à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

『ファンタスムの論理』試訳

読書会@駒場のための試訳を公開します。『ファンタスムの論理』の第六講前半部分です。


La Logique du Fantasme,
Editions de l'Association Lacanienne Internationale, pp.109-114.


p.109

 前回は、私がたくさんの小さな試練を耐えることができるということを皆さんに証明したと考えています。〔講堂の〕電球がこのように、点灯したり消えたりするという試練です。かつて、妖怪の物語の中に、ある辺境の地*1において、どのようにして人々を自らの《自己批判》に導くのかについて説明がなされました。電球は自己批判のために使われていたのです。つまるところ、電球は私にとって、皆さんにとってほど不愉快ではありませんでした、と私は言わねばなりません――と言いますのも、私にとっては電球は頭上にあり、皆さんにとっては目のなかにあるのですから。

 これらの些細な不都合は私のディスクールの方向を変えてしまうことが出来ないことを確認することができたでしょう。それゆえ私は、皆さんがどんな個人的な刺激にも訴えないように期待するのです。今日はクリスマスの季節ではありますが、それにも関わらずクリスマスではありません。私は皆さんにすぐさま警告いたします。私は今日、あなたがたのために準備してきたセミネールを行いません。〔私のセミネールという〕利益のためにヴァカンスの計画のようなものを遅らせたかもしれない方々にはお詫び申し上げます。すくなくとも、何人たりともまったく回り道をしないというわけにはいきません。皆さんそれぞれが、私が年度末のプレゼントとして献本した小さな一冊*2をお持ちであろうことと思います。たくさん知らない名前がありすぎますから、あなたがた一人ずつに献辞を捧げることまでは出来ませんでした。とはいえそれは常に可能なことです!

p.110

 私たちは無意識についての公式を定式化する時期に至りました。この公式を私は決定的なものとして考えていますが、この論理式が前回黒板に書かれているのを皆さんはご覧になったことでしょう。この論理式は以下のような形式のもと書き込まれました。「私は考えない、または、私は存在しない[ou je ne pense pas ou je ne suis pas]」、そしてこの留保をつけて:この「または」はVel(集合論の「または」:すなわち、一方か、他方か、あるいは両方か)でもaut(少なくとも一つ、しかしそれ以上ではなく、どちらかを選ばなくてはならない)でもありません。この「または」は一方でも他方でもありません*3
 また、論理演算において受け入れられるであろう流儀で、別の関数[fonction]を導入する良い機会であると私は期待しているのです。真理値表において、これ〔関数〕はこの〔「または」の〕操作によって特徴付けられています。この操作は新しい名前で呼ばれるべきなのですが、私がすでに使った名前があるにもかかわらず、その他の適用がありますから、曖昧になるかもしれません。しかし、そんなことは大したことではありません! ここで私はこれを〔疎外に〕接近させておきます。問題になっているのは、私が示した事柄(私は隠し立てをして遊ぶためにここにいるわけではありませんから)、私がかつてこの場所で皆さんに疎外[alienation]という用語で示した事柄に他なりません。どちらを選ぶかは皆さん次第です。そのあいだ、この操作をオメガと呼び、真理値表においてこの操作を以下のように特徴付けることにしましょう:このオメガの操作が働く二つの命題が真であるならば、この操作の結果は偽である。
 皆さんは真理値表を手の届く範囲において参照することができますから、連言(∧)、選言[V]、包含[⊆]のうちのいずれを使っても、この〔オメガの操作の〕条件を満たすことができないことがお分かりになるでしょう*4
 この〔オメガの〕操作によって、真と真の連言は偽をもたらす、と私が言うとき、他のすべての連言は真であるということを意味しています。つまり、偽と偽の連言、偽と真の連言、真と偽の連言は真なのです。
 この操作と無意識の性質であるもののあいだの関係は、1月11日に皆さんに向けてはっきり述べることが出来ると思うのですが、いずれにせよお会いする約束をしておきます。皆さんは私が今日それをするのかどうか思いをめぐらすことでしょう。その点については、皆さんは私を信用することが出来ると思います。というのも、私の定式化はまだ準備できておらず、それを今日に限ることもできないからです。
 それにもかかわらず、事実上、この定式化をまったく厳密な形で皆さんの前に申し立てることについての或る危惧からのものであるとすれば、ある日私は困り果ててしまいます、[...]ここ数時間、私は時宜を得ているのか、あるいは時宜を得ていないのかについて考えておりました。私たちがこうして束の間集まっているという事実、私のセミネールと呼ばれているもののことです。

