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à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

トーマス・S・サズ「転移の概念」

Thomas S. Szasz, The Concept of Transference-I. a Logical Analysis (1963). International Journal of Psycho-Analysis, 44:432-435


転移の概念I――論理的分析
Thomas S. Szasz

 転移は精神分析のなかでもっとも重大な概念の一つである.それゆえ,その意味とその正確な用法を明確にすることは特に重要である.本論における私の狙いは,この概念の主要な意味と用法の短い分析を提供することにある.この寄与はさらに大きな試みの一部分であり,その試みはこれらの活動が特異的に精神分析的であることを確認し,そして精神分析を他の形態の精神療法と区別することを目的としている.(Szasz, 1957b), (1961).
 潜在的に,転移の主題には精神分析それ自体と同じ広さがある.私たちの仕事をより扱いやすくするために,私は転移を以下のように五つの分割した見出しの下で議論する.(i)転移と現実性,(ii)分析状況の内と外における転移,(iii)転移と転移神経症,(iv)分析家の判断として,そして患者の経験としての転移,(v)転移と学習.


転移と現実性

 論理的に,転移は妄想[delusion],錯覚[illusion],幻想[phantasy]といった概念に類似している.つまり,各々の概念は「現実性」との対比によって定義されるのだ.Freudの古典的な転移のパラダイム(1914)は,これについてはまた後で触れるが,転移性恋愛という現象であった.すなわち,女性患者が男性セラピストと恋に落ちるというものである.一体この現象とは何だろうか? 患者によれば,それは分析家に恋することであり,Freud(1916-17)によれば,それは錯覚である.

 このように私たちが嫌々ながらも認識せざるを得ない新しい事実,これを私たちは転移と呼ぶ.この言葉によって,医師の人格へ感情を転移させることが意味される.なぜなら,治療における状況が,このような感情の起源となっていると説明できるとは到底思えないからだ.(p.384)

 私たちはこの区別にどこか別の場所でも遭遇した.想像的痛みと現実的痛み,そして心理学的痛みと医学的痛みである(Szasz, 1957a).これらの症例では,患者と医師のあいだの意見の衝突があり,その二つの見解のメリットを調査することによって問題は解決されず,医師の独裁的判断によって解決されることとなった.医師の見解は正しく,かつ「現実性」であると考えられる.一方,患者の見解は間違っており,「転移」であると考えられる.
 この考えは「転移とは何か?」という質問に答える形で,Nunberg(1951)によっても表明されている.Nunbergはこのように強く主張する.

転移とは投影である.「投影」という用語は,患者の原初的リビード的対象への内的かつ無意識な関係が外面化されることを意味している.転移状況において,そのようなものが治療のあいだに現れてくれば,分析家はいつでも投影や外面化の正体を暴露しようとする.(p.1)

 このテーマについての議論の全てにおいて,このような見解が無批判に繰り返されている.「人物誤認」のもっとも瑣末な例が何度も何度も持ち出される.まるで彼らが新しい何物かを暴露したかのように.Spitzの最近の論文(1956)からの抜粋で例証してみよう.

私の女性患者の症例を取り上げよう.彼女は私との一年近い分析のあと,ある夢に関連して,私がふさふさした頭の持ち主であり,またいくぶんうねった茶色の髪の持ち主であるとの意見を表明した.彼女が気の毒な現実性と直面したことで,理髪師の装飾品の所有者は彼女の父親であるということを洞察するように導くことを容易にすることができた.そして,彼女の洞察を明確化することをもう少し進めて,彼女が私に対して感じた諸感情と,彼女が元々父親にたいして感じていた感情との両方についての洞察を成し遂げることができた.(斜体を追加した,p.384)

 表面的には,この説明にはなんら間違いはない.しかし,これは,分析家の「事実」の知覚が,患者の知覚より明らかに正確であるという理由からである.これでは,分析家の見解を現実性として,患者の見解を非現実性として区別する方策(Glover, 1941)に本来備わっている複雑さと落とし穴が曖昧になってしまう.もっと取り組みがいのある状況を用意してみよう――分析家は自分を優しく共感深いと信じているが,患者は彼を傲慢で利己主義的だと考えている.このどちらが「現実性」であり,どちらが「転移」であると誰が言いうるだろうか? 分析家は患者の反応をラベル付け以前のものだと考えているわけではないことがポイントである.反対に,分析家は自分自身をラベル付けしたに違いないのだ.それゆえ,Nunberg(1951)による分析的作業と非分析的作業との区別はあまり役に立たない.

