見があった。このことについてはE693で再びふれられる。

*22:セミネールのこと。ちなみに、この講演が行われた1958年5月9日は『無意識の形成物』のセミネールの最中である。これが7年目となっているのは、S1『フロイト技法論』に先行して二つのセミネール(ドラ、狼男)が行われていたからである。

*23:ここでラカンが「シニフィアン受難」と呼んでいるものは、欲求がランガージュに疎外され要求として生起すること(シニフィアンによる要求の分節化)のほかに、「エスの分節化」も含んでいるように思われる。cf. S4, Ja58/Fr50. 「<エス>はシニフィアンの分節の様式に従って構造化されている(……)。主体において作動しているすべてのものは、このシニフィアンの刻印によって、その矛盾によって、自然な接合からの深いズレによって印しづけられているのです。」

*24:後に"Logique du fantasme"のセミネールにおいて、以下のように注釈されている。「「エスは話す」と言ったために、エスが無意識とオーバーラップするような印象を与えてしまいましたが(……)その二つはオーバーラップしないのです。」(S14, 1967/1/11)

*25:カレン・ホーナイに対する批判は、セミネールではS5, Jb66/Fr291-292.で「彼女は精神分析が占める人類学的な位置に関して、いまではいささか価値の低下した結論を引き出したこともありました」ようにあっさりとしたものであり、むしろラカンはホーナイを称賛している。特に、「女性における去勢コンプレックスの起源について」の論文を高く評価している。ラカンによれば、ホーナイは女性における去勢の観念をめぐる問題と、主体が分析において表明する自分に欠けている何か(=ファルス)に対する権利要求とのアナロジーを見つけた。これはホーナイの独創ではなく、フロイトのテクストのなかにすでにあるものだが、ホーナイはそれを女性同性愛の症例をもとに臨床的に基礎づけたとされる。

*26:SE IV, p.48, SE V, p.536 「eine andere Schauplatz」はラカンによる書き間違いであり、「ein andere Schauplatz」とするのが正しい。「Schauplatz」に対応する仏語が「scene」(女性名詞)であることから間違ったと考えられる。

*27:Versantsは、ヤコブソンの「aspects」のラカンによる訳語。ヤコブソン「言語の二つの面と失語症の二つのタイプ」。

*28:cf. S5, Jb352-353/Fr486.「ランガージュと去勢コンプレックスに固有のドラマとに徴しづけられた人間存在(……)ここで表明されるのは、「私はファルスだ」ではなく、反対に「私はシニフィアン的分節化においてファルスが占めている場所にいる」というものです。これが「エスがあったところ、そこに<私>が生じるのでなければならないWo Es war, soll Ich werden」の意味のすべてです。」

*29:ファルスは男性名詞であるにも関わらず、ここでは"La phallus"と表記されている。このような表記はその他のラカンの全ての著作、セミネールにも見当たらない。

*30:cf.「レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出」『フロイト著作集3』, p.113以下。

*31:S5, Ja352/Fr240.では、ファルスはシニフィエ一般のシニフィアン、あるいはシニフィアンシニフィエの関係における最終的なシニフィアンとされている。また、ここでの「父の名」についての定義も特筆すべきである。「《父の名》は、シニフィアンの総体を意味し、それが存在することを可能にし、その法をなす(……)それと同様に、ファルスは、主体がシニフィアンとの対比において、シニフィエそれ自体(……)を象徴化しなければならなくなるときから、シニフィアンの体系のなかに介入してくる。」

*32:欲求を表現するには、言葉を用いて要求として表現されなければならない(ランガージュへの疎外)。これによって要求は二重化される。

*33:「依存[dependance]」はS5, Ja332/Fr227.で、母との排他的な関係は純粋な依存ではないといわれている。「《父の名》の介入がなければ、主体は母との排他的な関係に陥ってしまうが、それは純粋な依存ではない。 そうではなく、その関係は、ファルスに対するある本質的な関係によって、あらゆる種類の倒錯のなかに現れる。」 その他、「依存」についてはS5, Jb372/Fr499.等を参照。

*34:欲求が欲望のグラフの下段の「A」の場所を通って言葉による要求になるが、その残り物が「d」として支流[rejeton]になるということか。E629では、二重化された要求の上段(傾向[tendance]=欲動)からの支流[rejeton]が、欲望の絶対的条件を形づくると言われており、こちらは欲望のグラフの上段の「$◇D」から「d」への線であるように思われる。

*35:ここで使われている"frustration"という用語には『対象関係』のセミネールで練り上げられた「対象欠如の三形態」の一つとしての"frustration"の意味、つまり、象徴的母を動作主とする現実的乳房の想像的欠如という意味が退けられているように思える。

*36:欲求に対するランガージュの介入による「要求の二重化」。en-decaとau-delaと要求、欲望の関係については、E629など参照。

*37:cf. S8, Fr46, Fr157.

