à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

『アンコール』第四講試訳

読書会@駒場のための試訳を公開します。『アンコール』の第四講(Seuil版の第三講)前半部分です。

Encore, Leçon IV (前半)
9 janvier 1973
Editions de l'Association Lacanienne Internationale.



 それでは,皆さんに新年の祝辞を述べます.まだ定刻ではありませんが.新年の誓いについてはコメントしないでおきます.誓いは結局のところ,皆さんは月並みなものと考えるでしょうから.それでは,本日のために留保しておいた事柄に非常にゆっくりと立ち入っていきましょう.
 (聴衆――よく聞こえません! ラカン――どうしたのですか? どこで聞こえないのですか?)
 ……私が本日のために留保しておいた事柄,それは私にとって危険であり,皆さんお分かりのように(あるいはおそらく分からないのかもしれませんが),いずれにせよ,始める以前に,無謀なことであると私には思われるのです.
 このように,私が中心に据えようと皆さんに申し上げた事柄を表題にするのは,要するに分析的ディスクールであるような何物かがより[encore]問題になっているからであり,このディスクールにおいて私たちがエクリ[l'ecrit]の機能を位置づけるやり方が問題となっているからなのです.
 当然,その中には枝葉末節があります.すなわちある日,私が出版した選集のページに書いたように(その選集を私はゴミ箱出版[poubellication]と呼んでいます),私はその選集のカバーに書く語として,「エクリ[Écrits]」以上に相応しい語を見つけられませんでした.
 このエクリ[Écrits]は,例えば簡単には読めないということがよく知られています.皆さんに少々自伝的な告白をしておきますと,エクリ[Écrits]を書いたとき,それはまさに私が考えていたときなのです.私は,おそらくそれが読むためのものではないとまで考えていたのです.

 いずれにせよ,良い出だしです.もちろん,文字[la lettre]は読まれるものではあるでしょう.文字は語の延長線上において作られたものにさえ思えます.それは読まれますし,文字通りに[littéralement]読まれるのです.しかしまさに,「文字を読むこと[lire une lettre]」と「読むこと[lire]」はおそらくまったく同じことではありません.イマージュをなすようなやり方でそれを導入するために,すぐに分析的ディスクールからはじめたくはありません.分析的ディスクールにおいて問題となっていることは読まれるものであり,それに他ならないことは明らかです.皆さんが主体に話すように促しているものの彼岸にある読まれるもの(前回,通りがかりに強調したと思うのですが)が問題となっているのであって,それはすべてを言うこと[tout dire]ではなく,どんなことでも言うこと[dire n'importe quoi]なのです.そして,私はこのもの[la chose]をより遠くまで推し進めます.すなわち,ためらうことなく,というのはそれが〔自由連想の〕規則なのですから,私が今年導入した分析的ディスクールに本質的であるような次元を言うことをためらわない,愚かなこと[bêtises]を言うことをためらわないということです.
 必然的に,それは私たちがこの〔bêtiseの〕次元を発展させることを前提としており,それは「言うこと[le dire]」なしになされえません.
 
