à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

シュレーバーの金銭問題

 ダニエル・パウルシュレーバー(以下「シュレーバー」)についての伝記的情報は、ニーダーランド(1959a,1959b,1963他)、イスラエルス(1989)、ロセイン(1992)らによる実証的資料に基づいた研究や、バウマイヤー(1956)によるシュレーバーのカルテの発見によって、フロイトの時代からは考えられないほど豊富になっている。

 これらの研究を読んでいて、私がおもわず注目してしまうのは、シュレーバーの金銭問題である。

 たとえば、1883年の時点でシュレーバーの年収は6600マルクあり、これは当時のケムニッツ地方の人口の上位1%に入る収入であったという。また、ドレースデン控訴院民事部部長の職を辞した後のシュレーバーの年金は年間7000マルクであったことも分かっている。破格の年金である。

 しかし、シュレーバーが高給取りだったとか、年金の高額受給者であったとか、そういうことが重要なわけではない。

 第二回目の発病後、シュレーバーライプツィヒ大学付属病院精神科に1893年11月9日から1894年6月14日まで入院する。その後、リンデンホーフ療養所に転院(1894年6月14日~6月29日、主治医ピーアゾン)となったが、わずか二週間で「太陽の塔」を意味する名を持つゾンネンシュタインに転院し、そこで8年半ものあいだ入院生活を送ることとなった(1894年6月29日~1902年12月20日、主治医ヴェーバー)。このライプツィヒ大学付属病院からゾンネンシュタインへ移動するあいだに、ある決定的な出来事が起こった。

 シュレーバーの入院中、彼の妻ザビーネは、月に一度、ある証明書にシュレーバーのサインをもらっていた。この証明書はシュレーバーが当時在籍していた控訴院に提出するもので、これによって休職中のシュレーバーの収入が確保され、シュレーバー家は家計を維持することができていたのである(今でいう、傷病手当金の書類のようなものだ)。
 
 ところが1894年6月中旬、まだライプツィヒ大学付属病院に入院していた頃、シュレーバーは突然この証明書にサインすることを拒否し始める。理由は不明である。ザビーネは仕方なく証明書に自分でサインして控訴院に提出するが、それでは証明書が受理されず、シュレーバー家は無収入となってしまった。ザビーネは主治医フレックシヒに相談し、シュレーバーが重大な社会的責任を果たせなくなってしまったことを告げられる。1894年6月15日には、シュレーバーの職場の上司であったウェルナーによって、シュレーバーが「財産を管理することについての一時的な無能力状態」にするアドバイスがザビーネになされる。同年11月にはこの処理は完了している。1896年1月1日には、主治医ヴェーバーの報告書に基づいて、シュレーバーは退職する。こうして、前述の年金をもらうようになったのである(Israels, 1989, pp.156, 177)

 その後、シュレーバーはどのようにお金を使っていたのだろうか。1901年に遠足の費用やちょっとした買い物のために月々50マルクの小遣いをもらうようになるまで、シュレーバーは財産の管理に一切関わらせてもらえていない(S.505)。

 ゾンネンシュタインでの入院中、1895年3月には妻からピアノを贈られ、喜んで演奏するようになる。しかし、興奮してくると彼はピアノを叩いてしまうのであった。シュレーバーは以下のように説明している。

チェスとピアノ演奏を施設で再開してから後の五年ほどの期間にわたって、その二つが私の主要な活動となったのである。とりわけピアノ演奏は、私にとって計り知れないほどの意義をもつようになった(……)ピアノ演奏の際に私の蒙った妨害は筆舌に尽くし難い。指を麻痺させること、私が正しい音符を見出さないように目をあらぬ方向へと向けること、指を間違った鍵盤へそらすこと、私の指の筋肉を尚早に運動させてテンポを加速すること、これらは日常的な現象であった(……)ピアノそのものについても、その弦が奇蹟によってぷっつり切断されるということが頻々と起こった(……)1897年には切れた弦の代金が86マルクを下らなかったのである。(S.169-170)

 シュレーバーの出費のひとつは、ピアノの弦の代金であったわけだ。

 1899年11月、シュレーバーは被後見人を撤回するという考えに取り付かれはじめ、1900年2月から9月にかけて『ある神経病者の回想録』を執筆する。同年3月11日、ドイツ民法の施行下で、シュレーバーは改めてドレースデン区裁判所から禁治産の決定を受け取る。シュレーバーはこの決定を不服として、1900年3月13日に禁治産取り消しの訴えを起こし、一度は棄却されるも、1902年7月14日には勝訴し、禁治産宣告が取り消され、同年12月にはゾンネンシュタインを退院している。
 
 1903年、シュレーバーは『ある神経病者の回想録』を出版する。この著作の副題となっている論文「精神病と見なされる人物の医療施設での拘禁は、当人がそれを拒否するはっきりとした意志を表明している場合、どういった前提条件があれば許されるか」に示されているように、シュレーバーは自らの精神病院での扱い(拘禁)を不当なものと考え、抗議している。

本論の筆者自身も、(……)無害な精神病者に入る。筆者自身については宗教的な妄想観念にとらえられているということが言われているのであるが、筆者は、この妄想観念と呼ばれるもののなかに客観的な真理が含まれていると考えている。ただ他の人々にはそれが真理であることが認識しがたいというにすぎない。筆者としては、本論を著すことで、論理的思考、特に法律的思考の明晰さが、妄想観念と呼ばれるものによってもまったく曇ることがないという場合が現実に存在することをも証明しえたものと思っている。つまり筆者の場合、(……)理性にかなった行動をとるための自由な意思決定が病的な精神障害によって不可能となっていることもないし、また(……)自己の事務を処理する能力が欠如しているという事態も見られないのである。(S.368)

 シュレーバーは自らが自傷他害の恐れのある「危険な精神病者」ではなく、拘禁の必要も入院の必要もなく、禁治産者として主体的な決定の権利を剥奪されるべき人間でもないことを強く主張している。シュレーバーが自らを「精神病者」ではなく「神経病者」であると訴えているのは、そのためである(S.405)。

 『ある神経病者の回想録』として知られる著作は、シュレーバーによる復権要求の書である。そして、ある意味では、それは彼の金銭問題の解決をめぐって書かれたものであったといっても間違いではないのである。


シュレーバー回想録―ある神経病者の手記 (平凡社ライブラリー)
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In Defense of Schreber: Soul Murder and Psychiatry
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