à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

ランガージュと他者性

The Lacanian Subject: Between Language and Jouissance
The Lacanian Subject: Between Language and Jouissance

《他者》の言い間違い

 ある患者が彼の分析家のオフィスを訪れ、肘掛け椅子に腰掛ける。患者は分析家の目をまっすぐに見つめ、前回のセッションの終わりに中断した部分から話の筋を再開する。そしてすぐに次のように言ってしまうという大失敗を犯す――「私は父との関係において、たくさんの緊張があったんです。その緊張は、父がschnobで極度の働きすぎで耐えられなくなり、私にやつあたりをしたからだと思うんです」。患者は「仕事jobで」と言おうとしたのだが、その代わりに「schnobで」という言葉が出てきてしまったのだ。

 ディスクールはひとつの次元だけのものでは決してない。言い間違いは、即座に私たちに次のことを思い出させる――複数のディスクールが、一つの口を使って同時にしゃべることができる。

 ここには二つの異なったレベルが区別できる。一つは話し手が言おうとした、あるいは意味しようとしたものから構成される意図的なディスクールであり、もう一つはこの事例のように変形された、あるいは改竄された単語――「job」と「snob」の混合のような、あるいは他の同じような単語――の形式をとる、非意図的なディスクールである。例えば、話し手は家族のなかの最年長の子供、つまり彼の兄や姉のことを退廃的な俗物と考えていて、父はその兄や姉を極端に溺愛していると感じている、ということを分析家はすでに知っているかもしれない。患者は、患者つまり被分析者(すなわち、自分を分析することを分析家に依頼してきた人物)がかかわる範囲で、その兄や姉に責任があると考えているのだ。あるいは、被分析者は魔女の鼻を思わせる父の鼻を恐れていた若かりし子供時代を思いだして、「鼻schnoz」という単語のことを考えていたのかもしれない。「嫌なやつshmuck」という単語もまた患者の頭の中に浮かんだかもしれない。

 このような単純な例からしてすでに、ディスクールの二つの異なったタイプを区別すること、もっと単純に言えば、語りtalkの二つの異なったタイプを区別することができる*1

  1. 自我の語り――つまり、私たちが意識的に考えていることや、自分自身に関して信じていることに関する日常の語り
  2. 他の幾種類かの語り

 ラカンの言う《他者》は、その最も基本的なレベルではこの他の幾種類かの語りに関係している*2。そのために、二つの異なった種類の語りだけがあるのではなく、それはおおまかに言って二つの異なった心理学的な場所――つまり、自我と《他者》――から来ているのだ、と暫定的に主張してみることができる。

 精神分析はその《他の》種類の語りが、いくつかの意味に位置づけられる他者から由来しているという前提から出発する。つまり、口に出されたり、うっかり言ってしまったり、ぶつぶつ言われたり、捻じ曲げられたりした非意図的な単語は他の場所、つまり自我ではなく何か別の審級から由来している、という前提である。フロイトはその《他の》場所を無意識と呼び、ラカンは「無意識とは《他者》のディスクールである」*3というまったく不明確なところのない言葉で定式化した。つまり、無意識は自我が語るのとは別の場所から出てくる諸々の言葉から構成されているということだ。この最も基本的なレベルでは、無意識とは《他者》のディスクールである(表1.1)。


表1.1

自我のディスクール 《他の》ディスクール/《他者》のディスクール
意識的 無意識的
意図的 非意図的


 では、この《他の》ディスクールはどのようにして私たちの「内部に」関わってくるのだろうか? 「人は日頃は自分自身に管理されているが、たまに他者的 foreignな無関係の何者かがあたかも私たちの口を使って話す」というふうに私たちは信じる傾向にある。自我の観点から言えば、「私I」はショーを行っているのだ。つまり、私たちが「私」と呼ぶ私たちの心のイメージは、「私」が何を考え、何を感じているかを知っていると信じていて、そして「私」が何をするのか何故そうするのかを知っていると信じているのだ。しかし、そこに侵入してくる要素――《他の》種類の語り――は脇に押しやられていて、でたらめで、それゆえ究極的には因果関係を持たないと考えられている。人々はしばしば言い間違いとは話し手が口ごもったり、単純に口が動くより速く脳が回転したり、興奮して二つの言葉を一つの遅い口から同時に出そうとして生じるものと考えるのである。このように言い間違いは自我にとって他者的 なものと認識されはしても、その重要性はまったく省みられていないのである。多くの場合、言い間違いをした人はおそらく「私はでたらめで無意味なヘマをしただけです」と言うだろうが、フロイトはこう反論する――「真実が言われたのですよ」。