 愚かなことの次元とは何でしょうか? 愚かなこと,少なくとも人びとが発言しうる愚かなこと,それは深まることのない愚かなことです.ディスクール,つまり日常のディスクールにおいて,愚かなことは挫折してしまうのです.もちろんこれは,いうなれば,私が身震いなしにはなしえなかったことをなすとき,言い換えれば私が〔過去に〕発言したときに立ち戻るときに確認しているものです.自らの発言に立ち戻ることで,私はつねに厳かに恐れています.恐れ,それはまさに,愚かなことを言ってしまった恐れです.言い換えれば,現在では私が進歩しているために,もはや維持できないと考えていることがらのことです.この告げられたセミネールを書き留めてくれる人のおかげで,エコール・ノルマルでの最初の年度のセミネールがまもなく出版となりますが,そのおかげで,私はある感覚(皆さんに語ったように,私はその危険を避けるのですから,見合わせられていたものです)を持つことができるのですが,それは私が真価を問われるときに出会う感覚であり,その年度では例えば,私は進歩したが愚かではなかった,という感覚です.私には理にかなっていると思える他のものを進展させることを私に許可しないほどには,少なくとも愚かではなかったという感覚です.
 それでもなお,この「読まれうるもの[se relire]」が一つの次元を代表しているということが残ります.一つの次元,それは分析的ディスクールの観点から,読まれるもの[ce qui se lit]の機能であるものにおいて本来位置づけられるものです.
 その点について,分析的ディスクールは一つの特権を持っておりますが,それは困難に思われます.そして,「私の教育について=私が教えるものから[de ce que j’enseigne]」私を開始させたもののなかで,私が開始するのはここからなのです.「私が教えるものから[de ce que j’enseigne]」,私が自ら表現したように,おそらく言明[énoncer]に似るものを完全に言うことではありません.言い換えるなら,ここで「私[je]」を強調することではなく,私が発言することを強調するわけではありません.そうではなくて,おそらく,「から[de]」を強調することであり,すなわちそれが由来する場所,私がその結果であるような教育のことなのです.
 それ以来,私は正確な分節化のもとに基礎付けたものを強調してきました.それはまさにかかれるものであり,四つの文字と二つの棒と何本かの線,とりわけ五本で黒板に書かれるものであり,この線がそれぞれの文字を*1結ぶのです.四つの文字があるために,六つの棒が必要となるはずなのですが,この棒の一つはそこに欠如しています*2
 このように書かれるもの[ce qui s'ecrit]*3,そして私が「分析的ディスクール」と呼ぶもの,これは注意[rappel],最初の注意,第一の注意から由来しています.すなわち,言い換えるなら分析的ディスクールはパロールとして機能するもののみによって設立されるこの新たな関係の様態であって,一つの領野として定義することのできる何物かの中にあるものです.「機能と領野」,と私は書きました.「パロールとランガージュの機能と領野」です.そして,「精神分析における」と締めくくりました.ある役割を果たす[faire office]他のいくつかのディスクールとは同質ではないような,ある特定のディスクールの独創性を生み出し指し示すもの,ただまさにこの事実のみによって,私たちは正式なディスクール[discours officiels]であるものを区別しています.どれが分析的ディスクールの役目[office]であるのかを識別することが問題となっているのであり,また,正式のもの[officiel]ではないにせよ,少なくとも司祭的[officiante]ではあるような,分析的ディスクールを果たすことが問題となっているのです.
 この〔分析的〕ディスクールの機能と役目において,識別すること[discerner]*4が問題になります.ランガージュに属するものに関していえば,この〔分析的〕ディスクールはエクリ[l'ecrit]の非常に特別である状況を明らかにすることができます.
 これは,私に言わせれば,現在話題になっている事柄なのです.それでもなお,私がすぐさま入りたいと思う本題は,この今日性の点なのです.とりわけ,分析的ディスクールにおける*5機能が,もし特異的なものであるとすれば,どのようなものであるのかを明確にすることが問題なのです.
 
 私がこのディスクールの機能を説明することを可能にするために,何個かの文字を用いて作り,使用法を進展させたもののことを,皆さんご存知のことでしょう.とりわけ特に,黒板に書いてみましょう.小文字のa,これを私は対象と呼んでいますが,それでもやはりこれは文字以外の何物でもありません.大文字のA,私はこれを命題に関して書かれた公式の形をとるもののなかで機能させるのですが,皆さんがはっきり言明されるように,この大文字のAは論理-数学的,あるいは数学-論理的な産物なのです.この大文字のAは何でもいいわけではありません.つまり,まず何よりも私が示そうとしているのは場[lieu],場所[place]なのです.私はこのように言いました.すなわち,他者の場所,文字によって示されるような他者の場所です.
 どのようにして文字が場を示すために役立つのでしょうか? 文字が場を示すというこは拡張された使用法であることは明らかです.しかし,例えば皆さんが,ニコラ・ブルバキと名づけられた架空の著者の指導の下に遂に『集合の理論』という表題で決定版としてまとめられたものの最初のページを開くならば,そこに皆さんは論理記号がいくつか含まれていることに気づくことでしょう.これらの論理記号は,特にそのうちの一つは「場所[place]」の機能そのものを正確に示しており,この論理記号は小さな四角(□)*6によって描かれます.私が大他者の場は大文字のAによって象徴化されると言ったときには,厳密に言えば,文字を厳密に使用していたとはいえません.
 〔当時厳密に文字を使用していなかったこととは〕反対に,私は大他者AをSで二重化し徴づけたのですが,このSはここで「シニフィアン」,つまり斜線を引かれる限りでの大文字のAのシニフィアン(S(A/))であると言えます.これによって,私は,エクリ[l'ecrit]において,文字において,この大文字のAの場に一つの次元を付け加える何物かを分節化しました.つまり,場としては,大文字のAは維持することができないということを非常に正確に示したのです.この場,大他者によって示される場には一つの欠陥[faille],穴[trou],喪失の場があり,そしてこれは対象aの水準からは,この喪失に関して機能するようやってくるものであり,ランガージュの機能に非常に本質的な何物かなのです.
 ――私はΦ,この記号もまた使いましたが,私は文字として機能するもの,新しい次元そのものを導入するものについて話しているのです.私はこの記号を,単にシニフィアン的な機能を区別するために使っています.このシニフィアン的な機能は,分析理論のなかでファルスという用語にまで発展していますが,私はこのΦを原初の何物かを構成するものとして,エクリそれ自体によって今日ではその輪郭を正確なものとされる何物かを構成するものとして申し立てました.この文字はその機能が他の文字とは異なるものとして区別されるものであり,これら三つの文字〔a,S(A/),Φ〕*7が異なるのはまさにそのためなのです.斜線を引かれたAのSと,小文字のaについて,まず初めに私が発言したことを皆さんはすでに感じ取っておられるように,これら三つの文字は同じ機能を持ってはいません.この文字は異なった機能のものですが,それでもなお一つの文字でありつづけているのです.
 
