読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

エルンスト・クリスの症例とラカンのアクティング・アウト論(3)

ラカンによるクリスへの言及

ここまで二回にわたってエルンスト・クリスの論文「自我心理学と精神分析療法における解釈」を読んできた。この論文の三章「計画立てと直観[Planning and Intuition]」にも興味深い点があるが*1、ひとまずここで終えて、ラカンのこの論文に対する言及、とくに「脳みそを食べる男」症例についての言及を見ていこう。ラカンの言及は全部で5回、『フロイト技法論』『精神病』「フロイトの《否定》についてのジャン・イポリットの評釈に対する回答」「治療の指導」『ファンタスムの論理』である。


最初の言及は第一セミネール『フロイト技法論』においてなされる。

クリスの言ういわゆる表層による解釈とはどのようなものでしょう。多分こうなのでしょう。クリスは、患者が書いたものと件の論文に書かれていることに実際にあたってみたのです。詳細に調べてみて、クリスは患者によって著された理論の本質的な点は件の論文の中には全く無いことを確かめたのです。(……)なぜ表層から事柄を捉えるなどと言うのか私には解りませんでしたが、クリスはそこから出発しなければならないと言います。

この〔クリスの「grand-father」「成功した父」という〕解釈は間違いなく有効です。しかし重要なことはこの解釈に患者がどう反応したかということです。
(Lacan, S1-Ja99-100/Fr72、強調は引用者)

ラカンはクリスのいう「表層の解釈(防衛機制の解釈)」にはよい印象を持っていないことが分かる。一方で、この「脳みそを食べる男」症例におけるクリスの解釈(grand-father)はひとまず有効である、「当たり」であると言っている。しかし、ラカンはさらに進んで、解釈に対しての患者の反応を問うている。
分析家の解釈に対しての患者の反応を重視する考え方は、フロイトの「分析における構成の仕事」*2において提起されたものである。この論文でフロイトは、分析家が行う解釈の正当性の根拠は、その解釈に対する反応が解釈の正当性を確認するものであるかどうかにあると言っている。
このフロイトの議論の意味を明確にするために、ラカンのクリスへの言及をさらに追ってみよう。次は第三セミネール『精神病』からである。

〔クリスの解釈に対して、患者から「脳みそを食べる」という反応があったことに〕クリスは喜びました。反応があったのです。しかし、だからどうだというのでしょう。それはこういうことです。患者の方は事態を全く理解せず、自分が何を示しているのかも理解していません。ですから、一体どこに進展があるのか私達にはよく分かりません。クリスは適切なボタンを押しました。しかし、適切なボタンを押すだけでは十分ではありません。患者はそこで単にアクティング・アウトを起こしたのです。

私は、このアクティング・アウトとは、性急に象徴化をしたときに、つまり象徴的な領域の内部ではなく現実性[realite]の次元で或る事柄に接近する際に生ずる、妄想型の幻覚現象に相当するものと考えています。
(Lacan, S3-Ja131/Fr93)

ここでもラカンは、クリスの解釈をある程度は認めつつ(「クリスは適切なボタンを押しました」)、クリスが無視してしまった次元があることを示唆している。また、ここで初めて「アクティング・アウト」という用語が現れていることにも注目すべきである。クリスは「何か」を無視してしまったからこそ、その解釈に対してアクティング・アウトが起こったのである。
さらに引用を続ける。

解釈へと入る前に、ここでこそ分析家は、患者が示すものを待たなければならないのです。分析的治療に抵抗する重症の神経症者を問題にしているのですから(……)この剽窃が空想である可能性は大いにあります。それに反して現実性[realite]の次元でこの患者に介入するならば、つまり最も初歩的な精神療法に戻ってしまうならば、患者はどう反応するでしょうか。現実性[realite]のより深い水準において、非常にはっきりとした仕方で彼は答えます。まぬがれ難く執拗な何かが現実性[realite]から出現したこと、そして彼に何を言ったとしても根本のところでは何も変わらないということを、彼は示すのです。彼は剽窃者ではないということを皆さんは彼に示します。すると彼は生の脳味噌を食べることによって何が問題なのかを示すのです。つまり彼は症状を更新するのです。そしてそれは、彼が以前の症状を示していた点と同じように、根拠も実在もない点においてなのです。一体彼が何かを示しているのでしょうか。むしろこう言うべきでしょう。つまり彼が何かを示しているのでは全くなくて、この何かの方が自らを表していると。
(Lacan, S3-Ja132/Fr93、強調は引用者)