精神分析家と非精神分析家は,この現象の治療と理解において異なった立場を取る.前者は転移症状を錯覚[illusions]として扱うが,後者は転移症状をその額面どおりに,すなわち現実性として扱う.(斜体を追加した,p.4)

 しかし,転移と現実性との区別は精神分析の作業にとって有意義であることは否定しない.しかし,そうなると,現実的痛みと想像的痛みの区別は,内科医の仕事か外科医の仕事かということになってしまう.実践的実用性と認識論的明瞭さは二つの異なった事柄である.転移の概念を職人らしいやりかたで使うことによって,この転移という用語が中立的な記述ではなく,患者の行動について分析家が下した判断であるという事実をごまかすことになってはならない.


分析状況の内と外における転移

 転移と分析状況のあいだの正確な関係について,精神分析の文献で様々な議論がなされてきた.Freudは,転移を形成する傾向は人間に普遍的であると最初から強調していた.独特なのは,私たち分析家の転移の使用法である.Glover(1939)はこの見解を次のように簡潔に述べている.

転移が発展するにつれて,元々両親像に関連付けられていた諸感情が分析家へと移動され,分析状況は幼稚なものとして対処される.転移の過程はもちろん精神分析の状況に限定されるものではない.転移は,具体的対象(命あるものも無いものも)や抽象的「対象」(諸観念)のどちらに対する人間の関係すべてにおいて一部分を担っており,また有益な一部分を担っている.それゆえ,転移は,様々な個人によって表明される興味の範囲内で,あるいはある個人の様々な時に表明される興味の範囲内で,もっとも驚かされる多様性の原因となっている.(p.75)

 この見解の明瞭さと単純さにもかかわらず,多くの分析家が転移を分析に独自の現象として再定義しようとしてきた.このようにして,転移の二つの部類が作られたのだ.一つは分析的転移であり,もう一つは非分析的転移である.
 Macalpine(1950)は分析的転移を「幼児期的分析環境への退行による人物の緩徐な適応」と定義した.Waelder(1956)もまた,(分析的)転移の発展について,分析環境の特異性を強調している.

転移は患者が分析状況において,そして分析家への関係において,患者の幼年期の状況と幻想を再生し再演しようとする試みであるといえるかもしれない.それゆえ,転移は退行的過程である.転移は分析経験の条件からの帰結のなかで発展する,すなわち,分析状況と分析技法という条件からの帰結のなかで発展するのである.(斜体を追加,p.367)

 Menninger(1958)は転移を分析状況に限定している.

私は転移を,精神分析治療の退行と早期の経験から由来するこの代理への患者の諸反応のなかで,無意識のうちにセラピストに帰せられた同一性や非現実的役割として定義する.(p.81)

 この解釈およびこれに類似するものは,「操作的」になろうとする努力なのかもしれない.しかし,もしそうだとすれば,彼らは限度を超えてしまっている.転移を分析状況の用語で定義することは,微生物という小さな対象を顕微鏡下で見ながら定義することと似ている.古典的な精神分析の立場は,Freud,Fenichel,Gloverの著作によって例証されているが,うぬぼれたところのないものであり,より正確である.バクテリアの発生は研究所のなかに限られたことではないのだから,転移の発生も分析状況に制限されることはない.しかし,どちらも最もよく観察され研究されるのは,自然の生息地ではなく,特別な条件の下なのである,
 この見解は,分析状況が転移の発展に何も影響を及ぼさないと言っているのではない.もちろん分析状況は転移に影響を及ぼす.しかし,転移が役割を担うそのほか全ての状況,例えば医者―患者関係,結婚,職場環境等なども転移に影響を及ぼすのである.分析的関係はその他のすべての関係と異なるのは,二つの点においてである.一つは,分析的関係が比較的強度な転移反応を患者に起こさせることを容易にするという点であり,もう一つは,分析的関係が,転移が研究され転移から学ばれるものだと想定される状況であり,転移に基づいて行動する状況ではないということである.