 これらの文字がシニフィアンの機能に導入される関係がまさにここで示されます.私たちが分析的ディスクールを改めて取り上げ,それを進展させることができるものを判別するために,今日問題となっていることはまさにこれなのです.
 提案いたします……私は,次のように提案いたします.エクリは,シニフィアンと呼ばれているものと同じ領域を(よき有用性のあるこの種類の表現を使わせていただけるのなら,同じ種類=タバコ[même tabac]を)まったく持っていないと皆さんに考えていただきたいのです.
 シニフィアン,それは言語学によって導入された一つの次元です.言い換えるならば,パロールが産生される領野[champ]において自明ではないものによって導入されたものです.ディスクールがそれ*8を支えますが,それは科学的ディスクールです.*9一つの乖離[dissociation],分割[division]の秩序が言語学によって*10導入されますが,これは自明であるように見えるものを区別することのおかげなのです.自明であるように見えるものとは,私たちが語るとき,それが意味するもののことであり,それはシニフィエを含んでいるのです.しかも,それはシニフィカシオンの機能を自ら支えるのみなのです.
 シニフィアンの次元を導入し,区別すること.これはまさにシニフィアンそれ自体が位置づけられるときにのみ(つまり非常に正確に言えば,皆さんが感覚で聞くもの,いうなれば文字通り聴覚的な意味で聞くものであり,ここやあるいはどこかで私が存在し,その場所から私が皆さんに語るときにのみ),最初の行為によって,皆さんが聞くものが,それが意味するものといかなる関係も持たないものとして位置づけられるときにのみ強調される何物かです.ディスクール,科学的ディスクールと呼ばれるものによって設立される行為はこれです.これは自明なものではありません.
 プラトンの手になるクラチュロス*11の対話がありますが,これは悪い著者ではありません.皆さんがこの対話から出てくるものに見るもの,それはほとんど自明なものではありません.このディスクールすべてがまさにこの〔シニフィアンシニフィエの〕関係,つまり表現されたもの[s'énonce]を,シニフィアンに対して作り出す関係を作るための努力の産物であり,また〔シニフィアンシニフィエに〕何らかの関係があるはずだとする努力の産物なのです.このディスクールすべてが,シニフィアンそれ自体が何かを言わんとしていると想定するための試みなのです(ここで私たちは絶望すると言うことができるでしょう).その上,この絶望的な試みは失敗によって徴づけられています.なぜならば,他のディスクール(原初的な次元を包むディスクール,つまり科学的ディスクール)は,この〔他の〕ディスクールの創設それ自体に至り生産することで(そのやり方の歴史を探査することはいたしません),シニフィアン*12いかなる関係を持つことも生じさせないのです.
 ここで使われている用語はいつも横滑りさせられています〔捉えどころのないものです〕.〔プラトンと〕同様にまた適正な言語学者であったフェルディナン・ド・ソシュールは恣意性[arbitraire]という用語で語っています! しかしこれは横滑りです.他のディスクールにおける横滑り,つまり命令[décret]のディスクールです.あるいはより良く言うならばこうなります.つまり,このディスクールをその名で呼ぶならば,「主人のディスクール」となります.「恣意性」はふさわしい用語ではありませんが,一方では私たちはディスクールを発展させるときに,もしその〔ソシュールと〕同じ領野にとどまろうと望むのならば,そして永久的にぶり返し[rechute]〔失敗の繰り返し〕の効果を生産し続けないように望むのならば,つねに注意しなければなりません.言うなれば,他のディスクールにおいて,私たちはそれぞれのディスクールに一貫性を与えるように試みなければならないのであって,ディスクールの一貫性を維持するために,自覚した上でそのディスクールの場所を離れなければならないのです. *13
 「シニフィアンは恣意的である」と言うことは,単に「シニフィアンはそのシニフィエの効果とは関係を持たない」と言うことと同じ射程を持っていません.
 そのような理由で,ディスクールであるような機能として進展することが問題となっている場合では常に,かつてないほど,少なくとも毎回,常に,その点で私たちが他の参照に横滑りすることに留意しなければなりません.*14この場合の参照という語は,ディスクールが紐帯として構成するもの以外に位置づけられません.シニフィアンそれ自体が指示する[se réfère]ものは,ディスクールに対してでなければ,つまりランガージュの作用の一様態,ランガージュの紐帯としての使用に対してでなければ,存在しません.
 まだ[Encore],この機会に,紐帯が何を意味するのかをはっきりさせる必要があります.
 紐帯,もちろん,私たちはすぐさまこれに取り掛からなければなりません.これは語る人々のあいだの紐帯です――そして,皆さんは私たちが赴くところをすぐにご覧になるでしょうが,つまり,語る人々,これはもちろん,何でもいいというわけではなく,生きていると規定するよう私たちが習慣付けられているような存在者である語る人々のことであり,そして,語る人々からこの生の次元を締め出すことは非常に難しいかもしれません.私たちがすぐに気づかないかぎり――はっきり理解するということです――,語る人々の領野のなかで,生の機能に入り込ませることは,同時に死の機能に入り込ませることなしには非常に難しいことであり,その結果ひとつの曖昧さが帰結し,まったくラディカルであるシニフィアン,生あるいは死の機能であるものとなります.
 次のことはまったく明らかです.すなわち,生だけを定義することを可能にするような何物か,つまり身体の再生産のことですが,この再生産の機能それ自体は特に生と呼ばれることも死と呼ばれることもできません.なぜなら,この再生産は性化される限りで,二つのものを内包するからです.つまり,生と死です.
 しかし今までのところ,単に分析的ディスクールの道筋や流れのなかにすでにあった何ものかのなかを進んでいくだけで,私たちはこの跳躍をなしました.この横滑りは「世界観[la conception du monde]」と呼ばれており,それでもこれは私たちにとっては最も滑稽なものとして考えられるものです.すなわち,私たちはこの世界観という用語がそれ自体他のディスクールを前提としており,哲学のディスクールから始まるものであり,哲学的ディスクールから出てしまうと,世界の実在ほど不確実なものはないということになるからです.例えば,分析的ディスクールによって進行するもののうちに,このような世界観に匹敵する何物かが含まれているとすれば苦笑をさそうこともしばしばでしょう.
 特定の点まで,さらに続けます.このような〔世界観という〕用語が,例えばマルクス主義と呼ばれるものを指示するために差し出されていることを見ることは苦笑に値します.マルクス主義が世界観として見なされうるとは私には思えません(それも,たとえどんな考察をもってしても,最もいい加減な考察をもってしても,です).マルクスの言ったことの言表[l’énoncé de ce que dit Marx]は,全く際立って〔世界観とは〕反対のものであり,マルクス主義的世界観と無理やり混同されるものではありません.正しくいうならば,それは〔世界観とは〕他のものであって,私がより明白に「福音書[évangile]」と呼ぼうとするものなのです.すなわち,「お告げ[annonce]」です.それは,歴史と呼ばれる何ものかがディスクールの新たな次元を創始するお告げであり,他の言葉で言えばディスクールの機能それ自体を完全に転覆する可能性のお告げです.哲学的ディスクールの機能について適切に語るならば,世界観はそれに立脚するものなのだと私は考えています.


