読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

フロイトの無意識における主体の壊乱と欲望の弁証法

訳稿

Subversion du sujet et dialectique du desir dans l'inconscient freudien


(……)
E800
 無意識におけるランガージュの構造が認識されたなら、そこにどのような主体を思い描くことができるでしょうか?
 方法的な配慮から、「私」の厳密な言語学的定義である転換子[shifter]から始めることにしましょう。転換子あるいは直接法[indicatif]のみが、言表[enonce]の文法的主体から、いままさに話しているものとしての主体を指示しているのです。
 いいかえれば、「私」という転換子は、言表行為[enonciation]の主体を指示している[designe]のです。しかし、それは言表行為の主体を意味している[signifie]ということではありません。このことは、言表のなかに言表行為の主体のシニフィアンが一つもないという事実から明らかです――「私」から区別されるような〔言表行為の主体を意味する〕シニフィアンがある、と言っているのではありません。また、不十分にも一人称単数と呼ばれているもの〔=「私」〕だけではなく、たとえ複数形の召喚や自己暗示の《自己》さえ考慮したとしても、言表行為の主体のシニフィアンを見つけることはできません。
 私たちは、例えば文法家によって虚辞のneと呼ばれているシニフィアンによって、言表行為の主体を見つけたと考えています。(……)

 すなわち、無意識の主体が問題になっているとき、これ〔=言表行為の主体〕は「誰が話すのか」という問いに対する正しい答えなのです。もし主体が自分が何を言っているか知らない、あるいは自分が話していることすら知らないとすれば、分析経験が私たちに教えてくれるように、この答えは主体からでてくることができません。
 「相互に-言う[inter-dire]〔=禁止[interdire]〕」の場所、これは二つの主体が「内部で-言う[intra-dire]」によって構成されますが、その場所こそが古典的主体の透明性が分裂する[se divise]場所です。そこでもっとも純粋なシニフィアン〔ファルスのシニフィアンのこと。〕によって主体が隠されることによって、フロイト的主体を明らかにする消失の効果が起こっているのです。この消失の効果は、いい間違いと機知が結託して区別不能になる境界へ私たちをつれていきます。あるいは、存在をその隠れ家へと追い立てる省略がもっと暗示的になる境界にすら私たちをつれていくのです。この場所は、人びとが現存在[Dasein]を捕まえること[chasse]をしなくなったということに私たちが驚かされる場所です。

E801

 私たちの〔主体を〕捕まえること[chasse]を空しいものにしないために、私たち分析家は、すべてをディスクールのなかの裂け目[coupure]の機能に連れ戻さなければなりません。もっとも重要なものは、シニフィアンシニフィエにあいだに斜線[barre]を作る裂け目です。その場所で私たちが興味をもっている主体に出会うことができます。なぜならその場所で主体がシニフィカシオンにおいて束ねられることによって、前意識にひっかかっているからです。このことは私たちを逆説的な着想に導きます――分析のセッションにおけるディスクールは、〔話し続けるということではなく、〕よろめく、あるいは中断されるということにおいてのみ価値のあるものです。セッションはそれ自体、偽のディスクールへの侵入です。つまりディスクールがパロールとして空虚なものになったとき、ディスクールが実現しているものにセッションは侵入するのです。いいかえれば、ディスクールマラルメの語る人の手から手へと《沈黙のうちに[en silence]》渡される擦り減った貨幣でしかなくなったとき、セッションは侵入するのです。
 シニフィアン連鎖によって作られるこの裂け目は、現実界と不連続なものである主体の構造を証明する唯一の裂け目です。言語学者はシニフィアンシニフィエの決定要因としてみることを可能にしましたが、分析はそのディスクールの決定要因を意味する穴を作ることによって、このシニフィアンシニフィエの関係の真実を明るみに出したのです。
(……)