転移と転移神経症

 転移と転移神経症の違いは,その度合いである.分析家たちは通常,患者が分析家に対して表明する個別の観念,情動,パターンに言及して転移について語っており,それは患者の幼年期からの類似の経験の反復であるものとしてである.そして,分析家たちはさらに広範でまとまりのある転移の一群に言及するとき,転移神経症について語っている(Hoffer, 1956) ; (Zetzel, 1956).
 この使用法の不正確さは,合法的に転移神経症について語りうる以前に必要とされる転移の量に関しての基準が欠如していることに由来している.言い換えれば,私たちはここで定量的な区別を取り扱っているのであるが,量を評価するための測定機材や測定基準を持っていないのだ.このように,転移と転移神経症の区別は気まぐれであり印象に左右されつづける.


分析家の判断として,そして患者の経験としての転移

 転移は伝統的に,患者の振る舞いのある側面に関して分析家が形成した概念として取り扱われてきた.例えば,女性患者が男性の分析家に愛を宣言することは,非現実的であり転移に起因しているものとして解釈されてきた.この使用法では,「転移」という用語は分析家の判断について言及している.
 それに加えて,「転移」という言葉は分析患者が経験するある種のものを描写するため,そしてその他の状況にある人々が経験するものを描写するためによく使われる,そして実際に使われるべきである.分析の患者は,――分析家によってそう告げられるか否かにかかわらず――自分の分析家への愛は誇張されたものだと感じるかもしれない.あるいはセラピストの健康についての患者の不安は根拠の無いものであるかもしれない.手短に言って,患者は自分にとってセラピストが「重要すぎる」ことに気がつくかもしれない.この現象は私が経験として,自己判断としての転移という言葉で意味しているものである.
 転移の経験が分析から完全になくなることはありえないが――もしなくなってしまったら,どうやって分析するのだろう?――しかし,精神分析治療の理論においては,転移の経験は不思議なことに無視されている.
 Fenichel(1941)はそのことについて言及しているが,考えを練り上げることに失敗している.

患者が分析治療の期間のあいだに情動や衝動という形式で経験するもののすべてが転移だというわけではない.もし分析がまったく進まないように見えるとしたら,私の考えでは,患者は当然怒るのであって,その怒りは幼児期からの転移である必要はない――あるいはむしろ,私たちがそのなかの転移的要素を実証することに成功していないのであろう(斜体を追加,p.95)

 患者の行動が転移であるか転移でないかについて分析家が下す判断は,患者によってその正当性を確認される.そして反対に,患者の経験と自己判断は分析家によってその正当性を確認される.これが事実である.このような相互の正当性確認の過程がどんなものを必要とするのかを手短にみてみよう.
 繰り返しになるが,私たちは,「転移」という用語が,患者の行動のいくつかの側面についての判断,つまりセラピストと患者の両方によって形作られる判断を表現しているということを前提としている.患者の行為あるいは感情は,以下のように整理される.(1)転移――幼児期の対象へと「基本的に」向けられた興味の表現が,患者の現在の生活において分析家や他の人物に偏光させられたと考えられたなら,それは転移である,(2)現実適応行動――それが向けられた人物への正しい感情や正しい反応であると考えられたなら,それは現実適応行動である.
 分析状況は二人の人物が関わるために,そしてその片方の人物が,すべての特定の出来事についての二つの判断のなかから一つを選択しなければならないために,四つの結果が可能になる.

a.分析家と患者の両方が,問題になっている行動は転移であると同意する場合.これは分析家が転移を解釈することを許し,患者は転移を経験し,転移から学ぶことを許される.

b.分析家は患者の行動を転移と考えるが,患者はそうは考えない場合.「転移性恋愛」や「色情性転移」と呼ばれる事例がその説明となる.分析家と患者のどちらが正しいかにかかわらず,このような意見の相違は転移の分析を排除してしまう.この袋小路の最大の理由には(i)分析家の判断が間違っている,(ii)患者は転移の表明を明らかにしつつ,そうしていることには気づいていない,の二つがある.

