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à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

ラカンのエディプス・コンプレックス論 (2) 抑鬱ポジションとフリュストラシオン

「フリュストラシオン」について考察している箇所です。

こちらからPDFの完全版がご覧になれます。



 クラインはごく初期から前エディプス期への興味を持っていた。クラインはフロイトのように自由連想と夢の解釈を行うだけではなく、自由に話すことのままならない子供たちに「精神分析的な遊戯療法」*1を用いることによって、「エディプス・コンプレックスは通常考えられているよりももっと早く活動する」*2と結論付けることができた。また、エディプス・コンプレックスが作動し始めるときには、すでにより「早期の段階、つまり口愛的サディズムと肛門愛的サディズム」*3が十分に働いていると考えた。1952年の論である「幼児の情緒生活についての二、三の理論的結論」*4は、それまでのクラインの前エディプス期に対する研究のひとつの集大成であり、0歳児の心性としての「妄想分裂ポジション」と「抑鬱ポジション」という画期的な概念が定式化されている。以下、この論にしたがって、その概要をおさらいしておこう。
 妄想分裂ポジションとは、生後3〜4ヶ月に見られるもので、被害的な不安をもたらす幻想的な段階である。この段階では、口唇期のリビード衝動と破壊衝動が母親の「乳房」にむけられている。クラインはこの乳房を「部分対象」と呼ぶ。この段階では、後の抑鬱ポジションでみられるように母親を「全体対象」として捉えることが幼児にはできておらず、乳房という母親の身体の一部分にだけリビードが備給されているのである。授乳という満足をもたらすプロセスによって、幼児は、授乳によって満たされる欲求充足と、うまく授乳できない欲求不満を繰り返し体験することになる。ここで幼児にとって「良い乳房」と「悪い乳房」の区別が生まれる。良い乳房とは、欲求を充足させてくれる愛すべき対象である。一方、悪い乳房とは、幼児を欲求不満に陥らせる憎むべき対象である。このように、妄想分裂ポジションで起こっている事態とは、乳房からのミルクを摂取するという現実的な行為を、心のなかで「良い/悪い」「愛/憎しみ」といった対立に変換するよって幻想的なものにすることなのである。
 この対象の分裂、良い乳房と悪い乳房の分裂に直面して、幼児は徐々に、乳房に対する愛情と破壊衝動の対立を統合しはじめる。この統合が、抑鬱的な不安と罪悪感を引き起こす。これが生後4〜6ヶ月に見られる抑鬱ポジションの始まりとなる。この段階において、幼児の心のなかに、母親は唯一無比な一個の全体的な人間であるという考えが発達してくる。乳房に集中して現れていた母親の身体部分に対する幼児の関係は、しだいに一個の人間としての母親との関係に変わっていく。妄想分裂ポジションから抑鬱ポジションへの移行は、部分(乳房)から全体(母親)への移行である。もっとも、この移行は決定的なものではなく、完全な全体対象との関係が確立されたとしても、部分対象がなくなってしまうわけではなく、その後も部分対象は幼児の心の中で重要な役割を果たしていくことは忘れてはならない。
 抑鬱ポジションにおいて特筆すべきことは、妄想分裂ポジションで顕著であった乳房に対する良い/悪い、あるいは愛/憎しみの区別が母親という一つの対象の上に合流し統合され、アンビヴァレントなものとなることである。妄想分裂ポジションから抑鬱ポジションへの移行に際しておこるこの変化を、便宜的に良悪を(+)(-)で示すことによって、以下のように図式化しておく。