*1:Seuil版での追加:「二つづつ」

*2:四つのディスクールの図式で四項を上下左右斜めの線で結んでいるものがあるが,下段の左右方向は線で結ばれていないということ.

*3:Seuil版との異動:écriture

*4:Assocaition DVD版との異動:d'y cerner

*5:Seuil版での追加:「エクリの」

*6:ブルバキ集合論では,記号 □ は束縛変数を表す無名文字と解釈され,τ記号と「鎖」で結びつけた関連により,「存在する対象一般」を表す「もの」を表現するのに使用される.

*7:a,S(A/),ΦはSeuil版第八章でそれぞれI,S,Rと関連付けられる.

*8:異動:le(Assocaition版)…signifiant/champ, la(Seuil版)…linguistique/parole/dimensionをそれぞれ指しうるか.

*9:Seuil版での追加:「シニフィアンシニフィエの区別を基礎付ける」

*10:Seuil版での追加:「パロールに」

*11:cf.プラトン『クラチュロス』:命名を「物の本性」とするクラティロスと,「慣習」とするヘルモゲネスとの対立.ソシュールは「慣習」派と言えるか.

*12:Seuil版での追加:「シニフィエと」

*13:Seuil版での追加:「ディスクールであるものが問題となっているだけに,このような警戒心がいっそう必要なのです」

*14:Seuil版との異動:「なぜなら前者(「シニフィアンは恣意的である」)は他の参照に滑り込んでしまうからです」