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à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

欲望:欲動=真理:知

スラヴォイ・ジジェク


ジャック=アラン・ミレールが指摘したように、「分析における構成の仕事」という概念は、分析家が常に正しいという(疑わしい)主張――もし患者が分析家の提示した構成を受け入れたなら、それがそのままその構成の正しさを立証することになり、もし患者がその構成を拒絶したなら、それは抵抗の徴であり、それゆえ、構成が真理に触れたことを証明することになるという主張――にもとづいているわけではない。ポイントはむしろ反対である――分析主体は定義からして、常に間違っている。このことを理解するためには、構成と、その反対物である解釈に注目するべきである。これはまた、知と真理の対立の相関物である。いうなれば、解釈というのは分析主体と分析家のあいだの承認の間主観的弁証法につねに組み込まれている身振りであって、それは特定の無意識の形成物(夢、症状、言い間違い)についての真理の効果をひきだすことを狙いとしている。主体は解釈者のシニフィカシオンのなかで自分自身を「認識する」よう期待されている。正確には、自分自身を主体化することを期待されている。それは、提示されたシニフィカシオン[解釈の意味]を「自分自身のものとして」引き受けることである(「おお、神よ、これが私だ、私はまさにこれが欲しかったのです」という具合に)。解釈の成功そのものは、解釈が分析主体の主体的位置にあたえる影響の程度によって引き起こされる「真理の効果」ではかられる(解釈は、これまでの深い外傷的な出会いの記憶をかき回し、暴力的な抵抗を引き起こすのだ)。構成(例えば、基本的ファンタスムについての構成)は、解釈とはまったく対照的に、絶対に主体化されえない知というステータスを持っており、主体によって自分自身についての真理として受け入れられる。この真理のなかで、主体は自分の存在の最奥の核を認識するのだ。構成は、「子供が叩かれる」という子供のファンタスムの第二段階のように、純粋に論理的で説明的な前提である。フロイトは、このファンタスムの第二段階が徹底的に無意識的なものであり、想起されえないことを強調していた。

この第二段階の空想は、もっとも重要で、重大な結果をもたらすものである。しかしある意味では、これは実際には存在しなかった空想と言えるのである――想起されることがなく、一度も意識されることがなかったのである。これは分析によって構成された空想であるが、だからといって必然性がないわけではない。*1

この段階が「現実的存在」を持たないという事実はもちろん、ラカンの現実界のステータスを示している。つまり、この段階において私たちが持つ知は「現実界の知」である。すなわち「無頭の」非-主体的知である。しかしそれは(いや、むしろまさにその理由から)ある種の「きみは、あれだ![Thou art that!]」である。それは主体の存在の核を表現している。すなわち、ラカンが「主体の脱解任[destitution du sujet]」と呼ぶものを経験する限りで、私は自分の基本的ファンタスムを受け入れるのだ。あるいは、別の言い方でいえば、解釈と構成は、症状とファンタスムに対応した位置にある。症状は解釈されるべきものであり、基本的ファンタスムは(再)構成されるべきものなのだ。「無頭の」知の概念は、むしろラカンの教えの後期になってあらわれる。この概念は、知と真理のあいだの関係が、70年代初期に意味深い転換を経てからのものなのだ。