c.分析家と患者の両方が,患者の行動が現実志向的であることに同意する場合.これは特に分析的に働きかける必要はない.言うまでもなく,この場合も他のすべての場合も,分析家と患者の両方が間違っているかもしれない.

d.分析家は患者の行動を現実的だと考えるが,患者はそれが転移であると分かっている場合.これは,少なくともこの形式では,精神分析ではめったに議論されない.これが無視されていることと一致して,「転移性恋愛」のような典型的な例も存在しないために,引用して例証することができない.一般に,もっとも通常の結果は,分析家が「アクト・アウト」することである.例えば,分析家が患者と性交渉を持つかもしれない.このときじっさい患者は分析家を試しているだけである.あるいは分析家は,患者が抑うつ的すぎる,自殺企図が強すぎる,あるいは分析不可能であると信じて,分析をあきらめるかもしれない.このときもまた,患者はただ分析家の分析への努力の忍耐強さを試すために難しく「振舞っている」だけである.このような出来事は,もちろん,分析家に転移を解釈する機会をもたらすことはできない.しかし,患者に一つの自己分析を行う機会をもたらす.これは分析のあいだでも起こりうるし,事が終わった後に起こることも多々ある.

 以上のように概略を描いた分析は,境界例や分裂病と呼ばれる患者(Winnicott,1956)の治療において,「転移」という言葉の使用を明確にしてくれる.これらの症例では,分析家が転移について話すとき,患者には共有されていない分析家自らの構成に言及している.反対に,患者たちにとっては,これらの経験はいつも「現実」である.「転移」という用語の使い方は,この文脈では正しいに違いない.しかし,このような患者を「分析している」というのは正しくない.なぜなら,彼らの転移と呼ばれているものは分析することが出来ないものだからである(Szasz, 1957c).


転移と学習

 自身の関係の二つの側面を正しく区別することが,患者の役目である.つまり,ともに転移に基づいたものであり,また現実に基づいたものである二つの側面を正しく区別することである.言い換えれば,患者は象徴としての分析家,そして現実の人物としての分析家に対する自らの反応を区別するよう学習しなければならない.分析的関係は,もし適切に導かれたなら,このタイプの正しい区別をするために最適な――単一ではないが――状況を提供してくれる.
 対象関係論の用語で言えば,内的対象としての分析家と外的対象としての分析家を正しく区別することが患者の役目であるということができるだろう.内的対象は,精神の内の諸抵抗によってのみ対処することが出来る.内的対象はおとなしくさせることが出来るのだ.しかし,変化させることは出来ない.内的対象を変化させるためには,内的対象がじっさいの外的対象に及ぼす影響によって,内的対象の心理学的存在を認識することが必要である.これは現実の人間関係の文脈のなかでのみ達成されうる.分析的関係はこのように,――分析的関係は患者が他者から借りてきた人間の質を分析家に着せることを可能にするが,それを分析家が受け入れようとも拒絶しようとも,解釈してしまう――患者が自身の内的対象について学習することを助けるよう意図されているのである.この種類の精神療法的学習は,暗示や模倣といったような他の学習体験とは区別されなければならない.学習モデルに基づいた治療のみが,転移の役割を精神分析治療に適応させることが出来る.


要約

1,「転移」と「現実」という用語は価値判断であり,患者の行動に対する単なる記述ではない.
2,転移はすべての人間関係において起こる.分析的関係がその他の関係と異なるのは,(a)分析的関係が転移の発展を促進するやり方において,(b)分析的関係が転移を取り扱うやり方においてである.
3,転移と転移神経症の違いは量的なものであり,また自由裁量によるものである.つまり,転移が転移神経症となるために必要な標準量は存在しない.
4,人間の行動は,特に分析において,すぐに経験され観察されるものである.分析家が患者の行動を「転移」か「現実」かと考えるだけでなく,患者自身も考えるのである.分析家は,転移として認識したときのみ解釈できる.つまり,患者は,自分が転移として経験し,自分自身が転移だと考えたときのみ,そこから学習することが出来る.