p.111

 もし私がこの問いを自らに問うとすれば、それはこの問いが問われる価値のあるものだからです。私が皆さんに差し上げたこの小さな本は、私が論理式を提供する前に、皆さんの興味を惹きつけるにちがいないと思われるのです。この論理式は、堅牢で確実なやり方で、この無意識の現実性にとらえられた主体の反応にかかわる事柄を確たるものにしています。そこにあるのが実践[praxis]と機能である人々にとっては、この一冊はこの〔主体の〕住処の困難な点にかかわることをお示しするのに役に立たないことはありません。それはおそらく「そこにある[y etre]」から、必然的な「そこにいない[n'y etre pas]」への関係を測りまちがったためです。この本は無意識というテーマをめぐる会議が行われたことを皆さんに証言しています。私の弟子が二人*5、その会議に参加し、すぐれた役割を果たしました。この弟子たちは私にとって最も大事な人々のうちの二人ですが、他の方々は……いろんな方がそこにはいますから、フランス国立科学研究機構のマルクス主義者までいるのです。
 最初の頁にまったく小さな活字で書かれてある、非常に独特な宣言*6をご覧になるでしょう。ここにおられる分析家の方々ならどなたでも、ここに技法論と呼ばれるもの、フロイトが五大症例の或る一点においてほのめかしたものを認めることでしょう(皆さんにお任せしておきますので、皆さんはページをぱらぱらめくってその一点を探すことができます)。それはフロイトと警察が、「贈り物[le cadeau]」*7と「名刺[la carte de visite]」*8と同じ声で呼んでいるものです。ある日、皆さんが不在のときに皆さんのアパルトマンが訪問されたとしたら、訪問客がその場に残しうる痕跡は小さな糞便であることに気づくことが出来るでしょう。私たちはここで対象aの平面にいます。無意識の経路についての皆さんのディスクールによって追跡している諸々の主体との関係においてそのようなものが生じるとしても驚くべきことではありません。
 実のところ、欠如についての強大で大きな弁解があります。今日の精神分析家たちが彼ら分析家の実践から要請される理論的な場所にとどまっていることから明らかにされる欠如についての弁解のことです。彼ら分析家にとっては、抵抗の機能は、私が可能な限り確信したいと欲する諸公式ついて皆さんが考えるであろうことに関する何物かなのです。この諸公式をその本質において、そしてその真の審級において皆さんに提示する日――皆さんは抵抗に結びついた必然性に気づくでしょう。そしてこの必然性が精神分析を受けていない人々に限られているということは一切ありません。同様に、関係について私が皆さんに提示しようとしているシェーマについて。この関係は「非-思考[non penser]」と「非-存在[non-etre]」のあいだの関係ではありません(私が神秘の道に迷い込んだなどと思わないでください)、この関係は「私は存在しない[je ne suis pas]」と「私は考えない[je ne pense pas]」のあいだの関係なのです。この関係は、抵抗と呼ばれているものと防衛と呼ばれているものの差異や、この二つが重ならないということ[non-recouvrement]だけでなく、まったく本質的なやり方で、このことはこれまで未発表であった以下のことを際立ったやり方で示すことができます。防衛に関わるもの、それは本来「私は存在しない」を包囲し、「私は存在しない」をまさに保護するものです。このことをお示しするのは初めてのことだと私は信じております。このことを知らないがために、無意識の現実性にかかわることについて人々が幻想を抱いてしまう[fantasmer]ような観点において、すべてのことがそぐわなくなり、ずれてしまいます。私たちに欠けているこの何物かは、私たちが立ち向かうものの厄介な部分をなしているのですが、これは偶然のようなものによるのではありません。すなわち、〔いま問題となっているのは〕存在と知のこの新たな連言です。

