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à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

『二人であることの病い』について

はてなブログに移行しました。今後ともどうぞよろしくおねがいします。

二人であることの病い パラノイアと言語 (講談社学術文庫)
二人であることの病い パラノイアと言語 (講談社学術文庫)
以前amazonに書いたこの本のレビューを、少々加筆して転載します。


 この論文集『二人であることの病い』に収録された1930年代の諸論文と学位論文が、精神分析家ジャック・ラカンの理論的な出発点になったということがしばしば指摘される。しかし、それはいかなる意味においてなのだろうか。1930年代のフランスの精神医学の潮流のなかで書かれたラカンの一連のパラノイア論は、その後の彼の理論とどのような関係をもっているのだろうか。
 本書に収録されている1930年代の理論と、1950年代以降の理論の内在的な関係を理解するためには、本書の精読が必要である。しかし、フランス精神医学の伝統に属する格調高い筆致で書かれた本書は、精神医学の専門家ではない向きには読みづらいものであるかもしれない。

 幸い、本書には、その構想の全体を要約しうる平易な一節があるので、これを参照することが読解のために役立つであろう。
 ラカンは妄想について論じながら、次のような比喩をもちだしてくる。

「歌詞が旋律を動機づけているどころか、旋律のほうが歌詞を支えているのであり、場合によってはそれら(歌詞)の無意味さを正当化している」(88頁)

 つまり、こういうことだ。精神病患者にみられる妄想は、ときに荒唐無稽なことを表現している。それは無意味性を特徴とするシニフィアン(歌詞)である。しかし、シニフィアンだけでは妄想は成立しない。シニフィアンに妄想としての「確信」を与えているのは、ある種の力強さ(強度)をもった旋律(熱情性)である、というのである。
 後に1950年代のラカンは、精神病の現象を、本来は象徴界に属するシニフィアンが、現実界のなかに解き放たれる現象として捉えた(Ecrits、p.583)。つまり、精神病は象徴界現実界のある種の結合構造によって生じるのである。ここから振り返ってみると、1930年代のラカンはすでに、妄想を「歌詞と旋律の結合」として、すなわちシニフィアンと強度の絡み合いとして捉えていたといえる。

 この頃のラカンは、このひとつのことを主張しつづけている。たとえば、シュルレアリストの雑誌に寄稿した「様式の問題」(本書に収録)では、シュルレアリスムの表現は「根底が非合理であるとはいえ、顕著な志向的意味作用と非常に高い緊張的伝達力をそなえている」(124頁)と言われる。ここにもシニフィアンと「力」の出会いがある。
 
 この一連の論文に前後して提出されたラカンの学位論文『人格との関係からみたパラノイア性精神病』でも、事情は同じである。そこでは、無意識の直接的表現である妄想が、妄想としての確信をもつためには「熱情性」が必要であると言われている。
 (なお、『人格との関係からみたパラノイア性精神病』には、翻訳の修正の必要な箇所が散見されるが、本書『二人であることの病』の翻訳はきわめて正確である。)

 有名なパパン姉妹の症例(本書に収録)では、ラカンはパラノイア問題に触れて次のように述べている。

 「パラノイアに関する古典的な記述と説明にひそむ欠陥。それは、構造についてしか恒常性がないのに、パラノイア性妄想の安定性を主張することによって、そういう変動の存在を重要なものと認めさせてくれなかった」(104頁)

 要するに、構造(シニフィアンの側)が不変であっても、その病態は強度の動きによってさまざまに変動しうる(だからこそ症例エメは自罰によって治癒したのである)。

 ラカンは、パラノイアをはじめとする精神病を、知性やシニフィアンだけによって理解しようとする論者たちを徹底的に批判する。その批判の標的は、ラカンが後に「精神医学における唯一の師」と呼ぶクレランボーにまで及ぶ。クレランボーは、言葉が頭のなかで勝手に乱舞してしまう「精神自動症」を発見した。この考え自体は、ラカンの「シニフィアンの自動症」とそれほどかわらない(もちろん、ラカンはクレランボーから影響を受けたのだ)。しかし、妄想がどのように作られるのかという点について、クレランボーとラカンは決定的に対立することになる。クレランボーは、妄想は、精神自動症によって生じた諸々の幻覚に対して病者がみずから二次的につくりだした「説明」であると考えたのである。つまり、クレランボーは妄想のなかに理性的なものだけをみていた。一方、ラカンは妄想のなかにシニフィアン(言葉)の強固な自律性だけでなく享楽を、対象aを見出していくのであるが、この「構造と力の絡み合い」とでも言いうる構想は、本書においてすでにその萌芽がみられる。本書はこの意味において、ラカンの精神病論にとっての原点となったのである。

 そろそろ私たちは、ラカンの思想について述べる際に「無意識は言語のように構造化されている」という言葉をスローガンのように使うことをやめるべきなのかもしれない。それは、他ならぬラカン自身が、言語・シニフィアンといった形式化されうる構造だけを重視していたのではないからである。むしろ、構造とは異質な「力」が構造のなかに不可避に入り込む契機を、とりわけ精神病において見出したところにラカンの思想の核がある。