 多くの人々が自我のディスクールをすり抜けて割り込んでくる《他の》ディスクールを特に重大視していないのに対して、精神分析家は、狂気に見えるようなもののなかにも秩序があり、《他の》ディスクールの侵入の背後には完全に識別可能な論理が存在すると考えている。言い換えれば、どんなものであれ言い間違いにはなんらでたらめなものはない、と考えているのである。分析家は狂気のなかに秩序を見つけようと探求している。なぜならば、《他の》ディスクールの侵入を支配する論理を変えることによってのみ、つまり《他の》ディスクールに影響を与えることによってのみ、変化が生じるからである。

 フロイトは『夢、機知の解釈とその無意識との関係』『日常生活の精神病理学』という著作に膨大な時間を費やして、彼が大胆にも「無意識の思考」*4と呼んだものを支配する機制(メカニズム)を解明した。「無意識における文字の審級(『エクリ』所収)」と題され広く読まれている論文において、ラカンはフロイトの置き換えと圧縮という典型的な夢の作業が、言語学における換喩と隠喩という概念と関連していることを指摘した。しかしラカンは決してそこで止めたわけではない。彼は無意識の機制を解読するためのモデルを当時発達していたサイバネティクスの領域に求めつづけたのである。第2章において、エドガー・アラン・ポーの小説「盗まれた手紙」に含まれている着想と、1950年代のサイバネティクスによってインスパイアされた着想を並置するラカンの考えを詳細に検討する。ラカンのポーに関する仕事は無数の文芸批評家によって注釈されている*5が、そこから起因している無意識の仕事についてのラカン独自の思索は、ほとんどの評論家に無視されている。

 この章では、どのように《他の》ディスクールが働くのかについてではなく、むしろ、どのようにしてそこに現れるのかに焦点をあてる。どのようにして《他の》ディスクールが私たちの「内部に」現れるのだろうか? どのようにして外部にあって無関係に見える何者かが私たちの口を通して喋ることに関わることになるのだろうか?

 ラカンは他者性foreignnessというものを以下のように説明する。私たちはディスクール――私たちの誕生に先行し、私たちの死んだ後も残り続けるであろうディスクールあるいはランガージュの世界に生まれる。一人の子供が生まれるだいぶ前に、その親の言語学的空間のなかに一つの場所が用意される。つまり、親は子供がまだ生まれないうちから子供のことを話し、その子供にぴったりの名前を選ぼうとし、その子供の部屋を用意し、一家にメンバーが加わることによって生活がどのようになっていくかを想像しはじめる。子供のことを話すために彼らがよく使う言葉は一世紀には及ばないにしても、しばしば何十年も使われる。親はその言葉を長年の使用にもかかわらず定義したり定義しなおしたりしないのが普通である。その言葉は何世紀もの伝統によって親に伝えられてきたものである。つまり、その言葉はランガージュの《他者》(ラカンがフランス語で言うl'Autre du langage)、私たちが言語学的な《他者》、あるいはランガージュとしての《他者》として表現しようとしているものを構成しているのである。

 丸い円を描いて、それがランガージュに含まれるすべての単語の集合を表しているとすると、ラカンが《他者》と呼ぶものを思いおこすことができる(図1.1)。それはランガージュに含まれるすべての単語と表現の集積としての《他者》である。この図ではむしろ静的に見えるが、英語のような言語と同様に、《他者》も常に発展していて、新しい言葉が毎日のように加えられ、古い言葉は使用されなくなるが、《他者》は最初と同じ輝きをもって私たちの現在使う意味を十分に供給していくであろう*6