p.112

 真理という用語についてのこの別のアプローチは、フロイトの発見を、何かしらのイデオロギーへの還元によって、還元したり批判したりすることがどのような方法によってもできないようにするのです。
 もし時間があれば、ここで取り上げるのですが……そしてもし私が皆さんにお知らせするとすれば、これはこのような場合に皆さんの気を引くために用意されたなんらかの虚飾ではありません。皆さんを動揺させる虚栄のためではないのです。そうではなくてむしろ、まず始めにデカルトを取り上げなおすことで道に迷わずにすむのは何故かということを皆さんにお示しするためです。なぜなら同様に、これは私が行っている主体の起源への必然的回帰をめぐる中心であり、この回帰のおかげで私たちは取り戻すことができます。主体という用語を取り戻すことができるのです。
 なぜでしょうか? なぜなら、フロイトが自らの格言、本質的な格言をはっきり述べているのは、まさしくこの主体という用語を用いてなのですから。「Wo Es war, soll Ich Werden.」この警句をめぐって私は、ただ単に私自身に向かうのではなく、私を聞いている人々に向かうのだとお教えしました。この公式〔Wo Es war...〕における「Ich」は、そして『続精神分析入門』のなかでこの格言が述べられた時代では、ご存知のように、第二局所論において分節化される「自我[das Ich]」の機能をもってはいなかったことが知られています。私がこの警句をこう〔フランス語に翻訳して〕書くように。すなわち、「それがあった場所、そこに私は[là où c'était, là dois-je]――冗語法ではありますが、主体としての私は[là dois-je comme sujet]、と私なら付け加えます――生成しなければならない[devenir]。」

