à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

ダムレット/ピション『語から思考へ』紹介

某所で貴重な本をお借りすることができたので、紹介します。



f:id:lacanian:20070606002203j:image:small:right
ラカンが引用している文献で、ややマニアックなものとしてジャック・ダムレットとエドゥアール・ピションの『語から思考へ[Des mot a la pensee]』というものがある。ピションは国家主義的な傾向を持つ文法家かつ精神分析家であり、この著作は文法学の大著である。ラカンが具体的にどこで引用しているかというと、S3-Jb111-112/Fr253, S3-Jb195-196/Fr307である。

ある評判の高い文法家が注目すべき著作を著しましたが、そこにはたったひとつだけ間違いがあります。それはその惜しむべき副題「語から思考へ[De mots a la pensee]」です。こういう言い方がまずいものだることは、皆さんにはもうお解りいただけると思います。
(Lacan, S3-Jb111-112/Fr253)

ここに揚げた二つのフレーズはダムレットとピションの文法書から私が拾い出したものです。この文法書はそのまとめ方や細部に誤りがないとは言えないにしても、実に巧みに分類されたその資料の厖大さだけでも、ともかく注目すべき有益な書です。
(Lacan, S3-Jb195-196/Fr307)

ここに引用したようなラカンの軽い流し方とは裏腹に、この『語から思考へ[Des mot a la pensee]』という著作は、実は、ラカンの理論形成にとって決定的な意味を持っている。
なぜなら、この著作こそがラカンの「排除[forclusion]」と「虚辞のne」という重大な概念の出所だからである。

この二つのラカンの概念、とくに「排除」の系譜学は、ルディネスコの『Histoire de la psychanalyse en France』と、その日本における初めての紹介となった赤間啓之氏の『ユートピアのラカン』に詳しい。*1

特に「排除」の概念については、ダムレット/ピションの文法書にそのものスバリの箇所がある。以下に引用しよう。

f:id:lacanian:20070606002306j:image

言語活動[langage]とはそのイマージュを解読できる者にとっては無意識の深みを映しだす素晴らしい鏡だ。後悔する事とは、過ぎ去ったこと、よって取り返しのつかないことがかつてけっして存在したことはなかったとする欲望である。フランス語は、排除的なもの[le forclusif]により、この視野暗点化[scotomisation]の欲望を表現する。このように正常な現象を言い表すにしても、その視野暗点化は、ラフォルグ氏とわれわれのうちのひとり[ピション]が心理病理学において叙述したように、病的誇張なのである。(p.140)

このダムレット/ピションの文章はおそろしく「ラカン的」である。
第一文は、その想像的=鏡像的な含みをすべて除外して「言語活動とはそのシニフィアン性を解読できる者にとっては無意識の深みを映しだす素晴らしいものだ」と書き換えるなら、まさしくラカンのテーゼ*2になりうる。
第二文は、在不在を考慮すること自体の拒否、というラカン的な「排除[forclusion]」と等しい。
さらに、第三、四文にはフロイト=ラカンのいう倒錯のメカニズムとしての「否認[Verleugnung]」とつながる「視野暗点化[scotomisation]」の考えが示されている。

一歩間違えば(?)、第一文をやや強引に「抑圧」についての記述ととらえ、このわずかな文章で「抑圧」「排除」「否認」という否定の3モードが表現されている……とまで大風呂敷を広げてしまいかねない文章である。

というのも、この文章がおかれている章の表題は、なんと「否定[La negation]」。そう、あのVerneinungなのである。


ひとまず、冒頭の要約だけ少し紹介。

第7章 否定
《要約》
114.フランス語の否定[negation]は単純な文法特性素[taxieme]ではない[ne pas]。
115.不調和的なもの[La discordantiel]。
116.排除的なもの[Le forclusif]。
117.否定を形成するための不調和的なものと排除的なものの協調[Alliance]。
118.不調和的なものと排除的なものの相互独立性[Independance reciproque]。
119.フランス語における否定の真の特性。
(p.129)



ユートピアのラカン

ユートピアのラカン



*1:簡単にまとめておくと、セミネール2『自我』からセミネール3『精神病』への移行において、「シニフィアンのハイパー・インフレーション」すなわち「シニフィアン」という言葉が突如として多用されるようになった。その理由は何か。「シニフィアンの導入」は、ラカン自身はソシュールから借りてきたとしている(例えば、E497)。しかし、これは実はダムレット/ピションから「排除[forclusion]」という概念を借りてくるための戦略であったのではないだろうか。ラカンの精神病論におけるキー・タームとなる「排除[forclusion]」は、実はダムレット/ピションの文法書から借りてきたものであるのに、それを隠しておくために、代わりに「シニフィアン」の多用が起こったのではないか、ということ。

*2:「無意識はランガージュのように構造化されている」等など