「初期」の段階、つまり1940年代から1960年代にかけて、ラカンは標準的な哲学上の対立を協調させようとしていた。言表行為の主体の位置を無視してしまう「偽者の」知の客体化と、人が実存的にアンガジェされ、また影響される「本物の」真理との対立である。精神分析の臨床において、この対立は強迫神経症とヒステリーとの対比を、おそらく最もあざやかに例証してくれるだろう。強迫神経症者は真理のふりをして嘘をつく。事実的正確性のレベルでは、強迫神経症者の言表は原則として真であるが、彼はその事実的正確性を、自分の欲望についての真理を隠すために使っている。例えば、私の敵が車のブレーキの不具合から自動車事故にあったとしよう。私は自分がその敵の車の近くにはおらず、その不具合は自分には何の責任もないということを周りの皆に長々と説明する。この説明は真である。しかし、この「真理」は自分の欲望を自己が実現してしまったという事実を隠していることを宣伝してしまっている。反対に、ヒステリー症者は嘘のふりをして真理を言う。つまり、私の欲望の真理は、私のパロールの「事実的正確性」を歪めることにおいてこそ、真理そのものを分節化しているのだ。「これより開会します」という代わりに、「これにて閉会します」と言ってしまったなら、私の欲望は真理そのものをはっきりと開示している。こうして、精神分析治療の目的は、注意の焦点を事実的正確性から移動させ、そうとは知らずに真理を分節化しているヒステリーの嘘に(再)注目させ、真理の場に住む新たな知へと進展させることになる。真理を隠してしまう代わりに、真理の-諸効果を引き起こす知へと駒を進めるのだ。これは、50年代のラカンが「満ちたパロール」と呼んだ、主体の真理が反響するパロールである。このような真理概念はもちろん「事実的真理」の方だけを蔑む、キルケゴールからハイデッガーに至る長い伝統に属している。

しかし、60年代後半になると、ラカンは満足を引き起こす「無頭の」知のようなものとしての欲動にさらに注目するようになる。この知は真理への固有の関係を持っておらず、言表表現の主体のポジションも持たない――それも、この知が言表表現の主体のポジションを隠してしまうからではなく、この知がそれ自体主体化されないものであるからであり、あるいはこの知が真理の次元に対して存在論的に先立っているからである(もちろん、存在論は定義上、真理についてのディスクールであるから、存在論的という用語が問題となるのだが)。真理と知はこのように、欲望と欲動に関連している。解釈は主体の欲望の真理を目的とするが(エセ・ハイデガー主義者の手法で試みられるように、欲望の真理は真理への欲望である)構成は欲動についての知を提供するのである。
このような「無頭の」知の範例的ケースは、(死の)欲動の「盲目的執拗性」を例証している現代科学*2によって提供されているのではないだろうか? 現代科学(微生物学や遺伝子操作や粒子物理学)はコストを度外視してその道を歩んでいる――満足はここで知それ自体によって提供されており、科学的知はいかなる倫理や公共の目的にも奉仕していない*3。遺伝子操作や医学実験などについての適正な運営のルールを定めようとしている「倫理委員会」が近頃増えつつあるが、それらのすべての「倫理委員会」は、究極的には、内在的な限界付け(簡潔に言えば、科学的態度に内在的な倫理)を知らない科学の無尽蔵な欲動的-発展を再び刻み付けようとする必死の試みではないだろうか? 「倫理委員会」は人間の目的を制限し、科学に「人間らしい顔」という限界付けを与えようとしているのだ。近頃の凡庸な叡知は「科学装置を通して自然を操作する私たちの並外れた力は、生きがいのある存在を導くことが可能であり、この強大な力を使うための私たち人間の能力をも凌駕するものである」と言っている。一方,伝統的倫理では、人は適切な基準というスタンダードにしたがって人生を送るよう指導され、人生ののすべての側面を、《善》というすべてを包み込む考えに従属させられるのだから、「欲動を追う」現代倫理は、伝統的倫理と衝突する。もちろん、問題は、倫理についての二つの考えがバランスをとれないということにある。科学的欲動を生命の制限へと再び刻み付けるという考えは、最も純粋にファンタスム的なものである――これはおそらくファシストの基本的ファンタスムであろう。この類の制限はすべて、科学に内在的な論理とはまったく無縁なものである――科学は現実的なものに属しており、享楽の現実界の一つのモードとして、象徴化のモダリティにはそぐわないし、社会生活に影響を与えるようなやり方にもそぐわないのだ。

