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à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

フロイト「分析における構成の仕事」

フロイト著作集, 9巻 症例・技法編, pp.140-151


 フロイトは論文の冒頭からある問題に触れている。

〔ある研究者が〕われわれの分析技法にたいして、不当であると同時にそれを傷つけさえするような見解を表明したことがあった。(……)すなわち、もし患者がわれわれの言うことに同意すれば、それはまさにわれわれの解釈が正しいということであり、もしまた患者がわれわれに反対すれば、それはただ単に彼の抵抗のしるしにすぎない、つまりわれわれは、やはり正しい、というのである。(p.140)

 ここに引用した研究者のように分析を捉え、分析家の解釈に対して患者が肯定するならその解釈は正しく、患者が否定するならそれは抵抗のあらわれであり、やはり解釈は正しいとするなら、分析の解釈とはいったいなんであろうか。そのような解釈は分析家の一方的な思い込みに過ぎないのではないだろうか。そもそも分析家は解釈するにあたって、無謬の位置を確保することなどできるのだろうか?

分析家の仕事は「解釈」や「再体験」ではなく、「構成」

 フロイトはこの論文で、これまで使われてきた「解釈[Deutung]」という用語に対して、新たに「構成[Konstruction]」という新しい用語を提案することによって、同時代の分析家にみられた分析の技法についての冒頭に引用したような誤解を解こうとしている。
 フロイトはこう言っている。

分析技法を叙述したものの中で、「構成[Konstruction]」について耳にすることが極めて少ないのは、構成の代りに、「解釈[Deutung]」およびその与えた影響ということが言われていいるという点に原因がある。しかし、私は構成という方がはるかに適切な名称であると思う。
(p.144, 強調は引用者)

 解釈は重要であるが、構成ほど重要なわけではない。フロイトは、彼の後に続いた分析家が(特にアメリカへの輸出や自我心理学の台頭によって)「解釈」や「過去の再体験」といったものに魅了され、分析家の仕事である「構成」という次元を考慮していないことに気づき、この論文でその点に注意を促したのである。

被分析者は、彼が体験し、そして抑圧されたものを想起させられねばならないという事情を、われわれはみな知っている。そしてこの現象のダイナミックなさまざまの条件が非常に興味深いものであるために、分析の仕事のそれ以外の部分、すなわち分析医の操作はそれに比べて背後に隠れてしまうのである。(……)彼〔分析家〕は忘れられてしまったことを、それが遺した徴候から推定しなければならない。もっと正確に表現するならば「構成」しなければならない。
(p.142, 強調はフロイト)

 このように、分析のいわゆる「抑圧された過去」や「トラウマ」概念が非常に興味を引きやすく、人を魅了しやすいために、彼の後の分析家がそれにだけ注目してしまうという事情はフロイト自身が強く意識していた。フロイトはそのような方向に分析が脱線していくことを懸念していた。あるいは当時すでにその方向に脱線してしまっていたことに危惧を感じていたのではないか。

分析の仕事

 ではフロイトの考える分析における仕事とは何か。
 フロイトによれば、「分析処置は全く異なった二つの部分から成り立って」おり、「おのおの別個の課題を担っている二人の人物(分析医・患者)によって」行われる(p.141)。そして、それぞれの仕事が想起と構成なのである。

患者 抑圧されたものの想起
分析医 徴候から推定された構成

 また、フロイトは「分析にとって構成は準備処置にすぎない」(p.143)と言っている。これはどういうことか。
 これは、「間違った解釈」、フロイトの言葉でいえば「間違った構成」の問題である。
 分析家が行う「構成」は、正しい可能性もあるが、間違っている可能性もある。では、構成が正しいのか間違っているのかをどこでみわけるのか? フロイトの考えではこうだ。


 構成を与えた後の患者の反応としては、肯定と否定がありうる。

(1)肯定した場合

被分析者の肯定は多義的であり、彼が分析家から聞かされた構成を正しいものとして承認したものである可能性もあるが、承認しておくことによって見出されなかった真実をそれから先も隠しつづけておくのが彼の抵抗にとって快いために、そのような「偽善的」な態度に出ることもある。
肯定が価値を持つ、つまり正しい構成であることを承認した証になるのは、その構成に続いて間接的な証明が続く場合、患者がその肯定のすぐ後に続けて新たに思い浮かべた記憶が、その構成を補足し拡大することになる場合だけである。
それゆえ、分析家が与えた構成を患者が肯定したからといって、その肯定を額面どおり受けとってはいけない。

(2)否定した場合

被分析者の否定もまた多義的であり、額面どおり受けとることはできない。
否定は、与えられた構成の内容によってよびさまされた抵抗の表現であることも多いが、その構成が妥当である可能性も大いにある。
被分析者は概してすべての真実を知ったときに、はじめて同意を表明するものであるから、被分析者の否定はその構成が未完成な構成であるということを示しているということは確実である。
ただし、否定の特別なパターン「それについては私は全然考えませんでした」は、分析家の構成が患者の無意識を正しく言い当てた証であるということができる。


 このように、患者の肯定も否定も単純に捉えられてはならない。それゆえ、患者が肯定するか否定するか、という観点から捉えるのではなく、その構成が患者にどのような変化を生じさせたかに注目していくことになる。
 それゆえ、分析家が誤りをおかし、間違った構成を患者の本当の歴史的真実として話聞かせたとしても、患者には有害な結果にはならず、単なる時間の浪費である。間違った構成の場合、患者はそれを聞いた後いつまでたっても、何も手を施さなかったような状態を続け、分析家の説明に対して肯定も否定もしめさない。そのような反応を見た場合、分析家が行った構成が間違っていたと判断し、また別の構成を話し、次の反応を見ればよいのである。

 ラカンがこのフロイトのテクストをどのように読んだかは、『フロイト技法論』と「ローマ講演」でみることができる。