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à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

シェーマLのトランプゲーム(1)

ラカンの図式の中でも、特にシェーマLは数多くの文献によって紹介・説明されている。その大体が、前々回に示した第二セミネールにおける説明を流用してなされている(例えば、福原泰平『ラカン――鏡像段階』など)。しかし、ラカン自身はシェーマLを、特にそれを分析関係に応用するにあたって、「コントラクト・ブリッジ contract bridge」や「ばば抜き(あるいは輪探し遊び) jeu de furet」として説明しているのである。

『エクリ』のなかに、「コントラクト・ブリッジ」はE212,E274,E589の三回、「ばば抜き」はE259,E320,E517,E642の四回登場してくるように、このトランプによる間主観性の説明はラカンのお気に入りであったようである。
順番に見ていくと、まず最初に登場するのが「論理的時間と予期される確実性の断言」においてである(E212)。「論理的時間」の扱っている問題は、まさに間主観性の問題であり、「他人を媒介にすることがなければだれも真実にふれることができないという事実」という形式の応用として、「ブリッジゲーム」「外交会議」、そして「精神分析の実際場面における《コンプレックス》の操作」を挙げている。
次は「ローマ講演」である。ここではばば抜き遊びの「ばば」が、ディスクールにおいて口から口へと動き回ることによって、被分析者は「ばば」からメッセージを受け取り、それによって主体は行為を歴史における行為にすることができ、また、自分の「真実」を受け取るようになるという(E259)。ちなみにE274にも「ブリッジ・コントラクト」が登場するがシェーマLの文脈には関係ない。後に「間主観性というばば抜き遊び」(E320)が登場する。
続いては「無意識における文字の審級、あるいはフロイト以降の理性」において、有名なコギトのパロディに続いて「ばば抜き遊び」の比喩が登場する(E517)。
最後に「治療の指導とその能力の諸原則」において、E589で分析状況の四者関係と「コントラクト・ブリッジ」が類推的に語られ、E642では、フロイトの夢の自己分析が、転移関係において移送されていく「ばば(輪)」を認識することであったとしている。
これらの例における「ばば抜き jeu de furet」は、すべて間主観性の問題である。つまり、これらはシェーマLで説明することができる。

具体的にラカンの説明を引こう。

分析主体は分析家の人格にさまざまな空想を負わせるが、これを、〔コントラクト・ブリッジの〕名人が相手の意図を推測するのと同じ方法で行っていると判断することはできないであろう。ここにはおそらく常に戦略が存在するのであるが、人は鏡のメタファー――これは分析家が患者に対して向けているスムーズな外見に見合うものであろう――によって欺かれるべきではない。無表情な顔やきつく閉じられた口元が、ブリッジの場合と同じような目的を持っているわけではない。
その代わりに、分析家はブリッジで、「ダミー」と呼ばれるものに助けてもらい、協力してもらっているのである。分析家がそうするのは、分析主体のパートナーとなるはずの第四番目のプレイヤーを引っ張りだしてくるためである。そして分析家は、現れた第四番目のプレーヤーの手を分析主体に推測させようとする作戦に出るのである。これは、分析におけるゲームの掛け金が分析家に負わせた慎み――いうなれば、自己犠牲を慎むこと――である。
人は、彼〔=分析主体のパートナー〕が患者の「右」あるいは「左」のどちらに位置しているのか、つまり、自分がカードを切るのが第四番目のプレイヤーの後なのか先なのか、「ダミー」である人間の後なのか先なのか、ということに基づいて、そこからゲーム〔において起こっていること〕を推論することによって、メタファーを追い求めているのである。
しかし、ここにおいて確実なことは、分析家の感情はこのゲームにおいて、ある一つの場所に位置することしかできないということである――分析家の感情は、「ダミー」の場所に位置するのである。もしダミーが生ける者となったなら、このゲームは、誰がダミーを操っているのか分からなくとも進行して行くであろう、ということもまた確実である。
なぜ分析家が駆け引きtactiqueよりも戦略strategieに拘束されているのか、ということの理由がここにある。

(Lacan, E589)筆者訳

例によって分かりにくい文体のため、一見何を書いているのか分からないが、まず注目すべきは、「分析主体のパートナーとなるはずの第四番目のプレイヤーを引っ張りだしてくる」という部分である。これは、第一セミネールで言われていた、

私がエゴからエゴへと呼ぶ防衛の解釈は、たとえそれがどんな価値を持つにせよ慎むべきものです。防衛の解釈においてはいつでも少なくとも第三番目の項がなくてはなりません。実際には、もう一つなくてはなりません。皆さんにそれをお示しできればよいのですが、しかし今日は問いを立てるだけに留めておきます。

(Lacan, S1-Ja55)

この「もう一つの項」のことである。想像的な二者関係にくわえて、三番目の項、そして四番目の項があらわれることによって、シェーマLは完成する。想像的な二者関係は、シェーマLでは「a-a'」の想像的な軸によって表されている。次に付け足される項が、大文字の他者Aであり、最後に加わるのが、無意識の主体S/である。