à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

シェーマLのトランプゲーム(2)

自我心理学における想像的関係の分析には、第三項が抜けていること、さらにはもう一つの第四項も抜けていることをラカンは指摘していた。そこで、「コントラクト・ブリッジ(あるいは、ばば抜き)」というトランプゲームの比喩を使って、「正当なる」分析状況をシェーマLとして定式化したのであった。
その定式化を、id:lacanian:20050419で示した『エクリ』p.589の一節をパラフレーズすることによって以下に解説してみる。

分析主体は分析家の人格にさまざまな空想を負わせるが、これを、〔コントラクト・ブリッジの〕名人が相手の意図を推測するのと同じ方法で行っていると判断することはできないであろう。ここにはおそらく常に戦略が存在するのであるが、人は鏡のメタファー――これは分析家が患者に対して向けているスムーズな外見に見合うものであろう――によって欺かれるべきではない。無表情な顔やきつく閉じられた口元が、ブリッジの場合と同じような目的を持っているわけではない。(E589)

「分析主体は分析家の人格にさまざまな空想を負わせる」とは、患者の側から分析家への転移のことを指しているが、これは当然、想像的関係である。
また、分析家は患者に対して、「スムーズな外見」をむけている――これは、分析家が威厳や包容力を持ったものとして自らを患者に示している、という程度の意味だろう。これもまた想像的関係である。
これら二つの傾向は、コントラクト・ブリッジの比喩で表現されるような「正当なる分析状況」とは異なるものである。「無表情な顔やきつく閉じられた口元」の例は、分析家の(ナルシシズム的な)自我をあらわしているものであり、ナシュトが重視した「分析家の存在(cf.id:lacanian:20050112)」につながる。ラカンはこのような想像的な物に頼ろうとする傾向を厳しく批判していた。
では、ラカンの言う「正当なる分析状況」(としてのシェーマL)はどのようにして可能になるのであろうか?
f:id:lacanian:20050420235520:image


上にあげた二つの図は、シェーマLを分析状況に適用したものである。
まず、右の図を見ていただきたい。シェーマLの原図ではa-a'、つまり想像的な軸と呼ばれているところは、患者の自我と分析家の自我の関係、つまり想像的関係のことである。(繰り返しになるが、ラカンはこの想像的な関係に基づいた分析をエクリやセミネールのなかで幾度となく批判している)

その代わりに、分析家はブリッジで、「ダミー」と呼ばれるものに助けてもらい、協力してもらっているのである。分析家がそうするのは、分析主体のパートナーとなるはずの第四番目のプレイヤーを引っ張りだしてくるためである。そして分析家は、現れた第四番目のプレーヤーの手を分析主体に推測させようとする作戦に出るのである。(E589)

分析家は自分の「自我」や「存在」を頼りにするのではなく、ブリッジで「ダミー」と呼ばれる位置のものを頼りにしなければならない。「ダミー」の性質は、「ダミー」の持ち札が、ゲームの参加者すべてに明らかにされていること、である。これはまさに大文字の他者の性質である。
このブリッジゲームにおいて、分析家の自我とダミーはペア(パートナー)であり、患者と対立している。そして、患者の自我のパートナーとなるのが、患者の無意識の主体(S/)である。
分析家は大文字の他者を明るみに出すことによって、患者の無意識の主体を引きずりだすのである。患者(の自我)が、パートナーである無意識の主体の「手」、つまり「考えていること」を推測するように仕向けるのが分析家の仕事である。


(トランプゲームのブリッジのルールに関しては、以前あげたサイトhttp://homepage1.nifty.com/appuri/html/bridge/rules/rule.htmlを見ていただきたい。)

これは、分析におけるゲームの掛け金が分析家に負わせた慎み――いうなれば、自己犠牲を慎むこと――である。(E589)

分析家は患者から金銭をもらうことによって転移の連鎖から逃れられる、というのは「盗まれた手紙についてのセミネール」で発言されたことであるが、ここでも同様で、分析家は患者から負債を背負い、その負債のために、「慎み」を行う。分析家が何を慎むのかといえば、「自己犠牲」を慎む。つまり、「分析家自身が働いて患者に働きかけること」を慎むのである。要するに、分析家は「ダミー」、つまり自分の代わりに大文字の他者に働いてもらうのである。

このようにして、シェーマLにおける象徴的な軸、つまり、大文字の他者から無意識の主体への語りかけが可能になる。つまり、大文字の他者が患者の無意識の主体に影響を与えることができる。これがラカンのいう象徴的転移の関係である。

人は、彼〔=分析主体のパートナー〕が患者の「右」あるいは「左」のどちらに位置しているのか、つまり、自分がカードを切るのが第四番目のプレイヤーの後なのか先なのか、「ダミー」である人間の後なのか先なのか、ということに基づいて、そこからゲーム〔において起こっていること〕を推論することによって、メタファーを追い求めているのである。(E589)

ブリッジは、四人のプレイヤーが順番にカードを出していくことによって進行していく。分析状況でもそれは同じである。だから、順番が「右回り」なのか「左回り」なのか、が重要である。
大文字の他者(ダミー)の後に、無意識の主体の順番がくるのであれば、当然、無意識の主体は大文字の他者の影響を直接に受ける。
逆の順番であれば、患者が意図せずに語った多義的な言葉を、反復することによって、その多義性を引き出し、反響させる(cf.ローマ講演)ことにより、大文字の他者が無意識の主体に影響を与えることができる。

しかし、ここにおいて確実なことは、分析家の感情はこのゲームにおいて、ある一つの場所に位置することしかできないということである――分析家の感情は、「ダミー」の場所に位置するのである。もしダミーが生ける者となったなら、このゲームは、誰がダミーを操っているのか分からなくとも進行して行くであろう、ということもまた確実である。
なぜ分析家が駆け引きtactiqueよりも戦略strategieに拘束されているのか、ということの理由がここにある。(E589)

ここでの要点は、分析家は、分析状況においては、自分の自我をなるべく参加させないようにして、大文字の他者(ダミー)の力を借りて、言い換えれば、「ダミーを操作することによって」患者の無意識の主体に影響を与える、ということである。「分析家の感情は、ダミーの場所に位置する」のである。このようにして、分析は進行していく。


最後の「駆け引きtactique」と「戦略strategie」については、それぞれ想像的関係、象徴的関係の言いかえではないかと私は推測している。