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à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

夏の終わりと「排除」

 最近、だいぶ涼しくなった。とくに朝晩は気温が低く、もう夏も終わりという感じである。
 ところで、秋になると「夏が過ぎ去った」と言う。この表現は流行歌のなかでは恋の終わりを表現したりもする。秋は――その定義のうちに、というと大げさだが――「夏の不在」をふくむ。しかし、夏のことを「春が過ぎ去った」とは言わない。夏には「春の不在」はふくまれていないわけだ。実に不思議である。あるいは、家の外からラジオ体操の音楽の音が聞こえてくると「ああ、夏だな」と感じる。ビールがとびきり美味しい季節になっても「夏だな」と思う。しかし、「何かがないこと(存在しないこと)」で夏を感じることはほとんどない。夏というのは、充実した季節なのであって、「否定」つまり「何かが欠けていること」を含んではいない。そういう風に言えるのではないだろうか。

 なぜそんな話をしているかというと、ラカンが『精神病』のセミネール第10講「原初的シニフィアンの拒絶」のなかで述べていた「昼」というシニフィアンの話を考えていたのである。ラカンは次のように述べている。

人間においては誕生後の最初の数ヶ月間、眠りのリズムが前景を占めているということを思い出してみるならば、次のように考えざるを得ないことになります。つまり、人間がある時点で昼から距離をもつ--最初の象徴的無化とはそういうことだと私は考えているのですが--のは、経験的理解によってではないということです。…人間存在が昼を昼として定めるのです。そしてそれによって、昼は昼の現前へと至るのです。その時背景となるのは具体的な夜ではなく、夜がそこに住まう昼の不在という背景です。…昼と夜は、もとより一方が他方を含む共示なのです。(『精神病』(上)pp.248-9)

 ラカンは、「昼」というものが象徴的なものになるためには、「昼の不在」としての「夜」が必要だという。つまり、昼そのものというのは常に充実した存在で、その不在というものが考えられないのである。これは先に述べた「夏」が非常に充実した(欠如のない)存在である、という話によく似ていないだろうか。
 ラカンのいう「象徴的なもの」とは、何かに関して、その何かが現前していることと不在であることの両方の可能性が成立していることを指している。具体的にいえば、現前しかしていなかった「昼」というシニフィアンをいったん無化し、「昼」というシニフィアンについて在/不在を(昼があること/昼がないこと=夜、の区別を)問いうるようになることが「象徴的」な水準に達するということなのである。


 実に興味深いのは先の引用部につづく部分である。

 ラカンは「昼」の話の次に、原初的シニフィアンの「排除(Verwerfung/forclusion)」の話を始める。例の「抑圧という意味でも知ろうとしなかった」の話である。

私が「排除」という時には、何のことを言っているのでしょう。それ〔排除〕は、原初的なシニフィアンが外部の闇へと拒絶されてしまうこと(rejet d'un signifiant primordial dans des ténèbres extérieures)です。その時からこのシニフィアンは、シニフィアンという水準から消えてしまうことになります。これが、私がパラノイアの基礎に想定している根本的メカニズムです。(『精神病』(上)251-2頁/p.171)

 この講義を読むとき、「昼」の話と「排除」の話の繋がりは、今ひとつ不明瞭であった。2つの話がどう関係しているのかよく分からないのである。しかし、アソシアシオン版のセミネールを読むと実に明瞭な話であることがわかった。

 Seuil版で「原初的シニフィアンの拒絶(rejet d'un signifiant primordial)」とされている箇所は、アソシアシオン版ではすべて「原初的シニフィアン一部分の拒絶(rejet d'une partie du signifiant primordial)」になっているのである。

 つまりラカンはこう言いたいのだ。シニフィアンは、つねに象徴的であるわけではない*1。「昼」というシニフィアンは、「昼の現前=昼」と「昼の不在=夜」という2分節から構成されることによってはじめて象徴的なものとしての地位を得る。それに対して、精神病を構造論的に規定する「排除」とは、その2分節のうちの”片方”が拒絶されることなのだ、と。そのときシニフィアンは、シニフィアンでありながら象徴的なものではなくなる。つまり象徴界に属さなくなる。

