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à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

「翻訳者の緒言 Translator's note」p.vii-xii

訳稿

Ecrits : A Selection, translated by Alan Sheridan

Ecrits

Ecrits

※アラン・シェリダン訳Ecritsの序文(セミネールXI英訳にも収録)


 この選集では、ラカン自身の書いた『エクリ』に収録されている論文を、半分以下に削り、代表的な9篇を選んで収録した。
 「主な概念の索引」と「グラフに関する注釈」は『エクリ』の元のフランス語版にジャック−アラン・ミレールが書いたものに基づいている。
 このまれに見る難解な著作に関する問題の数々を手伝ってくれたGeorge Gross、Baudouin Jurdan、Stuart Schneidermanの三人に感謝する。

 また、the Arts Council of Great Britainからの協力にも感謝するべきである。
 以下の短い用語集は、概念の十分な定義を示そうという意図で書かれているのではない。概念を定義することは、奇妙なことに静的な解釈や定義づけといったものに抵抗するラカンの著作の性質にはとてもそぐわないだろう。ラカンの概念はフロイト派の精神分析に基づいているが、長年にわたって精神分析理論を絶えず更新しつづける必要性を見出した結果、その概念は進歩してきまた。そのため、たくさんの異なった文脈のなかにある個々の論文において、操作的に読んでいけば、最もよく理解できると思われる。しかしながら、いくつかの用語は、その導入として、注釈を必要とするだろう。そのため、私は、ジャック−アラン・ミレールにも手伝っていただき、読者に注釈を提供しようと思った。しかし、注釈は用語の効果的な作用に偏見を与えてしまうため、ラカンはいくつかの用語をまったく定義することなしに放置している。
 各項目の最初に括弧でくくられて斜体で書かれている語は、ラカンのフランス語を示す。その次に、必要に応じてフロイトのドイツ語を示した。それは、読者がフロイト派の精神分析の「古典的な」用語法に親しんでいると思われるからである。


「審級 agency」(instance, Instanz) 
ラカンの「審級」という語の使用は、フロイトの「Instanz」の範囲を超えている。その語は、フロイトのドイツ語の用語に相当するフランス語の言語学的可能性を開発=利用していることをあらわしているという人もいるかもしれない。ラカンのフランス語の用法に、正確に「Instanz」に相当する用語がないので、フロイトの英訳者によって考案された「agency」という訳語に先祖がえりしている。フロイトにおいては、この用語は3つの審級であるエス、自我、超自我への言及が最も多くなされている。一方、ラカンにおいては、論文「文字の審級 L'instance de la lettre」の題名に見られるように、審級とは「それに従って行動するもの acting upon」や「断言=強要するもの insistence」のことを考えておかなければ意味をなさない。


「(対の)片方 counterpart」(le semblable) 
この「鏡像的自我 specular ego」の観念は、論文「鏡像段階」で初めて提示された。


「要求 demand」(demande) 
「欲望 desire」の項を見よ。


「欲望 desire」(desir, Wunsch, Begierde, Lust) 
フロイトの標準版 The Standard Editionでは、フロイトの「Wunsch」を「願望 wish」という、ドイツ語に非常にあう英語に訳している。この仏語訳としては、「voeu」の方が、現在フランス語で使われることは少ないが、「Wunsch」や「wish」に近い。しかし、フロイトの仏訳者は「voeu」よりむしろ「desir」を常に用いている。また、「Wunsch」「wish」と「desir」の決定的な違いは、ドイツ語と英語(「Wunsch」「wish」)は、個人の独自の望むという行為に限定されているのに対して、フランス語(「desir」)は、持続的な力へのかかわりがずっと強い。ラカンが入念に作り上げ、彼の精神分析理論の中核に位置させた含蓄――なぜ私は「欲望 desire」によって、「欲望 desir」を作り上げるのか――が、それである。さらにいえば、ラカンは「欲望 desire」の概念を「欲求 need(besoin)」と「要求 demand(demande)」と、以下のように関連付けている。
 ヒトの個人は、ある対象で満足させられる生物学的欲求を持つ特定の器官から出発する。言語の習得はこれらの欲求 besoinにどのような影響をおよぼすだろうか? すべての発話 parole は要求 demande である。なぜなら、発話はその発話の宛先となる大文字の他者と、組織立てられた表現=公式化 formulation のなかに運び込まれるその諸シニフィアンを事前に前提しているからである。同様にして、大文字の他者から来るものは、欲求の個別の満足のようにではなく、むしろ訴え appeal、贈り物 gift、愛のしるし token of love に対する返答として扱われる。欲求とそれを伝える要求のあいだに十全性 adequetion はない。実際、それら2つのあいだのギャップは、欲求のようにすぐに特定の欲望を構成するのと、要求のように絶対的に欲望を構成するのとの違いである。欲望(基本的に単独で)は、象徴的表現=はっきりいうこと articulation の持続的効果である。それは食欲のような何かを満たすための欲 appetite ではない。欲望は、本質的にエキセントリックであり、飽くこと、つまり満足することをしらない。ラカンが欲望を、欲望を満たすように見える対象ではなく、欲望を引き起こす対象と等置したのはこのためである。


