à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

phénomènes élémentairesとヤスパース

 最近は,縁あって頂いた仕事上の必要から「要素現象(phénomènes élémentaires)」を研究している.これは,これまでラカンのセミネールでは「基礎的現象」として訳されてきた言葉であり,『精神病』のセミネールのはじめから頻出する用語であるので,よく目にする方もいるだろう.

 この用語は,ラカン自身の説明では,精神医学上の師であるクレランボーから借用したと言われているが,これは実は間違いである.実際,クレランボーの著作のなかにこの用語を見出すことはできない.要素現象について私の知る限りの最も精緻な研究者であるラカン派のSauvagnat, F. は「ラカンの要素現象の概念はクレランボーの基底現象(phénomènes basaux)から直接由来しているという見解が支持されてきたが,そうではないということが明らかである」*1と書いている.

 Cause Freudienneの23号に掲載されているWachsbergerの論文*2によれば,「要素現象(phénomènes élémentaires)」なる用語は,ヤスパースの『精神病理学総論(Allgemeine Psychopathologie)』のフランス語訳に載っている用語であるという.フランス語訳は1928年に出版されており,ラカンはおそらく原書とともにこのフランス語訳も読んでいたのであろう.

 というわけで,私もこのフランス語訳(Psychopathologie générale)を購入して,パラパラとめくりながらこの用語を探してみたところ,p.333に「phénomène élémentaire」として単数形の記載を発見することができた.そして,ヤスパース自身がこの用語,とくに「要素的(élémentaire)」という言葉に込めている意味を同書のなかに探していたところ,以下のような驚くべき記述に行き当たった.

妄想観念を単なる間違いや過大評価の観念と比較し,また,「実体的」意識状態と「あたかも」という感情とを比較し,メランコリー状態と外傷性神経症の神経質な抑うつと比較してみよう.前者には要素的な所与,無媒介[unmittelbar]の体験を見て取ることができる.一方,後者では熟考と示唆から発生し,発展し,立脚した何ものかを見てとることができる.…私たちは真性幻覚と幻想的表象のあいだのこの対比を見出す.…要素的な事象は心理学的に影響されることなく,思考によって伝達されるものが影響をうけるのである.要素的な事象はまず第一に内容を持たず,後続のものを横領する.反対に,思考されたものは始まりの点から内容を持っている.このような指摘にも関わらず,要素的な事象と思考によって伝達されるもののあいだの差異は混乱し,曖昧なものとなりやすい.この両者の差異はいくつかの要素を含んでいる.すなわち,真性のものと,模倣されたに過ぎない真性でないものの対立である.この意味において,ヒステリーの心的生活は全体的に派生し伝達されたものである.発生において了解不能なもの,想像不可能な第一の存在は,了解可能なやり方で発展し成長したものと対立している.
「要素的[élémentaire]」という概念は曖昧で不完全なものであるが,それでもこの概念は,根源的な力をもって精神へと侵入するものを簡潔に表現するために使われる.私たちはこのようにこの概念を特徴付ける.
(Jaspers, K. Psychopathologie générale, p.142-143. 筆者訳)
http://www.abebooks.co.uk/9782845750227/PSYCHOPATHOLOGIE-GENERALE-JASPERS-KARL-2845750226/plp

 私はラカンの要素現象の本質を,加藤が「現実界象徴界の一次性の結合」*3と呼ぶ「象徴的なものの現実界への侵入(S→R)」に見て取り,いわゆる排除されたものの回帰の論理と並行的なものとして位置づけようと思っている.そのような観点から上記のヤスパースの記載を読むなら,ここには精神病性の現象と非精神病性の現象の区別があり,精神病性の現象を「力をもって精神へと侵入するもの」として位置づけている点で,ラカンの精神病論に大きな影響を与えたものであると言えるだろう.
 「要素的な事象はまず第一に内容を持たず,後続のものを横領する」という記述については,「精神自動症の諸現象は内容的に中立で,後に続く反応を惹起する」と読み替えればクレランボーの精神自動症学説と並行的に読むこともできるだろう.

 前述したように,『精神病理学総論』のフランス語訳は1928年に出版されており,原書の第3版をもとにしている.
 岩波書店版の『精神病理学総論』第5版では上巻p.202に,原書第9版ではp.110に上記に訳出した「要素的[elementare]」なる語の説明が登場することを確認した.ただし,邦訳は実体的意識性[leibhaftige Bewusstheit]を「実体的覚性」と訳しているので注意.ちなみにこの箇所でヤスパースはこのような体験を「要素的体験[elementare Erfahrungen]」と呼んでいる.
 フロイト郵便さんのblogで,要素現象(elementaren Phänomens)というそのものズバリの用語が,Jaspersの原書第1版と9版(+邦訳)にあることを教えていただきました.このGoogle Booksのページの検索で,Jaspersがelementarという形容詞を使用している箇所がわかりますので便利です.

 ちなみに,ラカンが要素現象の用語を初めて用いるのは,学位論文である『人格との関係から見たパラノイア精神病』においてであるが,ここではとりわけ妄想的解釈(記述現象学派でいう妄想知覚や妄想着想)が要素現象として扱われ,妄想の核となるものとして理解されている.
 ラカンが要素現象を次に主題化するのは『精神病』のセミネールであり,こちらでは妄想そのものに加えて,幻聴や分裂病性の幻覚に要素現象を見ているようである.


 なお,ラカンの要素現象についてはどこかで発表する予定であるので,概念の詳細についてはそちらにご期待を.


Allgemeine Psychopathologie Ein Leitfaden Fur Studierende, Arzte Und Psychologen (1913)
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*1:Sauvagnat, F.:On the specificity of elementary phenomena. Psychoanalytical Notebook 4:95-110, 2000

*2:Wachsberger, H.: Du phénomène élémentaire à l’expérience énigmatique.La Cause freudienne, 23 :14-18, 1993

*3:加藤敏:幻覚の精神病理.構造論的精神病理学,p.36-73,弘文堂,1995