 ラカンは『対象関係』のなかでも、よく似た話をしている。図書館のなかで一冊の本がなくなったとき、それは純粋に存在しないというわけではなく「あるべき場所に欠けている」のであって、「ない」ものでありながら、同時に「ある」という性質をもっている(例えば、小学校の図書室では本の不在が「代本板」によって表象されるように)。このように、在と不在が両合わせになって存在することは、象徴的なものにだけ起こりうる事態である。反対に、現実的なものは「その場に存在しない」ことができない。つまり、現実的なものは欠如の可能性をもたない。象徴的なもの、シニフィアンだけが「その場所に欠けることができる」(Ecrits, p.25)のである。

 シニフィアン排除されたとき、そのシニフィアンはもはや象徴的なものではない。そのとき、排除されたシニフィアンは、現実的なものとして出現せざるをえない。
 「夜」がありえないものとしての「昼」、というものを想像することは、ふつう容易ではない。白夜ですら、人はそれを「夜」との関係から考えることしかできない。そういった不在の可能性を排除されたシニフィアンこそが、精神病においてあらわれるシニフィアン、つまり「現実界のなかのシニフィアン(signifiant dans le réel)」なのだ、とラカンは言っているのではないだろうか。

 それは、たとえば幻覚である。

原初的な象徴化から切除されたものとしての現実的なものは、すでにそこにあります。私たちは、現実的なものはたった一人きりで話すのだ、とさえ言ってもいいでしょう。そして主体は、その現実的なものが出現することを眼にすることがあります。それは、主体を満足させる対象となるには程遠いものという形式下で、そしてもっとも無作法なやり方でしか主体の現在の志向性に関係しないという形式下で出現します。つまりそれは、解釈的現象とは根本的に区別されるかぎりでの幻覚のことです*2。(E389)

 ラカンが「象徴的なもの」「現実的なもの」という述語に与えている規定は、おそらくこういうことだ。通常、象徴界に属するシニフィアンは「ある」と「ない」の二項対立の可能性の中にあり、対立項による訂正の可能性がある。例えば、テーブルの上にあるパンは、誰かに食べられてなくなってしまうことが常に可能であり、それが普通である。反対に現実界は、あるところには過充満にありすぎるし、ないところには絶対的に欠如する。

 精神病では、象徴界の水準にあるはずのシニフィアンが、現実界の水準であらわれる(在と不在の二項対立の可能性のなかにあるはずのシニフィアンが、不在という対立項を失った形で出現する)という異常事態が生じる。つまり、そこにないということが不可能なかたちで、あるものが現れるのである。臨床でよく観察される事例をみれば、このことはすぐにわかる。声(幻聴)の存在を訴える精神病者に対して、「声は現実には存在しない」と説得することは無意味である。そもそもそこには「聞こえない」という可能性それ自体がないのだから。ミレールはそのことを「排除とは、否定できないものを引き出す否定である」と述べたのである。



 ところで、『臨床精神病理』第34巻02号に拙論「身体型対人恐怖の構造―存在の確信をめぐるラカン的パラドクス」が掲載されました。こちらもどうぞよろしくお願いします。
http://www.seiwa-pb.co.jp/search/bo01/bo0111/index.html

*1:この考えは、Soler, C.の次のような言い方からも指示されよう。「「現実界のなかのシニフィアン」という精神病現象の定義には、シニフィアン象徴界を定義するためには十分ではないということがすでに示されている。このことに注意しておこう。象徴界シニフィアンの連鎖によって定義されるのであって、隠喩はその連鎖の流儀のひとつである」(L'inconscient à ciel ouvert de la psychose, p.200-1.)

*2:余談だが、何らかの先行する現象に対する解釈としての幻覚もどきと、真の幻覚を分ける、という言い方は実にフランス精神医学的である。