*38:ほぼ「欲求」の意味、とくに「生物学的な欲求」の意味であると思われる。

*39:ここでラカンが主張しているのは、二重化された要求の「あいだ」に欲望の領野が存するということである。セミネール5巻では、フロイト「集団心理学と自我分析」における催眠と精神分析の違いを論じた箇所を参照しながら、(転移と暗示に対応する)要求の二重化された線のあいだの距離を保つことが、分析に特徴的な操作であるとされている。cf. S5, Jb268/Fr429.「二つの線は、主体にとってそれらが区別されているからこそ、区別されたままであり続けることができるのです。そうした領野は、欲望の領野と呼ばれています。」 この二つの領野の区別ならびに催眠と分析の違いは、『精神分析の四基本概念』では自我理想Iと対象aの懸隔維持として再び論じられることになる。cf. S11, J368/Fr245.

*40:性的関係におけるパートナーは、二重化された要求(欲求がシニフィアンによって刈り取られた要求と、それに付随して発生した愛の要求)のどちらかの対象になるだけでは十分ではない。その二つの要求のあいだに存する欲望の領野における「謎」として、欲望の「原因」として機能しなければならない。「欲望の絶対的条件」「欲望の原因」といった表現は、後に「対象a」と呼ばれるものを指していると考えられる。

*41:また、1958年当時の「欲望の原因」という概念に近しいものとして、「欲望の保証人にして支え [le repondant et le support du desir]」であるファンタスム($◇a)の概念があげられる。cf. S5, Jb288/Fr442-443. 「ここの($◇a)のところには、欲望の保証人にして支えであるようなものがあります。これは、欲望がその対象に固着する地点です。これには、自然的な性格があるとはとても言えませんし、これはつねに、主体が《他者》とのかかわりにおいてとる、ある位置によって構成されます。人間は、このファンタスム的な関係の助けを借りて、自らを再び見出したり、自分の欲望を位置づけたりします。ファンタスムが重要なのはそのためです。」

*42:「トータル・パーソナリティ」はフランツ・アレキサンダーの用語。cf.Franz Alexander, Psychoanalyse der Gesamtpersönlichkeit : neun Vorlesungen über die Anwendung von Freuds Ichtheorie auf die Neurosenlehre, Leipzig : Internationaler Psychoanalytischer Verlag , 1927.

*43:Bruce Finkはこの箇所に言及して、これは特権的なシニフィアンとして「ファルス(男根)」が選ばれる理由として考えられる3つだ、としている。cf. Fink, B. "The Lacanian Subject", p.102.

*44:原注1、羞恥の神のこと。

*45:フィンクは、「謙虚さ[modesty]」の神と訳したほうが良いと言っている。

*46:「ポンペイ」とは、ラカンが『テレヴィジョン』の表紙に引用していた秘儀装[Villa dei Misteri]のこと。ラカンは S5, Jb148/Fr348.で、このポンペイのフレスコ画とファルスの関係について言及している。「秘儀」の魔物は鞭を手にもち、儀式としての懲罰をはじめる。それゆえ、鞭打ちの幻想(「子どもが叩かれる」)は、ファルスのヴェールを取ることの幻想である。しかし、ファルスのヴェールを取ることは禁じられており、ファルスはつねに斜線によって覆われる。つまり、鞭打ちはファルスを可視的なものにしようとする幻想であり、そこにアイドース(羞恥)がやってきてファルスを隠して(=揚棄して)しまうということ。

*47:シニフィアン「連鎖」ではなく「連結[concatenation]」と言われている。concatenationという語は、エクリといくつかのセミネールで使用されているが、とりわけS5, Ja35/Fr31.など参照。

*48:ここでのSpaltungという用語は、フロイトの遺稿を参照している。cf.Freud, S. 「防衛過程における自我の分裂[Die Ichspaltung im Abwehrvorgang]」。これは後にセミネールXIの主要な概念となる「分離[separation]」へとつながり、他者における欠如を主体自身の欠如をもって補填するメカニズム(S11, J287/Fr195, E844)として描き出されることとなる。その他、cf. E642.

