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à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

治療の方向付けとその能力の諸原則(断片)

La direction de la cure et les principles de son pouvoir
1958年7月10〜13日、ロワイヨーモン討議の報告



E585

I、今日、誰が分析をするのか[Qui analyse aujourd'hui?]

1、分析が分析主体の人格の指標を担っているということが、当たり前のことのように言われています。しかし、分析において分析家の人格が与えるであろうさまざまな影響について関心を示すならば、それは大それたことだと考えます。このことは、少なくとも、逆転移に関して現在一般化している見解を耳にするときに、私たちの心に戦慄がよぎることが説明してくれるでしょう。逆転移は、間違いなくその概念上の不適切性を隠蔽することにしか役に立っていません。私たちは、自分たちが人格を形成したものと同じ粘土から創造されていることを示すならば、なんという精神の高貴性を証明することになるでしょうか!
 いま、乱暴な言葉を使ってしまいました。しかし人々が精神分析という名の下に「患者の情動の再教育」に献身しよう努力している今日、この言葉は、本来それに耳を傾けてもらいたい人々にとっては全く十分ではありません[22]。*1
 逆転移について言われていることは、すべて中身のない無意味なものではないにしても、本筋から脇道へそらせる役目を果たしていると思われますので、そのことを考慮しますと、分析家の活動をこのレベルに位置づけることは、原則的な姿勢を暗示しています。というのは、私たちがいま追放したいと考えている詐欺は、今ではこのような考察の上にあぐらをかいているからなのです。
 だからといって、私たちは、現在の精神分析のそのような反フロイト主義の側面を非難しようとしているわけではありません。それどころか、私たちは、今日の精神分析が仮面を脱いだことに感謝しなければなりません。なぜならば、今日の精神分析はその経験について語ってはいますが、それがいかにフロイトの理論に一致しないかは、フロイトの理論を念頭におけばはっきりとわかることです。しかし、今日の精神分析は、さらになお、フロイトの教えを乗り越えていると自負しているのです。
E586
 私たちが示してみたいと考えているのは、正規の方法にのっとって実践活動を維持することに対する無能――これは人類に普遍的なことですが――が、いかにして能力の訓練へと帰着するか、ということです。
(……)


E592

II、解釈の場とは何か[Quelle est la place de l'interpretation?]

(……)


E602

III、転移を考える場所はどこか[Ou en est-on avec le transfert?]

(……)


E612

IV、いかにして分析家の存在をもって行為するか[Comment agir avec son etre]

(……)


E620

V、欲望は文字通りに[a la lettre]捉えなければならない[Il faut prendre le desir a la lettre]