ここで私が「realite」をすべて「現実性」と訳出したのは、「現実界[le reel]」と「現実性[realite]」の区別を強調するためである。太字で強調してある箇所はすべて「現実界[le reel]」を指している。


この患者は図書館でみた学術論文の中に自分の仕事のアイデアを見つけ、自分はその論文を剽窃したのだと考えていた。クリスは彼のいう「剽窃」が本当なのかどうか――つまり、現実性[realite]=現実世界の水準で、患者は本当に剽窃したのかどうか――を確かめた。ラカンはこのようなクリスの行動を批判している。この剽窃のファンタスムは神経症者ならではのものであり、クリスのように現実性の水準でそれに対応することは「最も初歩的な精神療法」に過ぎないとラカンは言うのだ。確かにこのような対応は馬鹿げている。神経症圏の患者や精神病圏の患者と接するにあたって、その信念や妄想に対して現実性の水準で返答することが意味をなさないことは、臨床に関わらない人々にも容易に推測できることであろう(例えば、自分は他人に操られていると訴える精神病者に、「あなたを操っている者などいない」と指摘するナンセンス)。
クリスのように、患者に対して現実性[realite]の水準で対応してしまうと、無意識は現実界[le reel]をもってそれに答えることになる。それも、現実界[le reel]の方から、自らを表しにやってくる[se montre]のだ。これは現実界象徴界の係わり合いからみて、すぐれて精神病的な現象であるということをラカンは言っていた(「アクティング・アウトとは(……)妄想型の幻覚現象に相当するもの」)。
それに対して、ラカンの考える分析は、現実性[realite]ではなく現実界[le reel]を扱う。ラカンは分析実践についてこのように言っていた――「実践とは、何であれ人間によって企てられる行為、つまり人間が象徴的なものによって現実的なものを取り扱うことを可能にすること、を指すもっとも広い用語です。その際人間が多少とも想像的なものに出会うということは、ここでは二次的なことでしかありません。」(S11-J8/Fr11)
現実性[realite]=想像的なもの、つまり患者が本当に剽窃したのかどうかは、ここでも二次的なことでしかない。


現実界[le reel]の用語が出てきたところで、「フロイトの《否定》についてのジャン・イポリットの評釈に対する回答」に目を向けよう。
フロイト技法論』のセミネールのなかで、哲学者ジャン・イポリットはフロイトの「否定」という論文を注釈した。そこからラカンは「抑圧という意味では何も知ろうとしなかった」もの、つまりラカンの精神病論の核心をなす「排除[Verwerfung]」の概念を抽出した。このイポリットによる注釈の前後にはラカンの口述によるイントロとアウトロがあった。そのアウトロを大幅に改稿して『エクリ』に収録したのがこの「フロイトの《否定》についてのジャン・イポリットの評釈に対する回答」である。
本論の意図はラカンの精神病論や排除の概念を解説することではないので、簡単にさらっておくに留めるが、ここでラカンが追求したのは「象徴界現実界の関係」である。ラカンは精神病のメカニズムとしての「排除」を説明してこのように言う――象徴界の明るみに出てこなかったものが、現実界にあらわれる(Lacan, E388)。
原初的なシニフィアンが排除されたとき、つまり最初の象徴化が拒否され、主体の外部に放逐されたとき、象徴界は成立不全に陥る。このような精神病的な世界では、象徴的なもの全てが現実的なものとして経験されることになる。つまり、精神病者は現実性[realite]よりもずっと生々しくリアルな現実界[le reel]に直面する。精神病者には人の姿や顔が幻覚としてあらわれたり、背中を血の塊が流れているなどの訴えがあるが、これはこのような「もっともリアルなもの」との遭遇であると考えられる。

「解釈」と「構成」――分析における構成の仕事

ラカンはこのように「排除[Verwerfung]」を論じた後、やや唐突に次のように言う。

今日はこれ以上この〔排除についての〕指摘を追うのはやめておきましょう。この指摘については、もう一度、臨床的な文脈でとりあげるでしょうから。なぜなら、私は二つ目の例を取り上げようと思っているからです。この二つ目の例によって、私の理論がためされることになります。