「欲動 drive」(pulsion, Trieb) 
フロイトにおいて既に明確であった、欲動 Trieb と本能 Instink の区別は忘れ去られていたが、ラカンはその区別――すなわち、全面的に精神的なものとである欲動と、生物学的な意味を暗示している本能との区別――を復活させた。ラカンの指摘するように、フロイトの英訳者は欲動 Trieb と本能 Instink をともに「本能 instinct」と訳してしまい、この区別を不鮮明なものにしてしまった。


「言表行為 enunciation」(enonciation) 
「言表内容 enonce」と「言表行為 enonciation」は、フランス現代思想ではよく区別される。「言表内容」は実際に話された言葉であり、「statement」と訳すことにする。一方、「言表行為」はその言葉を発言する行為のことである。


想像界 imaginary、象徴界 symbolic、現実界 real」(imaginaire, symbolique, reel) 
これら三つの用語のうち、「想像界」が最初に用いられた。それは1953年のローマ講演よりだいぶ前のことであった。その頃ラカンは「イマーゴ imago」を心理学の研究対象としてみなし、同一化 identificationを基礎的な精神的過程とみなしていた。そのとき「想像界」は世界、領域、イメージの次元、意識あるいは無意識、知覚されたものあるいは想像されたものであった。この観点から見ると、「想像的 imaginary」は単に「現実的 real」の対義語ではない。なぜならイメージの中でもあるものは現実性に含まれるし、ラカンは生態学の研究から、「鏡像段階」に描かれている状況と比肩しうる構成的機能が動物にもあることが明らかになった事実を見つけ出してきたのである。
 「象徴的 symbolic」の観念は、ローマ講演から前面に出てくるようになった。ここでいう象徴とはシニフィアンであり、図像 iconや様式的に作られた飾りではない。すなわち、(1)差異的な要素であり、(2)それ自身単独では意味を持たず、(3)シニフィアン相互の関係によって価値を得て、(4)閉じた秩序を形づくる、というものである。ここで問題となるのが、シニフィアンの秩序は完全なものかどうかということである。その後、主体にとっての決定的な秩序とみなされるものは、想像界ではなく象徴界となる。そして象徴界の効果は驚異的である。レヴィ=ストロースによる親族の基本構造の形式化と、ヤコブソンの二元論によるその応用が、ラカンの象徴界の概念の基盤をなしている――しかし、概念はその起源よりずっと遠くまで行くのだ。ラカンによれば、経験において象徴界に属するものと想像界に属するものは区別されなければならない。特に、主体と、シニフィアン・パロール・ランガージュの関係は、自我とそのイメージのあいだの関係である想像的な関係と頻繁に対比される。どの場合においても、これらの二つの次元のあいだの関係からは多くの問題が生じる。
 「現実界」は「象徴界」「想像界」と関連して、第三の用語としてあらわれる。「現実界」は象徴的でも想像的でもないものを意味し、パロールの経験である分析的経験から排除されたもの foreclosedとしてとどまる。象徴界の前提として先立つもの、つまり原初的状態 raw stateにおける現実界(主体の場合では、例えば、有機体としての人間 organismとその生物学的欲求)は代数学における未知数xとしてのみ考えられるだろう。ラカン派の「現実界」の概念を現実性と混同してはならない。現実性 realityは完全に知りうるものである。欲望の主体はそれ以上を知ることはない。なぜなら、現実性とはまったく、空想的 phantasmaticなものであるからである。
 「現実界」という用語は、最初あまり重要ではなく、安全のための手すりの一種であったが、だんだんと発展させられ、その意味するところ significationはずいぶんと変化した。その用語は十分自然に、象徴的代理物と想像的諸ヴァリアント imaginary variationsとの関係において、永続性の機能をあらわすものとして登場した。ラカンいわく、「現実界とは常に同じところに帰ってくるものである」。現実界想像界が(それについて知りながら)尻込みし、象徴界がその上で躓いたものの前に、手に負えないもの、つまり抵抗となった。それゆえに現実界は次のように公式化される。「現実界とは不可能なものである」。この用語が最初、規則正しいものとしてあらわれ、形容詞として、象徴的秩序のなかに欠けているものをあらわし、表現しても表現することのできない光の当たらない暗部という残余として、排除された要素 foreclosed element、近づくことはできるが決してつかむことのできないであろうものとしてあらわれた。つまり、象徴界の臍の緒という意味においてである。
 ラカンが区別するように、これら三つの次元は、深遠に異種混成のものであるといえる。しかし、これら三つが一連なりのものとしてリンクされてきたという事実は、その三つは何を共通に持っているかという問いを引きおこす。その問いとは、ラカンがごく最近ボロメオの結び目というテーマで考えているものである(「R.S.I」と題された1974〜75年のセミネール)。