1、「夢は結局、夢でしかない」――最近こんなことを言う分析家[22]〔=ナシュト〕がいます。もしそうならば、フロイトが夢の中に欲望を見出したことは、何の意味もないことなのでしょうか?
 欲望は、諸々の傾向ではありません。ここでフロイトが「欲望」と呼んでいるものがいったい何を表しているかを知るためには、『夢解釈[Traumdeutung]』を読む必要があります。
 私たちは「Wunsch」という言葉、そしてその英訳である「wish」に立ち止まって、欲望[desir]というフランス語をそれらから区別しなければなりません。〔欲望という分析における決定的な概念は〕ドイツ語と英語の言葉〔Wunschとwish〕によって弱められた爆竹となってしまいました。それらのドイツ語と英語の言葉〔Wunschとwish〕の響きは、情欲[concupiscence]以外のものを提供してくれないのです。それをフランス語でいうならば、「voeu」ということになるでしょう。
 フロイトがある女性に、夢は欲望であるという彼の理論を説明したところ、その女性が夢を見ました。その夢はフロイトに提供するため、という以外の動機を持っていませんでした。その女性患者は、夢はまったくそのような〔欲望であるというような〕ものではないのだという証拠を持ち、フロイトに報告したのです*2。ここで私たちが心に留めておかなければならないのは、「欲望は非常に狡猾なディスクールのなかで分節化される」ということです。しかし、フロイトの思考の中で欲望という言葉が何を意味しているかを理解するためには、夢の欲望と、非常に狡猾なディスクールにおけるその〔夢の欲望の〕法則の立証を認識することにフロイトが満足しているという事実の帰結を理解することが重要なのです。〔フロイトは、夢という「もう一つの舞台」を支配するどのような法則を見つけることで満足したのでしょうか。〕
 フロイトはその〔夢の中で欲望が分節化される狡猾なディスクールの〕奇抜さを扱い、ずっと先まで進んでいます。つまり、処罰される夢は、その処罰が抑えているものに対する欲望を意味しているかもしれない、ということです。
 私たちは、引き出しのラベルで立ち止まらないようにしましょう。多くの人々が、引き出しのラベルと〔その引き出しの中に入っている〕〔夢の〕科学の成果を混同してしまっているのです。フロイトのテクストを読んでみましょう。フロイトの思考は諸々のねじれと転回を私たちに課していますが、そのようなねじれと転回の中でフロイトの思考を追っていきましょう。フロイトの思考を科学的ディスクールの理想と比較して嘆き悲しむことについて、フロイトは自分の研究の対象〔=患者の夢〕によってそのような思考に無理に押し込まれたのだと主張している、ということを忘れないようにしておきましょう*3
 ここで、この対象はこれらのねじれと転回と同じ〔交換可能[identique]〕であるということが分かります。なぜなら、フロイトの著作〔『夢解釈』〕の最初の転回点において、ヒステリー症者の夢を扱うにあたって、フロイトは事実に立ち止まっています。この症例では特異的に、〔患者が〕他の女性の欲望を参照することによって、〔欲望の〕置き換えがおこり、以前の日からの欲望――まったく別の秩序に属する欲望によって、高い位置に維持された欲望――が夢の中で満足させられていたのです。フロイトはそれ〔=ヒステリー症者の欲望〕を「満たされない欲望を持つ欲望」として特徴づけたためです[7]*4
E621
 『夢解釈』において欲望を幾何学的により高い力[puissance]へと引き上げるためになされた差し向け[renvois]を数にいれるべきなのです。解説するものを特徴づけるためには、単一の指針〔手がかり[indice]〕だけでは十分でないのです。これらの差し向けにおける二つの次元を区別することが必要なのです。一つには、「欲望の欲望[un desir de desir]」、つまり、「欲望によって意味される欲望[un desir signifie par un desir]」があります(満たされない欲望を持つというヒステリー症者の欲望は、彼女のキャビアへの欲望によって意味されています。キャビアへの欲望はそのシニフィアンなのです)。この「欲望への欲望」が、〔欲望のもう一つの次元である〕「欲望に代理された欲望[un desir substitue a un desir]」という別の領域のなかに書き記されているのです(この夢の例では、スモークサーモンへの欲望――つまり患者の女友達の特徴――が、患者自身のキャビアへの欲望によって代理されています。これがシニフィアンによるシニフィアンの代理[substitution d'un signifiant a un signifiant]を構成しています)。


※メモ
欲望の欲望=欲望によって意味される欲望=前意識的欲望 キャビア
欲望に代理された欲望=無意識的欲望 女友達への同一化


2、私たちがここで見つけたものは決して顕微鏡視的[microscopique]なものではなく、葉っぱがそれが分離された植物の構造的特長を持っているということを認識するのと同じように、特別な道具をまったく必要としません。たとえ葉っぱのついた植物を一度も見たことがない人でさえも、葉っぱが皮膚の一部よりは植物の一部に似ているということに気づくことでしょう。
 そのヒステリー症者の夢は、無意識と呼ばれる機制[メカニズム]――圧縮[condensation]、移動[glissement]など――についてこの本〔『夢解釈』〕全体が説明していることを要約しています。それは、それらの〔無意識の機制の〕共通の構造を根拠とすることによってなされているのです。すなわち、フロイトの無意識を特徴づけ、私たちの主体の概念を脱中心化するランガージュのしるし[marque]への欲望の関係を根拠としているのです。
 私の生徒たちは、私が〔セミネールで〕示したように、ここでシニフィアンシニフィエの基本的対比について私が提供した接近法、つまりその〔S/sの〕対比に由来するランガージュの諸能力[pouvoirs]の真価が分かると思います。その〔ランガージュの〕諸能力の訓練を概念化しているあいだ、それでもなお、私はその仕事を彼らのために放っておきました。
E622
 ここで、〔シニフィアンの〕諸法則の自動的機能を思い出しておきましょう。その諸法則によって、シニフィアン連鎖のなかで以下のようなことが分節化されるのです。