この例は、象徴界現実界のあいだの係わり合いのもう一つのモードに関するものです。この場合、主体は苦しむのではなく、行動を起こします。実際、これは私たちが分析技法において「アクティング・アウト」と呼んでいる反応のモードなのですが、その意味は明確には定められていません。私たちが今日行っている考察が、この言葉の意味を刷新できることをお見せしましょう。
(Lacan, E393、強調は引用者)

ここで注目すべきなのは、ラカンがアクティング・アウトを「象徴界現実界のあいだの係わり合いのもう一つのモード」とし、やはり精神病現象に非常に近いものとして扱っていることである。精神病現象とアクティング・アウトはともに象徴界現実界の係わりであり、同じ術語を使って定式化できる。
精神病における幻覚、つまり「排除されたものの回帰」を「成立しなかった象徴界現実界の水準であらわれること」と整理するならば、アクティング・アウトとは「分析実践において象徴化されなかったものが主体の行動を規定する」と整理できるであろう。「排除されたものの回帰」では、象徴界現実界へと侵入する(S→R)。一方、アクティング・アウトでは、現実界象徴界へ侵入するのだ(R→S)。
さらに言うならば、「排除されたものの回帰」において象徴界現実界へとあらわれるのは、象徴界シニフィアン排除されたためであり、また、「アクティング・アウト」において現実界が自らをあらわしにやってくるのは、現実界に属する「何か」が分析において読まれなかったためである。このような「否定」の作用を示すために、便宜的に「×」記号を用いて、それぞれ「×S→R」「×R→S」と書きあらわすことが出来るだろう。

排除されたものの回帰  ×S→R 
アクティング・アウト  ×R→S 


この後からクリスの症例の検討が始まるが、基本的にはクリスの論文を追いながら、ラカンお得意の皮肉が随所におりまぜられながら進んでいく。E397でラカンはクリスの「偉大な父[grand-father]」という解釈にふれて「私はこういう解釈よりも、このやりとり全体における死の役割について指摘するほうがずっと望ましかったと思います」と言っている。

つまりラカンはここで「解釈」と「死の役割の指摘」を対置し、後者を重視したわけである。こうなると、この問題はまたしてもフロイトの「分析における構成の仕事」と密接に関わってくることになる。

議論を分かりやすくするために図式的に整理しておこう。ここで言われている「死の役割の指摘」とは、フロイトの言う「構成」に他ならない。なぜなら死とはラカンが「死の欲動」というテーマで扱うものであり、欲動にかんする知を提供する操作が分析における「構成」だからである。

解釈 欲望[desir] ⇒(主体化される)真理[verite]
構成 欲動[Trieb] ⇒(主体なき)知[savoir]


この表は、これから論じることの大まかな見取り図を示している。


まず、「解釈」から出発しよう。これは、クリスの行った解釈、つまり「偉大な-父[grand-father]」という解釈のことである。繰り返しになるが、ラカンはこの解釈が間違いであるとは言ってはいない。クリスが死の次元、つまり「構成」の次元を見落としていることを批判しているのだ。このような解釈は患者の欲望を明らかにすることができる。事実、この患者には剽窃の欲望や、父のファルスを回復する欲望が認められている。また、このような解釈は「真理」にたどりつく。ただし、ここでいう「真理」とは絶対的な真理というような類のものではなく、嘘をつくことも含んだ、欲望を正しくいいあらわすという意味でのラカン的「真理」である。やや分かりやすくするために、フロイトが紹介した例をあげておこう。開会の辞を述べる人が、「これにて開会します」というところを誤って「これにて閉会します」と言い間違えたとする。この言い間違いはこの人の無意識の欲望をあらわしており、ここにこそ真理がある、そういう意味での真理が問題になっているのだ。クリスの解釈もこの「真理」に到達している。それがこの患者のアクティング・アウトである。


