à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

ナシュトの「分析家の存在」論

少し話を戻そう。
ラカンが「治療の指導とその能力の諸原則」のなかで批判しようとしているのは、自我心理学の理論であり、とりわけ、この論文をラカンに書かせるにいたった「現代の精神分析 La psychanalyse d'aujourd'hui(P.D.A.)」であった。ラカンは、自我心理学における転移の概念(想像的転移)が、二者関係の分析や分析家の強い自我に患者を同一化させるといった技法を導き出していることを指摘している(E588)。
ここで批判されている「現代の精神分析」という論集は具体的に、どんなことを主張しているのだろうか。私はこの文献を見ていないため全貌は掴めないが*1、ラカンがこの論文に付している文献表と注の中に、少しだけ引用されているので、それを見てみよう。

[22]La P.D.A.:p.133(情動的再教育)、p.133(二者関係の根源的重要性についてのPDA誌とフロイトの対立)、p.132(《〔心の〕内面》からの治癒)、p.135(分析家が語ることや行うことは、彼がどんな人であるかqu'il est〔=存在〕ほどは重要ではない)、およびp.136を順次参照せよ。さらにp.162(治療の終結の解約通告について)、p.149(夢について)を参照せよ。

(Lacan, E645)筆者訳

原注(5)
私は、このような馬鹿げた公式化――〔自我心理学によって〕分析の言説が衰退し辿りついた惨状を示す以外にはまったく使い道のない公式化――によって読者がもうこれ以上退屈させられないことを約束する。私は、自分たちの言語で可能な分析をやっていることが疑いないフランス以外にいる読者にお詫びしたい。もっとも、〔P.D.A.と〕同じような陳腐なレベルにいる読者には詫びはしない。
原注(6)
フランスにおける引用したような〔分析家の〕存在 etreについての教義は、愚直にもこのような結論を出すにいたった。つまり、「分析家の存在とは先天的なものである」(P.D.A., p.136)と。

(Lacan, E645)筆者訳

このような書き方を見ると、ここでのラカンの批判は、「P.D.A.」の中でも特にpp.132-136のあたりに集中している。この部分は、どうやらナシュトの論文であるらしい(Sacha Nacht, "La therapeutique psychanalytique")。(ナシュトとラカンの制度的な対立は、邦訳『エクリⅡ』の佐々木孝次による訳者あとがき pp.395-396に詳しいので参照のこと)。

ナシュトが「(分析家の)存在 etre」や、「彼がどんな人であるか qu'il est」という言葉で示そうとしているのは、分析状況における分析家のパーソナリティ、つまり自我のことである。この自我は「良き自我」「正常な自我」「強い自我」であり、分析状況において患者の「弱い病的な自我」と向かい合う。このような分析が目指すところがラカンの批判する「患者の分析家への同一化」である。このようなナシュトの視点からは、分析を可能にする「分析家の存在」とは、「先天的」なものとなる。つまり、生まれつき分析家に向いている人格をもった人と、そうでない人がいる、ということになる。
「このような〔ナシュトの〕文脈ではいかなる超越もない nulle transcendance dans le contexte(E587)」とラカンは言う。超越とはまさに大文字の他者であり、ラカン的な分析を可能にする象徴的転移の関係である。


次回とりあげるのは、これです。
http://homepage1.nifty.com/appuri/html/bridge/rules/rule.html
http://www.geocities.jp/kato_nao_ak/top/game/om.html

確かに「二人だけ」で「ばば抜き」をしても面白くありません。

*1:後記、La psychanalyse d'aujourd'huiを入手しましたので、そのうち要約をのせるつもりです。