(a)隠喩効果を生みだすための、ある言葉[terme]の他の言葉による代理
(b)換喩効果を生み出すための、ある言葉の他の言葉との結合[17]*5


 ここでこの法則を適用するなら、私たちの扱っている患者〔=肉屋の女房〕の夢では、スモークサーモン――彼女の友人の欲望の対象――が、患者が申し出なければならないもののすべてであるということが分かるでしょう。フロイトは、この場合にスモークサーモンがキャビアへと代理されているということを指摘し――フロイトキャビアを患者の欲望のシニフィアンとして扱っています――、この夢を欲望の隠喩として見ることを提案したのです。
 しかし、積極的な意味の効果がないのなら、すなわち、彼女の欲望の意味への特定の(主体的に得られる)接近手段がないのなら、隠喩とは一体何なのでしょうか?
 ここで現れている主体の欲望〔キャビア〕は、彼女の(意識的)ディスクールによって暗に言われていたものとして現れています。つまり、その欲望は前意識的なものとして現れているのです。彼女の夫が彼女の欲望を満足させようとしているのですから、その〔キャビアへの〕欲望が前意識的なものであることは明らかです。患者にとっては、誰が彼に彼女がそのような欲望を持つこと、そして彼がそれをしないこと〔「私にキャビアをくださらないでね」〕を丸めこんだのか、ということが重要ですが、このことを「満たされない欲望を持つ欲望」として分節化するためには、さらにフロイトの近くにいなければなりません。このような欲望が無意識のなかで何を意味しているのかを理解するためには、もう少し論を進めなくてはなりません。
 ところで、夢は無意識ではありません。しかし、「無意識に至るための王道である」とフロイトは言っています。このことは、無意識が隠喩の効果にもとづいて進行するということを念押ししています。夢はこのような〔無意識における隠喩の〕効果をあらわにするのです。しかし、一体、誰に対してあらわにするのでしょうか? そのことについて少々おさらいしておきましょう。
 以下のことにしばらく注意しておきましょう。すなわち、いま問題になっている欲望、さらには満たされないものとしてのシニフィエは、シニフィアンがこの〔満たされない欲望を持つという〕欲望を手の届かないものとして象徴化している限りで、このようにして「キャビア」というシニフィアンによって意味されています。また、しかしながら、欲望が横滑りし、欲望として、キャビアへ流れ込むやいなや、キャビアへの欲望はこの〔満たされない欲望を持つという〕欲望の換喩となります。この欲望がそれ自身を維持する存在欠如によって、〔この欲望の換喩が〕必要なものとされるのです。
 私があなたがたに教えつづけてきたように、換喩は、「他のシニフィカシオンに差し向けられないシニフィカシオンは存在しない」という事実によって可能なものになる一つの効果なのです。それらのシニフィカシオンにもっとも共通の特徴は、それ〔換喩?〕のなかに生みだされます――すなわち、(よく意味なきもの[l'insignifiant]と混同される)「意味の少なさ[peu de sens]」のなかに生みだされるのです。繰り返しになりますが、この欲望の根源に位置していることが明らかになる「意味の少なさ」が、倒錯者の症例を導きの糸として協議することによって、いま扱っているヒステリー症への点へと誘っています。
E623
この概観における真実は、「欲望は存在欠如の換喩である」ということなのです。


3、『夢の科学[La science des reves](Traumdeutung)』と仏訳されている著作に戻りましょう。「(夢の)科学[science]」――この訳語は、「(夢)占い[mantique]」よりは幾分マシですが、「(夢の)シニフィアン性[signifiance]」という訳語が最もふさわしいでしょう。
 フロイトはこの著作で、夢が引きおこす全ての心理学上の問題を解決したと主張しているわけでは決してありません。この著作を読めば、フロイトが以下のようなめったに探求されなかった諸問題(夢における空間と時間、夢の感覚的材料について、あるいは色や無調性[atonal]についての研究はめったにないか、あったとしても少しだけです。匂い、味、触感の粒の粗さは眩暈、腫れ、重さと同じように現れるでしょうか?)には触れていないことに気づくことでしょう*6フロイトの教義は心理学であるという意見は、粗雑で曖昧なものなのです。
 フロイトがこのような曖昧さをそのままに放っておいたのだと言われる所以はありません。彼は反対に、夢の「加工[elaboration]」にのみ興味を持っていました。このことは何を意味するのでしょうか?――私が夢の「ランガージュの構造[structure de langage]」と訳したまさにそのもの〔にフロイトが興味を持っていたということ〕を意味しているのです。フロイトはどのようにして後にフェルディナン・ド・ソシュールによって分節化される前に、その構造に気づくことができたのでしょうか?――フロイトは、自分の用語がその構造にオーバーラップしているものとして先取りしていたのだ、ということはとりわけ特筆すべきことなのです。しかし、彼はどこでそれを発見したのでしょうか?――シニフィアンの流れのなかに発見したのです。そのシニフィアンの流れの神話は、主体がどこで主体自身の創設者になろうとふるまっているかを知ることすらないという事実のなかに構成されています。
 〔自分自身を〕欲望するものとして再発見[retrouver]させること、それは〔自分自身を〕主体として認識[reconnaitre]させること*7とは反対のことです。なぜなら欲望の小さな流れ[ru du desir]はまるでシニフィアン連鎖の分岐線に添うように走っているからです。そしてまた主体は自分自身のフィードバックを捕らえるために踏切〔交差点 [voie de bretelle]〕を駆使しなければならないからです。
 欲望は分析が主体化する[subjective]ものを従属させてしまう[assujettir]だけです。