次に、フロイトが重視した「構成」である。
「構成」が「死の役割の指摘」であることを理解するためには、『エクリ』のなかでクリスの論文が参照されるもう一つの論文である「治療の指導とその能力の諸原則」を読む必要がある。
この論文でラカンはクリスに呼びかけている――クリスは自分の解釈に対して患者が反応してくれたことに喜んでいるが、この患者は食物のファンタスム(脳みそを食べる)を話すことで、クリスに助け舟を出していた(E600)。これは一体どういうことか。
ラカンの指摘はこうである――この患者は「何も盗んでいない」のではなく「無を盗んでいる[c'est qu'il vole rien]」。
母と子の原初的関係においてはさまざまな欲動が存在し満足されているが、離乳が母子を引き離すように、エディプス・コンプレックスに入ることによって、その欲動は対象を根源的に喪失する。口唇欲動を例にとるなら、いくら食べ物を食べたとしても、いくらタバコを吸ったとしても、それは欲動のgoalにはなりうるが、根源的な対象である母の乳房には到達しえない。欲動はaimの周辺をぐるぐると回る円環運動を繰り返すだけである。このように、欲動は「無」を対象とするようになるのである。*3クリスの分析にはこのような欲動に関する考察が欠けていた。そのことをラカンは非難しているのである。この症例にはクリスが無視してしまった欲動の次元があること、ラカンの言葉でいえば「死の役割の指摘」をクリスに教えるために、この患者はきわめて欲動的な食べ物のファンタスムをクリスに語ったのである。このような欲動についての「構成」は、後期のラカンのパースペクティヴでは「真理」ではなく「知」と呼ばれる。「真理」が主体化される真理であるのに対して、「知」は絶対に主体化されえない「無頭の知」である。*4


精神分析の実践は、解釈を通して構成の次元へ至らなければならない。
これは、知、欲動、享楽、対象aといった後期ラカンのタームが導入される以前から言われていたことである。例えば、第一セミネール『フロイト技法論』において最初に参照されるフロイトの論文は「分析における構成の仕事」である。「ローマ講演」の中心的なテーマも、そのような意味における「再認[reconnaitre]」であった。ラカンの臨床論としてもっとも長大で充実していると考えられる「治療の指導」からの一節を引いておく。

〔患者にみずからを〕欲望するものとして再発見[retrouver]させること、それは主体として再認[reconnaitre]させることとは反対のことです。なぜなら欲望の小さな流れ[ru du desir]はまるでシニフィアン連鎖の分岐線に添うように走っているからです。そしてまた主体は自分自身のフィードバックを捕らえるために踏切〔交差点 [voie de bretelle]〕を駆使しなければならないからです。

欲望は分析が主体化する[subjective]ものを従属させてしまう[assujettir]だけです。
(Lacan, E623)

ここで言われている「欲望するものとして再発見させること」「主体として再認させること」は、そのまま「解釈」と「構成」に対応している。患者の欲望を指摘する(つまり解釈)だけではダメなのである。なぜなら、欲望とはシニフィアン連鎖それ自体に随伴するものだからである。
分析は、構成という「踏切」*5を用いて、自らの欲動における死(斜線を引かれた主体としての死)を再認させる技法である。覆われていないものとしての真理と、「死への存在」としての認識――ラカンがハイデガーに接近する点がここにある。*6

「何かが読まれなかったとき、アクティング・アウトがある」

このようにして、私たちは1967年3月8日に行われたラカンの『ファンタスムの論理』*7のセミネールにたどりつくことができる。

分析的行為とはもちろん、人々が言うように、解釈です。しかしこの解釈は間違いなく、そしてますます衰退の方向へ向かっていますから――理論において他のことを言うのはずっと難しいようです――、私たちは一瞬たりともこのような欠陥のある行為を行ってはいけません。(……)
私たちはアクティング・アウトと呼ばれているものが、分析家の介入と関係を持っていることを知っています。

ラカンはこのように言って、『エクリ』のなかの「フロイトの《否定》についてのジャン・イポリットの評釈に対する回答」を参照するように指示し、さらにエルンスト・クリスの論文を引っ張り出し、クリスの「まったく無邪気な直感[temoignage vraiment innocent]」を槍玉にあげる。クリスの「表面の分析」を批判し、それを「現実性を評価する領野[le champ d'une appreciation de realite]」と名づける。
さらにラカンはクリスの技法である、「幼児期のコンプレックスの反復を主体に理解させることによって転移のあらわれを解釈する」*8ということを理論の歪曲だと言う。
そしてクリスの症例である「脳みそを食べる男」に触れて、ラカンはこのように言う。

