現実的なもののこの穴は、それを考察する仕方に従って存在と呼ばれたり無と呼ばれたりします。この存在や無は、パロールという現象と本質的に結びついています。象徴的なもの、想像的なもの、現実的なものという三分割、つまりそれらがなければ分析経験において何一つ区別できない基礎的なカテゴリーの三分割、これが位置づけられるのは存在という次元です。
(Lacan, S1-Jb179/Fr297, 強調は筆者)
これはラカンの刊行されている最初のセミネールである『フロイトの技法論』の一節である。
ここに引用したように、象徴的なもの、想像的なもの、現実的なものという三つのカテゴリーは、ラカンにとって分析という状況を扱うにあたってなくてはならないカテゴリーであるとされる。しかし、ラカンのセミネールは、少なくとも最初の10年ほどはフロイトの読解のためのセミネールであったはずである。では、この三つのカテゴリーはどのようなフロイト読解から出てきたのだろうか?
この問題をロバート・サミュエルズの「フロイトからラカンへ――技法の問題」*1を参考に、以下に解き明かしてみたい。
サミュエルズが指摘するには、フロイトの理論上の進化は、その技法上の問題と密接に関わっている。
まず、サミュエルズはフロイトの技法を三段階に分ける。
- 催眠
- 抵抗の分析
- 自由連想
この三つの技法はそれぞれの対象を発見することになる。つまり、催眠療法によって無意識の存在が発見され、抵抗の分析は抵抗する自我をその対象として発見する。自由連想という技法は、分析主体のパロールを発見することになる。
それぞれの技法はさらに、それに対応したリビードを発見する。つまり、催眠では幼児性欲が発見され、抵抗の分析では自我のナルシシズムのリビードが発見され、自由連想では死の欲動というリビードが発見されることになる。
このことを表にすると以下のようになる。
1 | 2 | 3 | |
---|---|---|---|
治療技法 | 催眠 | 抵抗の分析 | 自由連想 |
対象 | 無意識 | 自我 | パロール |
リビード | 幼児性欲 | ナルシシズム | 死の欲動 |
フロイトは、『精神分析入門』で、無意識の幼児的性格についてふれている。また、幼児性欲のレベルでは、近親相姦のタブーや、性的差異や、自己と他者の区別も存在しない。この段階での幼児性欲の自体愛性は、他者の不在に基づいていると考えることもできる。
第二の段階、つまり抵抗の分析と自我のナルシシズムの段階は、ラカンのいう鏡像段階であり、ヘーゲル流の主人と奴隷の弁証法が支配する攻撃性の段階である。
第三の段階、つまりパロールを用いた自由連想の段階において、フロイトは自我の快原理の彼岸に死の欲動を発見する。これは、外傷体験を繰り返す夢や、陰性治療反応、子供のFort/Da遊びによって発見された、自我を死に追いやる可能性のある段階である。ここいおいて、象徴的な運動が発見された。つまり、フロイトは外傷体験を繰り返す夢などの、一見不合理な現象は、過去の失敗の経験を象徴的な形式で反復し支配しようとしていると考えるにいたったのである。
このフロイト理論の三段階は、そのままラカンの現実的なもの、想像的なもの、象徴的なものと対応する。*2
1 | 2 | 3 | |
---|---|---|---|
治療技法 | 催眠 | 抵抗の分析 | 自由連想 |
対象 | 無意識 | 自我 | パロール |
リビード | 幼児性欲 | ナルシシズム | 死の欲動 |
RSI | 現実的なもの | 想像的なもの | 象徴的なもの |
また、サミュエルズによれば、この三段階の区分は、フロイトの第二局所論、つまりエス、自我、超自我の三区分に対応する。
現実的なもの | 想像的なもの | 象徴的なもの | |
---|---|---|---|
第二局所論 | エス | 自我 | 超自我 |
これはまたエスから抵抗する自我が生まれ、エディプス・コンプレックスの段階に入り、そこから抜け出ることで超自我を確立する、という人間の発達論でもある。ここで注目しておくべきなのは、超自我はエスからそのエネルギーを受けているということである。