4、このことは私をいまだ答えられていない問い――「分析家が登場する以前には、夢は誰に対してその意味を露呈させていたのか?」――へと連れ戻します。この〔夢の〕意味はそれが読まれる前から存在しており、また、その解読の科学〔=精神分析〕に先立って存在しています。
 この両方が夢は夢の――言い終える前に私の声がひるんでしまうのですが――認識[reconnaitre]を目的としているということを示しています。なぜならば、フロイトは無意識について正しく、そして分析が必要だと仮定するならば、欲望は解釈のなかでのみ捉えることができるできるからです。
 しかし、私が以前に言っていたことに戻りましょう。夢の加工は夢によって育まれる、――なぜ私の声はこの考えを言い切ることに失敗するのでしょうか――その認識[reconnaitre]のために。あたかも二番目の言葉〔認識〕がはじめに出てきたときに、もう一つの言葉〔欲望〕の光のもと、その言葉に再吸収され消滅させられてしまったかのようです。あるものがその認識を得るのは、睡眠によってではないからです。そして夢は、フロイトが言っているように、ほんのわずかな矛盾すらなしに、何よりもまず睡眠を続けようという欲望に奉仕します。それはリビードのそれ自身へのナルシシスティックな撤退や現実性の脱備給を伴っています。

E624

 ともかく、経験的事実として、私の夢が私の要求(現実性に関した要求ではなく、不正確な言葉で言うなら、私の眠りを安全に守るという要求)と一致しはじめたとき――あるいはそれと等価であると証明されたもの、すなわち他者の要求と一致しはじめたとき、私は目覚めます。


5、結局[apres tout]、夢は夢にすぎません。いま分析の道具としての夢を軽視している人々は、今まで見てきたように、もっと確実で直接的な道を発見しています。その道に従えば、患者をしっかりした規則と正常な欲望へと連れ戻し、真の欲求[besoins]を満足させることができるそうです。しかし、それはどの欲求なのでしょうか? 私の同僚たちよ、なぜ世界のすべての欲求ではないのでしょうか。それがあなたがたを恐れされることなのでしたら、あなたの分析家を信頼して、パリがいかに美しいかを見るためにエッフェル塔に登ってみてはいかがでしょうか〔エッフェル塔に登るという欲求を満たしてはいかがでしょうか〕。悪いことに第一甲板の手すりを飛び越えた人々もいて、諸欲求をすべてその適正な関係に戻してしまっています。つぎに陰性治療反応についてお話します。
 このような拒絶がすべての人にみられるわけではないことはありがたいことです。単純に、症状は雑草のように再び芽を出しています。これはすなわち反復強迫です。
 しかし、人は思い出すがために良くならないのだ、と考えることはまったくの勘違いにすぎません。人は良くなるがために思い出すのです。この公式が見つけられたなら、症状の再生産についての疑問はもはやありません。しかし、分析家の再生産についてだけは疑問がありますが。患者の再生産は解決されているのです。