p.113

 私が皆さんに対してコギトの意味を復活させ、「私は存在する」の周りに引用符を付けて光り輝かせたのと同様に、フロイトの警句のなかに入っていきましょう。この警句において私たちは、フロイトが夢を見たときの警句(「ここに、夢の秘密が発見された[Ici, a été découvert le secret du rêve]」*9)よりも、より石碑に値する公式を見つけ出します。「Wo Es war, soll Ich Werden」、もしこの言葉を〔石碑に〕刻むなら、句読点を省略することを忘れてはなりません。Ichが到来しなくてはならないのは「それがあったところ[là où c'était]」なのです。こういう意味です――フロイトがこの公式を置いた場所、それは彼の論文の最後ですが――この指示において問題となっていることは、「自我はエスを立ち退かせなければならない」*10というような害虫のランガージュに表現されているような、人間存在の全体としての突然の期待ではありません。そうではなく、この公式は、フロイトの作品が必然としてもたらす思考の革命以外のものをここで指示しているのではありません。
 さて、ここでこの革命をその場所に維持しておくことが一つの挑戦であることは明らかです。進歩するものは誰でも危険なものであり、これは私の場合でも同じです。「Odiosum mundo me fecit logica」 アベラール*11とかいう人が、ある日この言葉を書いたということ、このことはおそらく皆さんのうちの何人かの耳にまだ残っているのではないでしょうか。「論理は私を世界に敵対させる[la logique m'a fait envieux du monde]」 そして私が決定的な用語をもたらそうとしているのはこの場所です。この決定的な言葉は、無意識が問題となっているとき、その問題となっている事柄を取り違えることをもはや許しません。私が外ですべってしまうのか、それともそこから方向を変えるのかどうか、私たちは誰かがこのことをはっきりさせることができるのかどうか見てみましょう。
 無意識にかかわるものを把握するために、無意識のなかで私たちに禁じられているものに目印を付けたく思います。それによって、なんらかの練習によって皆さんの知性を練り上げることができるようになります。それはまさにこの種の思考の運動であり、本来コギトの思考の運動であり、すべての分析が《他者》を必要とする運動です。愚かなものの現前をまったく要請しない運動です。
 デカルトが彼の「コギト」を刊行したとき、この方法叙説の運動のなかで述べたこと、これをデカルトは書くことで展開していったわけですが、彼は自らを他の誰かに差し向けています。デカルトはますます切迫した分節化の道筋に自らを導いています。そしてそれから、突然に、何かが起こります。この何かの生起は、この〔分節化によって〕描かれた道筋から離陸することにあり、そこからこの他のものを出現させることとなります。この出現する他のものが、「私は存在する」なのです。
 ここにこの種の運動があり、私は皆さんのためにこの運動をより正確なやり方で規定しようとしています。この運動は、歴史の流れのなかで何度かだけ出会われるものの一つであり、同じものをユークリッドの〔『原論[Les Elements]』の〕七巻のなかに指し示すことができます。私たちはいまだにこのユークリッドの証明に従属しているわけですが、といいますのも私たちは他の証明を発見しておらず、他の証明は同じ〔ユークリッドの証明の〕秩序に属しているからです。以下のことが、非常に正確に証明されています。(皆さんが素数の生成にどのような公式を与えることができたとしても、〔その公式が〕発見されたとすれば)それが必然であったこと――すなわち、この公式はまだ誰も発見していなかったが、私たちはそれを見つけた!――、この公式が名づけることのできない他のものがあることが必然的に演繹されること。問題となっている或る特定の関係、すなわち主体の思考への関係の本質的な点が示されるのは、この種の結び目においてです。


 (この後ラカンは、彼のいう「運動[mouvement]」の実例として、デカルトのコギト、ユークリッド素数論に続けて、パスカルの賭け、アンセルムスの神の存在証明、カントールの対角線論法(無限の濃度について)を挙げている。このような「運動」がなければ、「我思う」の平面の行き詰まりから、「我在り」への跳躍は不可能となる。ラカンはここで自らの無意識の論理学的な定式化を、これらの先人の「運動」になぞらえて、分析の行き詰まりを打破するまったく別のアプローチだと考えている。)


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(以下はすべて訳注。)

*1:おそらく、当時のソ連や中国などのこと。ランプを明滅させて拷問したり、《自己批判》を求めていたらしい。

*2: "Langage et l'inconscient"。アンリ・エー編の『無意識』。このコロックにおけるラカンの発言は"Position de l'inconscient"としてエクリに収録されている。

*3:このセミネールにおけるコギトの定式化の説明に関しては、向井雅明先生の「Wo Es war, soll Ich werden」を参照のこと。

*4:図:真理値表を右に示す。[f:id:lacanian:20080629235404g:image]

*5:ラプランシュとルクレール

*6:アンリ・エーの序文の注。「各人に思想の――そして感情の――表現の絶対の自由を委ねながらも、――私の側からは明らかな打消しはしなかったが――ある人々が私がこのシンポジウムのサーカス的性格を許したという印象、いやむしろ錯覚をもったかも知れぬと信じたとしたら、明らかに私には耐えられれないことだ。」

*7:フロイト「欲動転換、特に肛門愛の欲動転換について」。いわゆる糞便=贈り物のこと。

*8:不在のときに置いて帰る訪問用の名刺のこと。フランスでは(日本も?)泥棒は盗んだ後に部屋のなかに排便していくことがあるらしい。

*9:6/12/1900のフリースへの手紙。

*10:マリー・ボナパルト訳。

*11:Pierre Abélard(1079-1142);哲学者・神学者