これは、フロイトの症状形成の理論と等しい。つまり、
- [R] 幼児性欲の最初の固着
- [I] 自我の防衛による抑圧
- [S] 抑圧されたものの回帰
こういうことになる。このような三段階を経て、症状形成が起こると考えられるのである。この図式でも同様に、抑圧されたものの回帰は、エスからエネルギーを受けていると考えられる。
分析の治療技法は、この症状形成の三段階を逆向きに辿ることである、とサミュエルズは指摘している。つまり分析家の仕事は、
- [S] 象徴的な自由連想を用いて、
- [I] 自我の防衛と想像的転移を潜り抜けて、
- [R] 無意識の欲望と思考にたどりつく
ということなのである。
自我心理学は無意識と幼児性欲の段階(第一段階)をフロイトのテクストと技法から抑圧してしまったが、ラカンはランガージュの重要性を指摘し、その抑圧に立ち向かう。
境界性人格障害は倒錯か
サミュエルズの理論は、上に見てきたように非常に明快であり、その理論的な切れ味の鋭さは特筆すべきものであるが、やや図式的すぎるきらいもある。
主著であると思われる『哲学による精神分析入門』はパリ第VIII大学に彼が提出した博士論文をもとにしたものだが、基本的にはここで紹介した論文のように、さまざまなものを現実的なもの、想像的なもの、象徴的なものの三つで分割し論じる、というものである。たとえば、哲学の領域における実存主義、現象学、構造主義や、「論理的時間」の三つの時間、アニミズム、宗教、科学などを、ひたすら三つの審級で論じる、といった趣である。その分割による理論的生産性や臨床的有効性はともかくとして、非常に明瞭で面白い読み物となっている。
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臨床的な観点として、サミュエルズは興味深い指摘をしている。
いわく、境界性人格障害は倒錯である。
境界性人格障害の症状であるアクティング・アウト、衝動制御の欠如、不安定な反応、対象と自己表象の分裂、欲求不満耐性の低さ、といったものはサディズム-マゾヒズムの病理を示している、というのである。つまりこれは自我のナルシシズムの病理ではなく、欲動と超自我の関係性の病理だとサミュエルズはこの論文(「フロイトからラカンへ――技法の問題」)で言っている。
このことは『哲学による精神分析入門』でも触れられている(邦訳p.206)。
ここでサミュエルズが試みているように、人格障害や、自閉症や発達障害圏の精神疾患に対してどのような理論を作り、どのような治療法を確立するか、あるいは器質的疾患としてバイオロジー主体の精神医学に任せるのか、ということは今後の精神分析や精神病理学にとっては大きな課題であるように思う。
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*1:Robert Samuels, From Freud To Lacan:A Question of Technique
*2:ラカンの現実界、想像界、象徴界をこのように発達論のように読むことに対する批判もあるかもしれないが、ラカン自身が発達論のように扱っているように読める箇所もある。「エス、対象、本能、欲望、性向などをその起源において仮定すると、それは純粋で単純な現実性であり、何によっても限界づけられることなく、いまだいかなる定義づけの対象でもありえず、良くもなく悪くもなく、カオス的であると同時に絶対的であり根源的なものです。それは、フロイトが『Die Verneinung[否定]』という論文の中で、存在するのかしないのかという実在の判断について述べている際に彼が考えている水準です。ここで、身体の像が主体に最初の形を与え、それによって主体は初めて自我に属するものとそうでないものとを定位することができます。(……)このようにして私達は、自我が誕生する以前の主体と自我の出現とを思い描くことができます」(Lacan, S1-Ja128/Fr94) ちなみに邦訳セミネールではこの箇所の最初の「エス[les ca]」が抜け落ちている。