6、このように[donc]、夢は夢にすぎません。教育の度胸をもっていたある分析家は夢は自我によって作られると言ってしまうところまで進んでしまいました。このことは、人々を欲望から目覚めさせることを望むことに特に大きな危険性はないということを証明しています。このことは満ちた光のなかで、夢にほとんど好意的でなかった人々によって追求されました。
 しかしこれらの人々でさえも、精神分析家であるならば夢についてフロイトを読まなければなりません。なぜならそうすることなしにはフロイトが神経症者の欲望、抑圧、無意識、解釈、あるいは分析それ自体、あるいはフロイト技法と教義に関係するすべてのことの意味を理解することができないからです。この議論の目的のためにここで引用した一つの短い夢〔肉屋の女房の夢〕にどれほど多くのものが含まれているかをみましょう。
E625
 私たちの機知に富んだヒステリー者の欲望(フロイトも彼女をそのように特徴づけています)は、――私は彼女の起きている欲望〔=前意識的欲望〕、すなわち彼女のキャビアへの欲望のことをいっています――満たされておりいまだ存在を望んでいない女性の欲望です。彼女の夫である肉屋は彼女にすべての人が欲求するような類の満足を提供することにかけては、それをおろそかにすることはありません。彼を褒めそやした画家にたいして気取った言葉を使うこともありません。はっきりしないが何らかの意図があって彼の面白い顔を目当てに言い寄っていくる画家に、「ご芳志はまことにかたじけないが、若いきれいな娘っ子のお尻のほうがわたしの顔なんかよりよっぽどあなたには向いているのでしょう」と言うのである。
 この夫は女性が何も不満を持つはずがない男性です。これは性器的性格だといえます。彼が妻と性行為をする際、妻はことが終わった後でマスターベーションをする必要はないでしょう。その上、フロイトは彼女が夫にとても夢中であり、いつも夫をからかっていること〔「私にキャビアをくださらないでね」〕を私たちに隠してはいません。
 しかし、彼女は自分の真の諸欲求のみに関しては、満たされることを望んでいません。彼女は無償である他の諸欲求を望んでおり、それはそれを満足させるためではなく、それが無償であることを確かなものとするためです。これが「機知に富んだ肉屋の女房が望んでいるものは何か?」という問いに「キャビア」と答えられる理由です。しかし、この答えはどうしようもありません。彼女はまた何も望んでいないからです。


7、これが彼女の謎のすべてではありません。この袋小路によって拘置されることなく、彼女はそのなかに自らの自由への鍵を発見します。これは肉屋の女房でなくとも、世界中の機知に富んだヒステリー者のすべての欲望の領野の鍵となるものです。これはフロイトがそれらの遠まわしな眼差しの一つで知覚したものです。その眼差しでフロイトは真理を発見し、実証主義者がすすんですべてをことを説明してしまう抽象概念を粉々に打ち砕いたのです。この症例の場合では、模倣[imitation]――これはタルド*8の概念です。私たちはここでフロイトが特にこの症例においてヒステリー的同一化の根幹として提供しているものにすすみましょう。もしこの患者が彼女の友達と同一化したのなら、それは彼女のサーモンへの満たされない欲望において、彼女がまねできないほどのものであるかぎりです――彼自身がサーモンを燻製にするのでないとすれば、なんということでしょうか。

E626

 それゆえに、この患者の夢は彼女の友達の要求、つまり患者の家に夕食を食べに来るという要求への返答なのです。そして何が彼女の友達がそうすることを望ませることが可能であったかといえば、その家で振舞われる素敵な夕食はさておき、彼女の夫がつねに彼女の友達を褒めていたという事実――この事実は肉屋の女房によって見過ごされていません――ではいけないのでしょうか。彼女の友達が細身である以上、その姿が彼女の夫を惹きつけそうには思えません。彼がするように曲線を味わうのみです。
 患者の夫もまた、彼の全てが満足させられたとき、不首尾なまま残る欲望を持っているということにはならないでしょうか? それは夢の中で、彼女の友達の欲望が原因で彼女の要求を挫折させるということと同じメカニズムです。
 生まれたばかりの装備品であった電話によってその要求が象徴化される際の正確性にもかかわらず、それは無駄なことです。彼女の電話はつながりません。彼女の友達が太って、彼女の夫が彼女を大いに楽しむことになりますから!
 しかし、彼女では満足させることのできない男性(彼は後ろの肉[tranche]〔尻〕の男〔=性行為、尻のことばかり考えている男〕になります)によって、どうやって他の女性が愛されることができる(患者が立ち止まり思考するのに十分なほど彼女の友達を重んじているという事実だけではなく)のでしょうか? これはここで問題になっていることの正確な定式化です。これは一般的にいって、ヒステリー的同一化に含まれる問いなのです。