もちろん、科学の装置についての具体的な組織は、その最も抽象的な概念的図式にいたるまで、社会的に「仲介」されている。現代科学の家父長制的でヨーロッパ中心主義的で機械論的で自然-搾取的なバイアスを嗅ぎ分けるゲーム全体が、実際は科学に関わっておらず、また、科学的機械の操作において達成される欲動に関わっていないのだ。ここにおいてハイデガーのポジションはまったく曖昧なものに見える。なぜなら、科学が真理の次元をアプリオリに見過ごしてしまっているという主張をもっともソフィスティケートしたものを提唱しているとして、ハイデガーを退けるのはまったく簡単なことであろうからである。ハイデガーは単に「科学は考えない」とは主張しなかった*4。すなわち、科学は定義からしてみずからの哲学的基礎づけや、その機能についての解釈学的地平について思案することができない。付け加えるなら、この不可能性は障害ではまったくない。この不可能性こそが、円滑な機能をなしうるポジティヴな条件なのではないだろうか? ハイデガーの決定的ポイントはこうである――むしろ現代科学は、制限された存在的な「社会的に条件付けられた」(ある特定の社会グループに便宜を図るような)選択肢に還元できるようなものではなく、むしろ私たちの歴史的運動の現実界であって、あらゆる可能な象徴的宇宙において「同じものとして残り続ける」ものであるというところにある(「進歩」と「反動」、「技術化主義」と「エコロジカル」、「家父長制」と「フェミニスト」など)。ハイデガーはこのように、西洋の資本主義の支配と家父長制の重圧などの道具である科学に準ずるファッショナブルな「科学批判」が不十分なものであり、科学的欲動の「ハードな核」を不問にしていることを喝破していた。ラカンは、科学がもっとラディカルな意味においてすら「現実的」であることを私たちに教えている。科学とは、《存在》のエポックの歴史性というハイデガー的意味においてですら厳密に非歴史的であるディスクールの、初めての(そしておそらく唯一の)ケースなのである。すなわち、エポックの機能は、歴史的に決定される《存在》の開示の地平にとって本来的に無縁なのである。科学が「考えない」という限りで、科学は知り、真理の次元を無視する。もっとも純粋な状態の欲動のように。ラカンがハイデガーに付け加えたことは、このようになる――現代科学において作動しているこの断固とした「《存在》忘却」を大きな「危険」としてのみ捉えるべきであろうか? 「《存在》忘却」は「解放する」次元を含んでいないだろうか? 科学の解放的機能における存在論的《真理》の差し止めは、形而上学の封鎖地帯をすでに「乗り越え」「通り過ぎ」ているのではないだろうか?

精神分析についていえば、絶対に主体化されえないこの欲動の知は、主体の「基本的ファンタスム」についての知、つまり人間が享楽へとアクセスすることを制限する特定の公式についての知の形式を担っている。言い換えるなら、欲望と享楽は先天的に対立物であって、排他的ですらある。つまり、欲望のレゾン・デートル(あるいはリチャード・ドーキンス*5の用語を使えば「効用関数」)は、そのゴールを達成し十全な満足を得ることではなく、それ自体を欲望として再生産することにある。それでもなお欲望と享楽とをカップルにし、欲望の範囲内で最小限の享楽を保障するにはどうしたらよいだろうか? これは有名なラカンの対象aによって可能になる。対象aは欲望と享楽という両立しない領土を仲介するのだ。対象aが欲望の対象-原因であるということの正確な意味とは何か? 対象aは私たちが欲望するものでも追従するものでもない。それはむしろ、私たちの欲望を起動させるものであり、欲望に一貫性を授与する基本的枠組みなのだ。欲望はもちろんメトニミー的なものであり、ある対象から他の対象へとシフトしていく。しかし、その移動を通じて、欲望はそれでもなお最小の形式的一貫性を保っており、実定的対象に出会う私たちに、この対象を欲望するようにさせるファンタスム的な特徴の集合を保っている。欲望の原因としての対象aは、この一貫性の形式的枠組みに他ならない。やや違った方法において、同じメカニズムが、主体が恋に落ちることを支配している。愛のオートマティズムは、何らかの不慮の出来事が、究極的に相容れない(リビード的)対象が、既に与えられているファンタスムの位置を占めていることを発見するときに起動するものである。愛の自動的な出現におけるこのファンタスムの役割は、「性関係はない」という事実をその条件としている。パートナーとの調和的な性関係を保障する公式やマトリックスは何もないのである。普遍的公式の欠如のために、すべての個人が自分自身のファンタスムを、性的関係の「秘密の」形式を発明しなければならない。男性にとっては、女性との関係は、女性が彼の公式にフィットする限りでしか可能にならない。フロイトの患者として有名な狼男の公式は、「後ろからみて、手と膝をついて、地上にある、彼女の前にあるものを何かを洗うか、きれいにする」であると考えられる。女性がそのポジションにいるところを見れば、自動的に愛が発生するのだ。ジョン・ラスキン*6の公式はギリシアとローマの塑像モデルにならったものである。結婚初夜の最中に、ラスキンが塑像に陰毛がないことを見たときに、この公式は悲喜劇的な落胆に導かれた。この発見はラスキンを完全に不能にしてしまった。それ以来、ラスキンは妻をモンスターだと考えるようになった。