*49:S14, 1967/2/22のセミネールではこの論文に触れながら黄金比の解説がなされている。一方、奇妙なことに、この「ファルスの意味作用」の発表と同時期のセミネールでは、黄金比についての言及がまったく見られない。セミネール5巻における、ファルスについての最も数学的な定義と考えられるものは S5, Jb74/Fr297.にあり、ファルスは欲望におけるシニフィアンの影響の共通因数の最小公分母[le plus petit commun denominateur de ce facteur commun]であるとされている。もしかすると、『エクリ』出版時に、ジャック・アラン=ミレールの"Suture"等でのシニフィアンの再-印付けの論理を参照した上で、ラカン自身が書き直した可能性もある。いずれにせよ、ファルスのシニフィアンが欲望を構造化するという意味。

*50:"apprehender"は「懸念している」とも訳せる。ラカンは『無意識の形成物』のセミネールで、前エディプス期の母の身体の内部には、さまざまな悪い対象が含まれていて、あらゆる競争相手(兄弟、姉妹の身体)の他に、まさしく父が、彼のペニスという形で存在しているというクラインの発見について言及し、クラインのように想像界の平面をさかのぼればさかのぼるほど、象徴界の起源である父性的な第三項の出現が早期に起こっているということを、クライン自身が意図せずに指摘しまっている、と指摘している。cf. S5, Ja240-241/Fr164-165.

*51:ここで「試練」と訳出した"épreuve"の意味にもっとも近いと考えられるのはS5, Ja277/Fr188.の以下のパッセージである。「欲望が入り込み、そこで進展する世界(……)はパロールが支配する世界であり、このパロールが各々の欲望を《他者》の欲望の法に従わせます。つまり、幼い主体の要求は、シニフィアン連鎖の線を多少なりとも幸運な仕方で超えることになります。この連鎖は、現にそこにあり、潜在的であって、既に構造化を促しています。ただこのことだけによって、主体は《他者》に対する関係について行う最初の試練[épreuve]を、自らが象徴化した限りにおいてこそ、主体は母に語りかけるのであり、その仕方が、それがいかに、多少弱々しいものであるとしても、はっきり分節化されています。我々は「Fort-Da」にこれを見出します。つまり、この意図あるいはこの要求は、シニフィアン連鎖を通過したからこそ、母性的対象に対して自らをはっきりと示すことができるのです。」 フィンクは、この”L'épreuve du desir"という言葉には多義性があり、「欲望によって構成される試練」と読むことができるといっている。

*52:なお、分割[division]はラカンによる分裂[Spaltung]の訳語だと思われる。S5, Ja345/Fr235参照。ここでラカンはフロイトの「防衛過程における自我分裂[Ichspaltung]」のタイトルをフランス語に訳すにあたって、"division"を採用している。

*53:S5, Ja281-288/Fr191-212.で論じられる「エディプスの3つの時[temps]」で、主体が<他者>の領野をくまなく見渡すうちに、<他者>の<他者>つまり《他者》自身の法を発見することが否定的段階として結節点となり、「母の去勢」が起こることが説明されている。このエディプスの第二段階における去勢は「子供の去勢」ではなく、「母の去勢」である。その他、S5, Ja272/Fr185.「〔エディプスの衰退、父への同一化に〕先立って、父が母を剥奪するものとして機能し始める瞬間があります。つまり、父が母とその欲望の対象との関係の背後に、「去勢するもの」として姿を現す瞬間があるのです。(……)この場合、去勢されるのは主体ではなく、母だからです。」

*54:所有に欠けていること(男性)、所有しそこなうこと(女性)のダブルミーニングとして読める。

*55:「あること[l'etre]」「持つこと[l'avoir]」は、S5, Jb263/Fr426で「愛されている対象へのリビドー的、性愛的な愛着」と「同じ対象への(退行的)同一化」へと関連付けられている。

*56:仮面[mascarade]は、ジョーン・リヴィエールが女性性の本質として作り上げた概念。Riviere, J. 'Womanliness as a Masquerade', International Journal of Psycho-Analysis, 10:303-313.(拙訳が東京精神分析サークルWebサイトでご覧になれます。)

*57:cf. S5, Jb151/Fr350.「女性が自分を見せびらかし、自分を欲望の対象として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルスと同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス、《他者》の欲望のシニフィアンとして位置づけます。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装[mascarade]と呼ぶことのできるものの彼方に位置づけますが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからです。この同一化は、女性性ともっとも密接に結びついています。」

*58:E693最後の段落のことか。

*59:現実的剥奪ならびに、母のファルスであろうとする子供の経験。

*60:Uber die allgemeinstre Erniedrigung des Liebeslebens(1912), GW VIII pp.78-91, SE XI pp.177-190、「「愛情生活の心理学」への諸寄与」,高橋義孝訳,著作集10巻, pp.176-194、このフロイトの論文によると、「おとしめ」とは、母親を娼婦とみなすという空想のこと。この空想は、愛情生活のなかの割れ目を少なくとも空想の中では埋めようとする努力であるとされる。具体的には、少年がエディプスコンプレックスのなかで、性交という恩恵を自分にではなく父に与えた母を恨みに思い、その一方で、そういう母親の態度を、母親の不誠実だと思う。そして、この不誠実は空想のなかに生き延びていき、母親や愛情の対象の娼婦性という空想が生まれるとされる。これは、母という<他者>の望むものが私ではなく、他のもの、つまりファルス(父)であると想像され、<他者>の無矛盾性が否定され、<他者>にはひとつの亀裂があることを知る。そしてその欠如を埋めるものとして、ファンタスムが作られるというラカンの理論と並列的に読めるように思われる。