本質的なことは主体が本当に剽窃者であるのかどうかということではありません。そうではなくて、主体の欲望全体が剽窃することであるということが本質的なのです。これは極めて明瞭なことです。この単純な理由によって、主体が誰かから何かを拝借することなしには、何か価値をもったものを作り上げることができないということが分かります。これが本質的な原動力です。

ラカンはこの患者のアクティング・アウト(脳みそを食べる)に触れて、ここに「口唇的対象a」が現れていると指摘している。これは、この患者の欲動の対象である。
ここまでは上で見たことの繰り返しであるが、ここからラカンによるアクティング・アウトの定式化が始まる。
ラカンは「フラングレ[franglais]」ということを言い出す。フラングレとは「英語まじりのフランス語」のことである。なぜこのようなことを言うかと言えば、ラカンはここで使っている「アクティング・アウト」という英語に、フランス語での訳語を与えていないのだ。

著者たちがアクティング・アウトという用語を使うなら、そのアクティング・アウトという英語の用語について、彼らはそれが何を意味しているのか知っていたはずです。このことを今からあなたがたにお見せしましょう。

ラカンはこのように言う。つまり、acting-outという英語の中にこそ、その意味があるというのだ。そして、その本当の意味を探るためにラカンは、なんと英語の辞書を引きはじめる。
ラカンは「Webster's」の辞書を引く。そこにはこう書いてある。

Act-out : to represent(as a play, story and so on) in action.

(ラカン)それゆえ、〔アクティング・アウトとは〕舞台の上で演技として代理表象することであり、つまり行動になった物語です。これは、読むこととは反対のことです。*9

ラカンはこれを定式化する。

英語文献においてこの用語を選び、アクティング・アウトと名づけた人々は、それによって彼らが何を意味していたかを知っていたのではないかと私は考えています。どんな場合にでも、この用語は完全にしっくりきます――私は何かをアクト・アウトする。なぜなら、その何かが私にとって不十分に、あるいは間違って読まれ、翻訳され、分節化され、意味されたからです

「読まれなかった何かが、アクト・アウトされる」ラカンはこう言っているのである。この場合の「私」はもちろん無意識の主体のことである。分析の臨床において、無意識の何かが分析家によって読まれないことがある。クリスのように、欲動の次元の根源的な無を無視してしまうことがある。このとき、患者の無意識の主体はその「何か」をアクト・アウトすることによって表面化させる。

精神分析とは、欲望の分析を通して、欲動の次元の現実界を読み、知を構成する技法なのである。
(了)


*1:特にp.25には、"strategy"と"tactics"の対比がある。この二つの言葉はラカンの「治療の指導」E589にも出てくる。この点については以前触れた。

*2:フロイト, S., 分析における構成の仕事,フロイト著作集 9巻 症例・技法編, pp.140-151

*3:ラカンはこの論理を用いて神経性食思不振症を説明している(E600-601)

*4:Zizek, S., DESIRE : DRIVE = TRUTH: KNOWLEDGE

*5:「小川[ru]」と「踏切=交差点[voie de bretelle]」という比喩は、欲望のグラフを連想させる。グラフの横軸はシニフィアン連鎖であり、その横軸を交差して戻る縦軸は前存在論的主体△が斜線を引かれた主体S/として生起する象徴的同一化I(A)の軸である。

*6:ラカンのこのような考え方は、1949年、つまり「鏡像段階」論文の時点で既に出来上がっていたと考えられる。「私たちが保持している《主体から主体へ》 という頼みの綱にしたがって、精神分析は患者を、「君はあれだよTu es cela」という忘我的極限――患者にその死の運命の暗号〔あれを殺せTuez cela〕が啓示される場所――まで送り届けることができます」(E100)

*7:Lacan, J., La logique du fantasme (inedit.)

*8:いわゆる、今ここで[hic et nunc]の転移解釈。ラカンはこれを一貫して批判し続けた。

*9:私たちもラカンに従って、Webster'sの辞書を引いてみよう。オンライン(http://www.merriam-webster.com/cgi-bin/dictionary?va=act%20out)で参照できる。セミネールの記述とはやや異なるものの、「行動において表現すること[represent in action]」との記載が見られる。