最近、スロヴェニアのフェミニストが日焼けローションの広告ポスターに怒り心頭の反応を示した。そのポスターはピチピチの水着に身を包んだ、よく日焼けした女性たちが並び、「それぞれが自分のファクターを持っている[Each has her own factor]」とのスローガンが添えられていた。もちろん、この広告キャンペーンは卑猥な二重の意味に基づいている。このスローガンはうわべでは、様々な種類の肌にフィットする様々な日焼け防止指数[ファクター]*7を顧客に提供していると言っているのである。しかし、そのスローガンの効果は、偏執的男性優位主義者的な読解に基づいているのだ。つまり、「女はそれぞれのファクターを持っており、男がそのファクター、彼女だけの触媒、彼女を性的に興奮させるものが何であるかを知ることによって、男は女を手に入れられる」ということである。基本的ファンタスムについてのフロイト派的要点は、すべての主体が、男女の別に関わらず、自分の欲望を制御するこのような「ファクター」を所有しているということである。「後ろからみて、手と膝をついている女性」が狼男のファクターであった。塑像のように陰毛のない女性がラスキンのファクターであった、等々。私たちがこの「ファクター」に気づく励みになるようなものは存在しない。この気づきは、主体化されえないものであり、不可思議であり、ゾッとさせるものですらある。なぜなら、それは主体をいくらか「退陣させる」ものであり、「尊厳と自由の彼岸」*8にある操り人形のレベルへと主体を還元してしまうのである。



Slavoj Zizek, Desire: Drive = Truth: Knowledge, UMBR(a) no.1, 1997, pp.147-152.
ttp://www.lacan.com/zizek-desire.htm


以下、特に断りのない注は訳者がつけたものである。

*1:原注1、Sigmund Freud, "A Child Is Being Beaten," Standard Edition, vol. 10, p. 185. 邦訳は『自我論集』p.83等。

*2:原注2、see Jacques-Alain Miller, "Savoir et satisfaction," in La Cause freudienne 33, Paris 1996.

*3:ラカン 「科学と真理」での科学の位置づけを参照。

*4:マルティン・ハイデガー『技術論』,理想社,1965.

*5:精神分析とドーキンスの関係については、ジャック=アラン・ミレールによる刺激的な示唆がある(Biologie lacanienne et evenement de corps , Cause freudienne, 44, pp. 7-59. )。ミレールによれば、その起源はフロイトの「快原理の彼岸」で引用されるヴァイスマンによるジャームとソーマの対立に起因し、ラカン派生物学というテーマを形成している。

*6:ジョン・ラスキンは幼女趣味を持っていたと言われる19世紀イギリスの評論家・美術評論家。

*7:いわゆる「SPF」のFは「ファクター」である。

*8:"Beyond Freedom and Dignity"は、行動分析学B.F.スキナーの『自由への挑戦 : 行動工学入門』の原題。