*61:cf. S5, Jb152/Fr351.「ところが逆に、男性は欲望の線上でも、つまり、彼が女性について自分の満足感を見つけなければならない場合でも、やはりファルスを捜そうとします。しかし(……)このファルスは、男性がそれを探しているところには見つからないため、彼は、よそのいたるところを捜すことになります。別の言い方をすれば、女性にとって、象徴的なペニスはいわば女性の欲望の領野の内部にありますが、男性にとってはそれは外部にあります。このことは、男性が、一夫一婦制の関係のなかでいつもその関係から離反する傾向があるのを説明してくれます。」 ここでラカンが「欲望」の側面と、「愛の要求」の側面の二つを区別して論じていることには注意を要する。また、S5, Jb117/Fr327以降も参照のこと。

*62:男性の「他の女性」への欲望つまり「浮気癖」は、上に見たように「欲望」と「愛の要求」のあいだで二重化した傾向のなかの「欲望」の線上でのことであった。一方、ラカンはここで女性の二重化のなかの「愛の要求」の線上のことを論じている。「男性の存在の代わり」については、S5, 151/Fr350.にある以下のパッセージが参考になる。「女性は結局のところ、一連の置き換えという手段によってしか、母性の満足と同じくらい根本的、基本的、本能的な満足感(……)を獲得することがない、ということです。まさしく、ペニスがまず初めに一つの代替物である(……)という限りにおいてこそ、子供もまた、ある面では、やがてフェティッシュになります。女性はまさにこのような仕方で、そのいわば本能であるものに、そしてその自然な満足にたどり着きます。」 また、女性における「欲望」の線は、「仮装」の概念で例証されるようなファルスのシニフィアンに対する同一化として考えられている。また、女性の二重化については、E734でジョーンズの論「女性性の初期発達」の女性同性愛のケースを引きながら論じられている。ジョーンズは、主体の欲望が「近親相姦的対象(父)」と、「自分と同姓の人物」とのあいだで選択を強いられ、欲望が分岐するとしている。

*63:ここで「側面」と訳したversantは、ラカンによるヤコブソンのaspectsの訳語である、というブルース・フィンクの指摘から、言語の二つの側面である隠喩と換喩とに関連付けられるかもしれない。

*64:フロイト「女性同性愛の一ケースの発生史について」(著作集11巻)を参照。この患者は自分の性愛対象を完全に男性的な態度で愛し、単に女性を自己の性愛対象に選び取ったばかりか、この性愛対象に対して男性として振舞いもした。フロイトは、男性の愛情対象の選択における「おとしめ[Erniedrigung]」と、この症例が微細な点まで一致している、と指摘している。患者は「父が自分に子を与えてくれる」という願望を持っていたが、実際には父が「母に子供を与える」(妹の誕生)ということが起こり、患者は父に「幻滅」する。この幻滅によって、大きな心境の変化が起こる。この患者の「幻滅」は「おとしめ[Erniedrigung]」あるいは「父が去勢されている」という認識と近い。男性の性愛では、母を対象とするが、母に欠如を発見する(母の去勢)。その解決策として「おとしめ[Erniedrigung]」があり、「他の女[une autre femme](娼婦)」を欲望する。一方、女性同性愛では、父を対象とするが、父に欠如を発見する(幻滅)。その解決策として「父への復讐」があり、「他の女」を欲望する(患者の同性愛の対象は娼婦的な人物であった)。このように男性の性愛と女性同性愛には相同性がある。

*65:ミレールは、”Donc”のセミネールにおいて、E853を参考にしつつ「欲望は同一化で満足する」と公式化している。「拒絶」については、E690で言われていたように、欲求を要求として表現し、母に伝えること(の失敗)から残余が発生して、それが支流として欲望となる。そのように発生した欲望は同一化を目指す。

*66:cf. Freud, SE XXII, p.131, "There is only one libido, which serves both the masculine and the feminine sexual functions." フロイト「女性の性愛について」にも、少女も少年と同じようなリビドー的な力が働いている。少女の場合は、能動的な目標と受動的な目標という複数の種類のメカニズムがあるが、「リビドーは一つ」であるという記述がある(『エロス論集』p.354)。また、E735では、ただ一つのリビドーしか存在せず、それは男性の徴を刻まれている。これはシニフィアンの特権であろうか。両性が競争として現われるためである、など。その他、E851等。「リビードは性的本能ではない。リビードの還元は、極限までいけば、男性の欲望に還元できるとフロイトは指摘している。これは私たちに、この事実(リビードは性的本能ではない)を気づかせるに十分である。」