8、主体はここでこの問いになっています。この観点で、女性は男性と同一化しており、スモークサーモンのスライス[tranche]が《他者》の欲望の位置を占めることになります。
 この欲望はどんなものにも満足させられません(どうすればスモークサーモンが一切れしかないのに全員に提供できるでしょうか?)。「私は、最後には(この夢の最後で)夕食会を開こうという私の欲望を諦めなければなりませんでした(これは《他者》の欲望を探すことをあきらめるという、私自身の秘密です。)すべてはうまく行きません。あなた〔=フロイト〕は夢は欲望の充足だとおっしゃっていたのに! これをどのように説明してくださるのかしら、先生?」
 精神分析家たちはこの道に挑戦したものの、ずっと昔に返答することをやめてしまいました。患者の欲望を熟考することをあきらめてしまったのです。分析家たちは患者の欲望を要求に還元し、それを分析家自身の欲望へと変換する仕事へと単純化してしまいました。「それがとりうる妥当な道ではないのですか?」このように言って彼らはそれを受け入れてしまったのです。
 しかしときどきは欲望をそう簡単に追い払うことができないことがあります。これは大変明瞭なことですが、ここで見られる宴会の食卓の場面の真ん中での打ちたては、サーモンの形式をとって

(……)
E628
10.しかし、子供はいつもこのように存在のふところ[sein]のなかで眠っているわけではない――特に、もし<他者>が、子供の欲求についての独自の考えを持ち、〔子供に〕干渉し、<他者>が持っていないもの〔すなわち、愛〕の代りに、<他者>が持っている息の詰まるようなお粥〔=ベビーフード〕を〔子供に〕過度に食べさせるなら、すなわち、<他者>の提供する世話と<他者>の愛の贈与を〔<他者>が〕混同するならば――子供はいつもこのように存在のふところのなかで眠っているわけではない。食べ物を拒否し、自分の拒否を欲望のように利用するのは、もっとも愛され、もっとも食事を与えられた子供なのである(神経性食思不振症)。
(……)

E629
12.欲望は要求をこえた[au-dela]ところで生まれますが、それは主体の人生をその諸条件へと結びつけながら、要求が主体の欲求を刈り取るからなのです。しかし欲望はまた、要求の手前[en-deca]にも発掘され、〔そこで要求は〕在と不在への無条件の要求として、存在欠如を、無の三つのかたちのもとで喚起しています――存在欠如の三つのかたちとは、第一に、愛の要求の基盤をなしているものであり、第二に、他者の存在を否定するにまでいたる憎しみであり、最後に、熱望されながら無視されることになるいわく言い難いものです。この具体化したアポリアのなかで、――このことについて比喩的にいうならば、要求は傷ついた傾向の頑丈な派生物[rejeton]から重たい魂[ame]を借りており、またシニフィアンのシーケンスのなかで実現された死からそのわずかな身体を借りているのです――欲望はみずからを絶対的条件として主張するのです。
(……)
 この切断[coupure]の時期は血まみれの肉片のかたちにつきまとわれています。すなわち、人生が支払う一ポンドの肉*9です。その肉は諸々のシニフィアンシニフィアンとなるために支払われますが、想像的な身体へと回復することは不可能なものです。つまり、その肉とは防腐処理されたオシリス*10の失われたファルスなのです。

(……)