 抑鬱ポジションにおける幼児の母親に対する関係を(+)/(-)と整理した私たちは、これがフロイトが「快原理の彼岸」*5で叙述したエルンスト坊やの糸巻き遊び(Fort/Da)に極めて近いものであることに気づく。
 フロイトは一歳半の男児の糸巻きを使った遊びを観察した。この男児は縛り紐を巻きつけた木製の糸巻きを放り投げたり、引きずり出したりして遊んでいた。フロイトの観察によると、この男児は糸巻きをベッドの下に投げ入れ、見えなくなると「オーオーオ」と発声し、糸巻きを引きずり出して、見えるようになると「ダー」と発声していた。フロイトはこの二つの発声が「いない(Fort)」と「いた(Da)」に対応していることを見抜き、またこの現前(Da)と不在 (Fort)の対立が、現実に母親が在宅であるか不在であるかということに対応して起こることも確かめた。幼い男児による糸巻き遊びは、母親の現前と不在を「翻訳」していたのである。しかし、母親の不在は子供にとって耐え難い事態のはずである。ではなぜ子供はそのような不快を遊びにおいてまで繰り返すのだろうか。フロイトは、子供は単に母親の現前/不在を糸巻きの投げる/拾うで翻訳しているだけではなく、母親が一方的にやってきたりいなくなったりするという受動的な体験を、自らが現前と不在を操る能動的な体験で置き換えているのだろうと結論付けている。
 この観察の対象となった男児が、一歳半という前エディプス期に相当する時期にあったことに特に注意しておこう。糸巻き遊びは、フロイトが前エディプス期について考察するための、数少ないデータであり、フロイトの一連の女性論での受動性と能動性の議論と緊密に結びついている。
 この男児の糸巻き遊びを、クラインのパースペクティヴで捉えなおしてみよう。最初、子供は母親から世話を受けて満足を得るが、世話をしてくれる母親は、子供の知らない規則=法(睡眠と覚醒のリズム、仕事や家事のための授乳の中断……)によっていなくなったり現れたりする。この受動的な段階は妄想分裂ポジションに近いと考えられる。この段階では、自分のそばにいてくれて授乳という快を提供してくれる「良い母親」と、自分のそばにはおらず快を提供してくれない「悪い母親」が、受動的に(+)と(-)の二極に分裂しており、他の様々な対象とともに母親の身体という容器のなかでカオス状態をなしている。糸巻き遊びはこの受動性を能動性に置き換える契機となる。この能動性への置き換えが可能になるには、現前する良い母親と不在の悪い母親が、分裂した二つの異なる部分対象(乳房)ではなく、一人の「母親」という全体対象であることが理解されねばならないだろう。不在という意味で斜線を引かれて視界から消えた糸巻きが、再び現前し視界に入る糸巻きと同じものであるということが心的生活のなかで保障されなければ、糸巻き遊びは遊びとして成立しえない。これは明らかなことである。
 ラカンは『対象関係』のセミネールにおいてこの糸巻き遊びを再考するにあたって、クラインによる部分対象と全体対象の区別を参照している。そしてラカンは、母は原始的対象ではないと言う (S4Ja82)。どういうことだろうか。母とはクラインのいう全体対象であり、現実的な部分対象である母の乳房に遅れて現れてくるという意味で、原始的ではない。加えて、ラカンの考えでは、母という全体的対象は、母それ自体として出現するのではなく、エルンスト坊やの糸巻き遊びに代表されるような子供の反復遊びによる現前-不在(+/-)の分節化によって出現する。この分節化は呼びかけという領域でなされ、母という対象が不在のときに呼びかけられ、現前するときには拒絶されることによって、現前と不在が同時になりたつ(+/-)シニフィアンとなっていることをラカンは指摘している(S4Jb16/Fr209)。ここで起こっていることは現実的関係をある象徴的関係に結びつける可能性を主体にあたえること(S4Ja82)であり、いわば現実的関係の象徴的関係への「翻訳」であり、古典的な区分に従うなら経験的領野から超越論的領野への「翻訳」であるといえるだろう。
 ラカンはこの段階を「フリュストラシオン[frustration]」と名づけており、子供が乳房という部分対象と、母親(+/-)という全体対象の両方と関係を持つ段階としている。つまり、クラインの抑鬱ポジションに対応するのが「フリュストラシオン」の段階なのである。ラカンの定義によれば、フリュストラシオンとは「象徴的母を動作主とする現実的対象の想像的損失」であるが、ここでこの定義の意味を分節化しておこう。現実的対象とはクラインのいう部分対象としての乳房に相当するもので、子供の欲求を現実的に満たすものである。この乳房が得られなかったり、得られたとしても十分に満足できる授乳に至らない場合、子供にとってそれはイマジネールな(想像的な)愛憎関係における損失として捉えられる。動作主としての母は、この授乳の動作主[agent]である母であり、様々な事情から子供の前に現れたりいなくなったりする母である。つまり、この母は子供にとって現前と不在の二項対立(+/-)として、つまり象徴的な存在として捉えられている。ラカンはこの動作主としての象徴的母と、現実的な乳房がまったく異なる次元(象徴界現実界)のものであることを強調している。象徴的母の現前は子供にとって愛の記号、愛の証しとして機能し、現実的な乳房は子供の欲求を満たすことになる。

