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à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

自我心理学批判

ここでのラカンの自我心理学批判は、「二体心理学」(S1上, p.17,p.55)、「マーガレット・リトルの逆転移論」(ibid., pp.51-55)の二つに向けてのものである。

ラカンは、分析という状況において、分析家と患者(分析主体)のとる関係を考察することによって「被分析者と分析家の間の想像的相互反応」を研究することは大事な問題である、としつつも、それをバリントやリックマンがいうような「二体心理学」――つまり、分析という場で、分析家と患者の自我どうしが話すという2人だけの想像的な関係――に還元してしまうことは間違いである、とする。
この後でマーガレット・リトルの逆転移論文を参照するのは、想像的な関係のみで分析を行った場合、つまり二体心理学に基づいた分析を行った場合、どんな間違いが起こるか、ということを確認するためである。
ラカンは、二体心理学の想像的二者関係に、「第三の要素」を介入させるように言う。

第三の要素の介入なしには「二体心理学」などありはしないということを御存知のはずです。私たちの視点の中心としてパロールがしかるべく捉えられるとすれば、そして分析経験が十分に定式化されるとすれば、それは三者関係においてであり、二者関係においてではありません。

ラカン『フロイト技法論(上)』p.18

これは分析家と患者の想像的なディスクールの関係(=二者関係)に、象徴的な要素を導入するという意味である。しかし後にラカンは次のように言っている。

私がエゴからエゴへと呼ぶ防衛の解釈は、たとえそれがどんな価値を持つにせよ慎むべきものです。防衛の解釈においてはいつでも少なくとも第三番目の項がなくてはなりません。
実際には、もう一つなくてはなりません。皆さんにそれをお示しできればよいのですが、しかし今日は問いを立てるだけに留めておきます。

(ibid., p.55)

つまり、分析的状況は「四者関係」だと言うことである。このセミネールではまだ触れられていないが、この四者関係とは、もちろん「シェーマL」である。
ここで思わせぶりに終わらされた「分析状況の四者関係論」は、この次の年度の『自我』についてのセミネールの、特に「大文字の他者の導入」において発展させられ、『エクリ』の論文としては「フロイトの「もの」、あるいは精神分析におけるフロイトへの回帰の<意味>」と「治療の指導とその能力の諸原則」において展開されることになる。