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à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

分析の四者関係論=シェーマL

患者と分析家の二者の想像的関係に基づく自我心理学の技法に対して、ラカンは分析状況は四者関係である、ということを指摘し、その理解のためにシェーマLを導入する(S2-Jb117)。

まず、Sとaであるが、これは主体と自我である。日常語において使う「私」という言葉は、この主体と自我を一緒のものとして扱っているが、精神分析ではこの二つを区別する。自我とは「私は〜(例えば、自分の名前とか、性格や容姿)である」というときの、「〜」の部分と例えられるだろう。それに対して主体とは、「私は〜である」という発言をする動きであるといえる。ここで扱われているSとは主体(Sujet)であるが、「分析的主体であって、全体としての主体ではない」(ibid., p.118)とラカンは言う。
主体Sは自分が何を言っているか知らない、つまり「私は〜である」という言説の内容は、「〜」の部分、つまり自我=他者autreに依存しており、主体とは「私は」の後に続けて他者を表現する「開けとしての主体」である(ibid., p.119)。
主体は自らをaの位置に見て、自分はこの自我であると思い込んでいる。これは鏡像段階として説明される、人間が語るために不可避な疎外の状況である(ibid., p.119)。
主体が自分を自我aであると思い込むのは、小文字の他者a'を通してである。鏡の例で説明すれば、主体は鏡に映った自分の似姿(a')しか見ることができないが、その鏡の像(a')を自分(a)であるとして思い込むのである。
この自我(a)と小文字の他者(a')の関係は、想像的関係と呼ばれる。二体心理学はまさしくこの関係において分析を行っている。二体心理学は「分析は、主体の想像的、根源的分断の再統合だとするような考え方」である。「主体の想像的、根源的分断の再統合」を行うために、抵抗の解釈が行われ、分析経験のすべてを分析の想像的な要素に還元してしまい、分析家の自我の様々な特徴を患者へと投影する、ということが起こる、とラカンは言う(ibid., p.123)。つまり、ラカンの自我心理学批判の要点であるとした四点(二者関係、分析家への同一化、転移の解釈、空虚なパロール)は、すべて関連しており共犯的な関係にあるのである。
ここで大文字の他者Aが導入される。大文字の他者Aと主体Sの間の線は、象徴的関係であり、「ランガージュの壁」と呼ばれる。このランガージュの壁によって、自我や小文字の他者が対象となる。つまり、想像的なものが偽の現実を得ることになる。偽の現実といっても、それは大文字の他者Aによって支えられているものであるから、検証可能な現実である。これが私たちが通常見ている「現実性」の次元である(ibid., p.119)。
本来の分析においては、患者の自我(a')は分析家の自我(a)に同一化する(想像的転移の関係)のではない。(患者の自我ではなく)患者の主体(S)が象徴的転移の関係において、分析家の言葉を大文字の他者Aからの言葉として聞き取る、という状況を設立しなければならない。そのために、分析家の養成においては、分析家を「自我がないような主体」として作り出すようにしなければならない(ibid., p.123)。もちろんこれは理想であり、実際には全く自我を持たない主体など存在しえないが、それを目指すことによって、分析の関係において想像的転移(a-a')を避け、象徴的転移(S-A)の関係を作り出し、充溢したパロールによって語ることができるようになる。
このような分析を可能にする「自我がないような(分析家の)主体」とは、存在欠如manque a etreである。「治療の指導とその能力の諸原則」においては、「分析家は自己の存在よりも存在欠如manque a etreを手がかりに分析を進める方法を探ったほうがよいであろう(E589)」とされている。「自己の存在」、つまり分析家の自我(パーソナリティ)を手がかりにするのではない――ここでも分析の目的は「患者の分析家への同一化」ではない、ということが示されている。

もし分析家が抵抗だけを取り扱ってきたのなら、運まかせに解釈をくだすにあたっては、一度振り返ってみるくらいのことはするであろうが、しかし、彼ら〔=自我心理学の分析家〕の場合は、実際のところ、彼らにできると予期される程度のことしかやらないのである〔=皮肉〕。
少なくとも、分析家が解釈を下す場合、その解釈は、〔分析主体が〕転移によって分析家に負わせた人格から生まれた解釈であるとして、〔分析主体に〕受け取られるであろう〔これが想像的転移における解釈の効果である〕。
〔自我心理学の〕分析家は、人格に関するこの間違った考え方から何か利益がえられるとでも思っているのだろうか。分析の倫理はこの考え方と矛盾はしないが、それは、分析家がこの〔転移の〕効果を解釈するという条件があったときにのみ、矛盾しないのである。さもなければ、分析は雑な暗示にすぎないものに堕すであろう。
このようなことは議論の必要もないことである。議論が必要なのは、分析家の言説が依然として転移における大文字の他者からやってきたものとして〔分析主体に〕聞かれるであろうということと、この転移から主体が脱出することはこのように無限にad infinitum先送りされる、ということである〔=象徴的転移の関係〕。

(Lacan, E591)筆者訳

結論として言えることは、私たちを出発点の問題に連れ戻すこと(C.Q.N.R.P.D.)。つまり分析を再発見するために出発点の問題に私たちを連れ戻すことである。
あるいは、抵抗の特殊な形態としての転移を扱うことによって、分析をやり直すために連れ戻すことである。
大勢の人々がこのようなことを公言している。しかし私たちは、こういう輩に向かってこそ、この章の表題である――分析家とは何者なのか――という質問を提出しておきたい。解釈をする人間、転移から利益を得る人間なのだろうか。転移を抵抗として分析する人なのだろうか。あるいは、現実性についての自分の考えを〔患者に〕押し付ける人なのだろうか。
この問いは、その宛先となった人たち〔=自我心理学者〕たちの姿に肉迫することのできる問いであるし、また、「語るのは誰なのか」という、私のセミネールの聴講生なら患者を代表して耳にたこができるほど聞いたであろう問いよりも避けて通ることが容易ではない問いなのである。私たちと同種の動物、と答えるとしたら、我慢ならない答えである。しかし、〔自我心理学者が〕この〔「語るのは誰なのか」という〕少し変えた問いに答えて、「私が moi」と答えるということは、それよりさらにいらいらするような同語反復である。

(Lacan, E591-592)筆者訳

この問いは、第一セミネールでも執拗に繰り返された問いである。例えば分析家が分析主体に語るように強いる「ディスクールの主体とは何なのか」(S1-Ja62)、「誰が語るのかという問い」(S1-Ja70)のように。それに対するラカンの答えがS-Aの象徴的転移の関係における解釈である。