「享楽 juissance」(juissance) 
英語にはこの語を訳すのにぴったりの言葉はない。「楽しむこと enjoyment」は、「享楽 juissance」にも含まれる、権利を享受したり所有物などを享有する〔つまり、権利や所有物に恵まれていること〕、という意味を持つ。しかし不運なことに、現代の英語では、「enjoyment」という語はフランス語にはいまだ残っている性的なコノテーションを失っている(「jouir」は性的絶頂を意味するスラングである)。一方、「快楽 pleasure」は、すでに「快楽 plasir」の訳語に使われている――ラカンはこの「享楽 juissance」と「快楽 plasir」を厳密に区別して使うのだ。「快楽」はフロイトが『快感原則の彼岸』において見出したような、解放することによって精神が可能な限り最も緊張の少ない状態を目指すという恒常原則に従う。一方、「享楽」はこの原則を逸脱し、フロイトでいえば、「快感原則の彼岸」に位置するものである。


「知 knowledge」(savoir, connaissance)
「認識 connaissance」の訳語として「knowledge」をあてるときには、括弧でくくって原文のフランス語を記した。ヨーロッパの言語の多くは、英語には失われている区別を残している(例えば、ヘーゲルの「Wissen」と「Kenntnis」の区別など)。フランス現代思想では、さまざまな著者がさまざまに区別を行う。ラカンにおいては、「認識 connaissance」(とそれに不可避的に付随する「誤認 meconnaissance」)は想像界に用いられ、「知 savoir」は象徴界に用いられる。


「欠如 lack」(manque) 
「欠如 manque」は本書では「lack」と訳した。しかし、一つだけ例外がある。それは、ラカンによって作られた表現である「存在欠如 manque-a-etre」であり、ラカン自身が英語で造語「want-to-be」を提唱している。


「ルアーlure」(leurre) 
このフランス語はさまざまに英訳される。例えば、「疑似餌 lure」(鷹や魚の場合)、「(鳥をおびきだすための)人工の鳥」(鳥の場合)、「釣餌 bait」(魚の場合)、そして「魅惑 allurement」と「誘惑 enticement」の観念のように。ラカンにおいては、この観念は「誤認meconnaissance」の観念と関連づけられている。


「誤認meconnaissance」(meconnaissance) 
私はこの言葉を訳さずにフランス語のままにしておくことにした。その意味は「認識の失敗 failure to recognize」あるいは「誤解 misconstruction」である。この概念はラカンの思想の中核に位置する。なぜなら、ラカンにとって、「認識connaissance」は「誤認meconnaissance」と不可避的に密接に結びついているからである。


「父の名 name-of-the-father」(nom-du-pere) 
ある意味、この概念は、フロイトの『トーテムとタブー』の神話的で象徴的な父から由来している。ラカンの三界秩序でいえば、この「父の名」は現実の父親でも想像的な父(父性的なイマーゴ)でもなく、象徴的父のことである。ラカンが言うには、フロイトは「大文字の父のシニフィアンの外観を、大文字の法の制定者として、死へ、そして大文字の父の殺害までもに関連づけ、そうしてこの殺害は、主体が自身を生涯にわたって大文字の法に縛りつける負債を主体が背負う実り多い契機になるが、この大文字の法を意味するかぎりにおいての象徴的な大文字の父はたしかに死んだ大文字の父なのである、ということを示す」ことに耐えがたいほど導かれているのだ。(『エクリ』所収、「精神病のあらゆる可能な治療に対する前提的な問題について」)


「欲求 need」(besoin) 
「欲望」の項を見よ。


対象a objet petit a」(objet petit a) 
問題の「a」は「他者 other(autre)」を意味する。この概念はフロイトの「対象 object」とラカンの「他者性 otherness」の開発=利用から発展してきた。「小文字のa」は対象を「大文字の他者」から差異化する(しかし、関連は持たせながら)。しかし、ラカンはこれらの用語に、本書ではコメントしていない。ラカンは、自分の使用する用法のうちに、この概念の統覚をつくりあげるように読者に仕事を課しているのだ。さらにいえば、ラカンは「対象a」は
訳さずに、そのままにしておくべきで、代数学的記号であるかのように受け入れられるべきだと主張している。


大文字の他者 Other」(Autre, grand Autre) 
対象a」の項を見よ。


「快楽 pleasure」(plasir) 
「享楽」の項を見よ。


「言表 statement」(enonce) 
「言表行為」の項を見よ。


「存在欠如 want-to-be」(manque-a-etre) 
「欠如」の項を見よ。