E641
19.重要なのは欲望を扱うということ、そしてそれは欲望を字義通りに(a la lettre)扱うことによってのみ可能であるということ、そしてさらに欲望は文字の罠であり、欲望の極楽鳥としての場所を決定し、それどころか過剰決定してしまうということです。まずなによりも文字の人間となるために、〔分析家は〕鳥の捕獲人となることを求めないでいられましょうか?
 フロイトの著作における「文字的[litteraire]」要素の重要性を明らかにしようとした人がいるでしょうか? それを注意深く読み取ることからはじめたチューリッヒのある文学教授を除くと誰もいないのです。
E642
 これは一つの指摘にすぎません。さらに先に進みましょう。分析家自身の欲望を考慮にいれたとき、分析家を(分析家の「存在」を)どう扱うかということを問いましょう。
 ウィーンの標準的ブルジョアであったフロイトはバッカナリアンの強迫をまったくあらわしていませんでしたので、アンドレ・ブルトンを大変おどろかせましたが、フロイトのように素朴な人間はまだいるでしょうか? 私たちに残されたのはフロイトその人ではなく、フロイトの著作のみとなった今では、私たちが彼の著作にみとめるのは火の河[un fleuve de feu]*11ではないでしょうか。それはフランソワ・モーリアックの人工の川とはまったく関係がありません。
 フロイトは自らの夢を告白することによって、人間の情熱をめぐる輪探し遊び[jeu de furet]*12において人から人へと渡される輪を閉じた手のなかでわずかに光らせ、滑っていくものと私たちを結びつける輪の糸を紡ぎましたが、誰が彼以上にそれをなしえたでしょうか?
 この書斎人〔=フロイト〕以上に、欲求の負荷を他者の肩に積む人々によってなされる享楽の独占に対して反対した人がいたでしょうか?
 この臨床家のように勇猛果敢に、人間の苦しみの日常性にしっかりと根ざし、生命をその意味において問うた人がいたでしょうか? ――〔フロイトは〕この〔生命の意味という〕問題から足を洗う都合のいい方法である「生命とは無である」という主張をするのではなく、生命は一つの意味を持っており、つまり、生命のなかでは欲望が死から生まれるということをいったのです。
 欲望の人間というものが考えられます。欲望の人間は彼の意に反して、欲望が感じること、制圧すること、知ることに反響する下り道を追従しますが、――今は亡き謎の通過儀礼のように――彼の比類なきシニフィアンを誰の助けも借りずに覆いをはずすことに成功しているのです。つまり、そのシニフィアンとはファルスです。ファルスを受けとったり与えたりするのは神経症者にとって不可能に等しいのです。なぜなら、大文字の他者がファルスを持っていようといまいと、神経症者の欲望は別のもの――すなわちファルスになることだからです。男性女性にかかわらず、人間はファルスではないということの発見に基づいて、人間はそれを持つか持たざるかということを受け入れざるをえないのです。
 主体をロゴス[Logos]に結びつける最後の分裂[Spaltung]がここに刻まれています。このことについて[12]*13のように書き始めていたフロイトは、存在の次元を扱った作品の最後の部分において、「終りなき」分析の解決を与えてくれましたが、それは彼の死がそれに「無(Rien)」という語を与えたときでした。



*1:書誌[22]は「今日の精神分析[La Psychanalyse d'aujourd'hui]」。特にその中の論文Sacha Nacht, "La therapeutique psychanalytique"。拙論参照。

*2:「肉屋の女房の夢」のこと。フロイトのテーゼに反論する内容を持つ夢に対して、フロイトは「この夢のいおうとしたところは、「先生(フロイト)が間違っている」ということだった。つまり彼女の願いは、「あなたのおっしゃることは間違っています」であった。そしてこの願いを彼女の夢は彼女のために叶えてくれたのである」と結論している。また、この夢では後に述べられるヒステリー者の欲望と欲望におけるシニフィアン性も論じられる。(フロイト, S. 『夢解釈I』, 岩波書店, pp.196-200 新潮文庫版では、pp.190-197)

*3:原注13、フロイトのフリースへの手紙118番(1899年9月11日)を参照せよ。

*4:書誌[7]はフロイト「あるヒステリー分析の断片」(症例ドラ)を指す。

*5:書誌[17]はラカン「無意識における文字の審級」。

*6:フロイトの探究はシニフィアンとその運動にのみ限定されていた、ということ。

*7:ローマ講演などで目指される当時のラカンの治療指針。

*8:ガブリエル・タルド(1843-1904)のこと。ここでラカンが言及している「模倣」は『模倣の法則』か。なお、タルドの文献はWeb上で閲覧できる

*9:返済を強く求められる借金のこと。シェークスピアの「ベニスの商人」でアントニオがシャイロックから借金の代わりに1ポンドの肉を求められることから。

*10:古代エジプトの復活の神。

*11:「火の河」はモーリアックの作品(1923年)。

*12:輪探し遊びjeu de furetは人びとのグループが輪になって座り、小さな物体を素早く手渡し、輪の真ん中に立っているプレイヤーが、物体が誰の手の中にあるかを当てる遊び。日本でいう「かごめかごめ(後ろの正面)」か。拙論を参照。

*13:書誌[12]はFreud, Sigmund, 「防衛過程における自我の分裂(Die Ichspaltung im Abwehrvorgang)」、 GW XVII、遺稿出版、58-62。1938年1月2日執筆(未完)。「防衛過程における自我の分裂」Collected Papers, V pp.372-375(英語版はSE XXIII, 275-78)cf.Lacan, S7-Fr337-