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à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

ブルース・フィンクによる「抑圧」の解説

無意識についてまず第一に言うべきことは……、フロイトが言っているように、無意識は思考によって構成されているということだ。

――ラカン,Scilicet 1(1968):35


抑圧において本質的なことは……、抑圧されるのは情動ではなく、情動は移動させられて誤認されうるものとなるということである。

――ラカン,Seminaire XVII,168


 神経症を定義づける基本的規制は抑圧である。精神病者は自分の「汚れた洗濯物(内輪の恥)」をいとも簡単に露呈させ、精神病者以外では打ち明けることに恥じらいを覚えるような猥褻な感情や行為を、精神病者は公にする。これに対して、神経症者はそのようなものを見えるところから隠し、他者からも、自分自身からも見えないようにしてしまう。抑圧とは、このような事実と関係している。ラカンは、精神病者の状況は、己の無意識が世界すべてに見えるように表明されていること(a ciel ouvert)(注2)だと表現している。実際、ある意味では精神病者に無意識は存在しないのである。なぜなら無意識とは抑圧の結果生じるものだからである(注3)。
 抑圧の原動力がどのように説明されようとも――例えば、自分が自分を見る視点や自分の道徳原則に適合しない思考や願望が、自我や超自我によって心の外に追いやられる、あるいは続く要素にリンクしている一次的に抑圧された素材の「核」の牽引力によって追いやられることもあるし、その両方であることもある――、フロイトによれば、抑圧は人間の心を一度通り過ぎた知覚の記入の分離、あるいは頭をよぎった思考の記録の分離にいたる。このように、排除において理解されるような知覚や思考の完全な抹消という意味を、抑圧は全く含んでいないのである。フロイトが「否定」の論文で示したように、問題となっている現実性(例えば、場面の知覚)が既に精神(注4)によってあるレベルで受け入れられ肯定されていないかぎり、抑圧は起こりえないのである。精神病では、問題となっている現実性は、一度たりとも肯定されたり認められたりしていない――それは、排除、拒絶、拒否されているのである。神経症では、現実性はその基本的な意味で肯定されているが、意識の外に追いやられているのである。
 フロイトが夢の顕在内容と潜在内容を二つの異なった言語に例えるように(SE IV,277)、ラカンは無意識とは言語であり(Seminaire III,20)、私たちが即座に読むことができない一種の外国語であると主張している。フロイトの「抑圧」論文におけるもっとも厳格な定式化(これは他の箇所でも何度も繰り返されるが)にしたがって、ラカンは「抑圧されるものは知覚でも情動でもなく、知覚に付随する思考や情動が帰属する思考である(注5)」と主張する。言い換えれば、無意識は思考から構成されている。そしてその思考は、語として表現され公式化されるもの――つまり、シニフィアンに他ならない。情動と思考は、通常、その端緒においては結びつきリンクしている。しかし抑圧が起こると、情動と思考は互いに切り離され、おそらく思考が意識の外に追いやられる。
 落ち込んでいる、憂鬱である、不安である、悲しい、罪悪感に閉口している、などと訴える患者は、臨床家なら頻繁に眼にすることであろうが、彼ら患者はなぜ自分がそのような気分であるかを知らない。このことの理由は、情動と思考の分離が説明してくれる。あるいは、患者が自分の症状の理由を言える場合でも、彼を制圧している情動の力に比べてその理由は不相応であるように思える。情動は、それに関連していた思考が抑圧されたとき、頻繁に残存しており、症状が起こった患者個人は、その情動に対してその場しのぎの説明を与え、なんとかそれを理解しようとつとめる(注6)。情動の固執に付随して起こる思考の「忘却」は、特にヒステリーにおいて一般的である。
 それに対して、強迫神経症においてかなり一般的であるのは、思考(例えば、ある特定の幼年期の出来事の記憶)が意識にはっきりと現れ、情動はどんなものであれ全く喚起されない、という症例である。強迫神経症者は出来事は思い出すが、その出来事があったとき自分がとった反応や感情は思い出さないのである。このような症例でも、抑圧は本質的に、もともとは関連付けられていた思考と情動とのあいだの関連を分離する役割をしている。このような症例では、分析家は、関連付けの解かれた情動を、患者が分析的関係において今ここで転移することに頼らなければならない。この転移は、患者に暗示をかけたり、責めたりすることによってではなく、分析家ができるかぎり空白のスクリーンの役割を果たし、陽性の投影を陰性の投影とともに扱うことによってもたらされる。
 フロイトの鼠男症例を例にとってみれば、鼠男が子供時代に父親に対して忌まわしい感情を抱いたであろうということを、フロイトは早期に確信していた。しかし、幼年期の記憶からいかなる情動も誘発されることはなかった。しかし、『特性のない男』を具現化することによって、フロイトは分析主体(鼠男)に、分析的設定のなかでそれらの感情を再生産させ、極度に忍耐強い鼠男の父親の代役となったフロイトに対してたくさん口汚く罵らせることができた。(父親から分析家への)転移のおかげで、情動は前面に出てくることができるようになったのである。

(Fink, "A Clinical Introduction To Lacanian Psychoanalysis", pp.112-114)

このような導入から出発して、ヒステリーと強迫神経症の違いを追及し、もちろん最後にはラカニアンにはおなじみのヒステリーの問い「私は男かあるいは女か」、や幻想の公式(a◇A/、S◇a)などの議論を辿っている。
この文章を引用したのは、冒頭のエピグラフにもなっていること、つまり原抑圧されたシニフィアンが「思考」として扱われていること、を示すためである。「神経症において抑圧されるのは情動と切り離された思考」である、と。
このように考えることによって、原抑圧されたS1の代理としてS2、つまり症状が形成されていく、ということの意味が分かるようになる。