乳房と全体対象としての母との間のこの区別はメラニー・クラインによってもなされています。彼女は、一方に様々な部分対象を、他方に、子供に例の抑鬱ポジションを引き起こすこともある全体対象として設立される母を置き、この二つを明確に区別しました。これは物事を見るひとつの方法です。しかしここで言及されずにいるのは、これら二つの対象は同じ性質ではないということです。実際、母は動作主として、子供の呼びかけによって設立されるのであり、母はすでにはじめから、いたり、いなかったりするものとして、プラス/マイナスの可能性によって刻印された対象としてあるのです。何であれ母に関わる何かによって引き起こされるフリュストラシオンは愛のフリュストラシオンです。子の呼びかけに答えるものとして、母から来るものはすべて贈与であって、つまるところ対象とは別物です。言い換えれば、次の二つの間には根源的差異があるのです。一方に、根源的に別の何か、ある向こう側、つまり母の愛を狙う愛の記号としての贈与があり、そして、他方に、何であれ子供の欲求の満足のためにやって来る対象があるのです。(S4Ja158)

 抑鬱ポジションはフリュストラシオンに対応する。では妄想分裂ポジションはどうだろうか。ラカンによれば、クラインが妄想分裂ポジションというものを考えることができたのは「夢を見ていた」(S4,Ja239)ためである。ラカンは妄想分裂ポジションを全面的に批判しているのである。妄想分裂ポジションにおいては、母の身体という膨大な容器のなかに原初的な空想的諸対象のすべてが集められていると考えられている。このような考え方は「想像的諸対象についての詩情のすべてを母の身体の乳房の中に遡及的に投影することによって可能となる」(S4Ja238-239)。妄想分裂ポジションは、事後的に形成されるファンタジーなのである。例えばクラインは妄想分裂ポジションでは「幼児は、父親のペニス(それを赤ん坊や大便と同一視する)は母親の体内に含まれていると感じ」ている*6としているが、それは歴史的パースペクティヴの遡及性によるものであり、幼児=主体はある劇的で原始的な状況を、成人してからの分析という状況におかれた現在の時点から、現在のパロールに、そして現在の象徴化能力に書き込まれている方法で定式化し、組織化しているだけであり、そこに極めてファルス的なシニフィアンである父親のペニスが登場することには何の不思議もないからである(S4Ja145-146)。ラカンは前エディプス重視の傾向に対して、批判的である。それは、前エディプスという想像的二者関係の平面を遡れば遡るほど、ファルス的な第三項が早期に出現していることを露呈しているからであり、前エディプス期を研究すればするほど、事後性によるエディプス・コンプレックスの重要性が明らかになってくることに気づいているからである(S4Ja141)。それゆえ、ラカンにとっては「前エディプス期」という用語法は不適切なものとなる。「前エディプス的な諸段階は、もちろん実在しないわけではないが、しかし分析的に思考しえ」ず、むしろそれは「エディプス・コンプレックス遡及効果において整序される限りでの前性器的な諸段階」と呼ばれるべきものである(E554)。分析によって想起させられうる限りでの母子関係は、最初からファルスとの関係を含んだ三項関係(フリュストラシオン)であり、二項関係を強調してしまう前エディプス期という言葉は使用すべきではない。その代わりに、ファルスをはらんだ関係が性化されていないという意味で、前性器的な段階というのである。


(つづく)


*1:クライン(1926)「早期分析の心理学的原則」メラニー・クライン著作集1巻,p.151

*2:クライン(1928)「エディプス葛藤の早期段階」メラニー・クライン著作集1巻,p.225

*3:クライン(1927)「正常な子どもにおける犯罪傾向」メラニー・クライン著作集1巻,p.206

*4:クライン(1952)「幼児の情緒生活についての二、三の理論的結論」メラニー・クライン著作集4巻

*5:ジークムント・フロイト「快原理の彼岸」フロイト全集17巻,pp.63-68

*6:クライン(1952)「幼児の情緒生活についての二、三の理論的結論」メラニー・クライン著作集4巻