図1.1
f:id:lacanian:20070419182720g:image


 したがって、子供は親の言語学的空間にあらかじめ設立された場所、何年もではないにせよ、何ヶ月ものあいだ準備されていた場所に生まれる。そしてほとんどの子供たちはその親によって話されるランガージュを学ぶよう強制される。言うなれば、自分の願望wishを表現するために、事実上、子供は泣き叫ぶ段階――子供が何を欲しがり欲求しているかを親が推測しようとせねばならない段階――を通り抜け、自分が何を欲しいのかを最初の世話人である親に理解できるようにたくさんの言葉を使って言うように努力することを強要されるのである。しかし、子供の希求wantはまさにこの過程によって型にはめられる。なぜなら、子供が使うように強要された言葉は彼ら自身のものではなく、必ずしも彼ら固有の要求demandと一致するとは限らないからである。つまり、子供の欲望はランガージュあるいは彼らの学んだランガージュという鋳型によって形成されるのである(表1.2)。

表1.2
f:id:lacanian:20070419182740g:image


 ラカンの見解はさらにラディカルである。ランガージュの同化以前には、子供が自分は何を欲しがっているのかを知っていると言うことすら可能ではない、というのだ。赤ん坊が泣くとき、その泣くという行為の意味は、子供が表現しようとしているように見える痛みに親や世話人が名前を付けようと試みることによって提供されるのである(例えば、「この子はお腹が空いているに違いない」という風に)。おそらく一般的な種類の不快感、寒さ、痛みなどは存在するだろうが、しかしその意味するところは、子供の親によって解釈された方法によって、いわば押し付けられるのである。もし親が、泣いている赤ん坊に食べ物を与えることで対応すれば、その赤ん坊の不快感、寒さ、痛みは遡及的に空腹の苦しみとしての空腹を「意味して」いたと決められるのである。赤ん坊が泣いていることの裏にある真の意味は、彼が寒がっているということだ、と決して人は言うことができない。なぜなら、意味というのは潜在的な帰結だからである。つまり、泣いている子供に食べ物を与えることで対応すれば、子供のすべての不快感、寒さ、痛みは常に空腹へとすりかえられてしまうのである。それゆえ、この状況における意味とは赤ん坊が決めるのではなく、他の人々によって彼らの話すランガージュの基盤にもとづいて決まるのである。このことについては後にもう一度考察する。

 ランガージュとしての《他者》は、言葉にならず泣き叫ぶことしかできず、良くも悪くも解釈されることしかできない欲求needと、受け入れられないにかもしれないにせよ社会的に理解される用語によって欲望desireを言葉にすることのあいだに走る亀裂を埋めようとして、多くの子供に取り入れられる(自閉症の子供たちはこの規則の最も注目すべき例外である)。この意味において、《他者》は突然不運にも私たちの願望wishを変形させる、こっそり悪事を働く招かれざる侵略者のように見える。しかし同時に、この《他者》がお互いに私たちの欲望desireを理解させる手がかりを提供し、「コミュニケーション」をすることを可能にしているのである。

 遠い昔の時代から、人々はランガージュというものが発明される以前の時代に対する郷愁を抱いてきた。例えば、ホモ・サピエンスがランガージュを持たず、そのため欲求needや望みwantを汚染されたり複雑にされたりされずに動物のようにして生活していたと想像されるような時代を。原始の人間の美徳とランガージュの影響によって乱される前の彼らの生活にたいするルソーの賞賛は、そういった郷愁の作業のうちでもっとも良く知られたものの一つである。

 このような郷愁の観点にあっては、ランガージュは数多くの厄災の元凶であると考えられる。人間は本来は善良で愛情に満ちあふれた優しい存在であり、ランガージュこそが不誠実や嘘つきや欺瞞、事実上人間という種や仮定上の地球外生命体のせいにされるその他すべての過失を引き起こすというというように考えられるのだ。このような視点からは、ランガージュは運悪く押し付けられたり移植されたりした他者であり、ランガージュさえなければ人間の性質は健全であったと明確に見なされる。

 ルソーのような著述家はラカンが人間のランガージュにおける疎外と呼んだものをみごとに表現している。ラカン派の理論によれば、話すことを学ぶすべての人間存在は、学ぶことによって自分自身から疎外されるという――なぜなら、ランガージュこそが、欲望desireが存在のなかに入ってくることを許すのだが、ランガージュはそこに結び目を作り、私たちを、一つのものや他のものを望んだり望まなかったりでき、望んだと思っていたものが手に入ったときにも満足することのないような存在にしてしまうのだ。

 子供にとってランガージュは私たちが知っているような世界の中で生きていくのに事実上欠かすことができないものであるが、子供がランガージュを学ぶとき、《他者》はそのとき裏口に隠れているように見える。《他者》は本質的に無害で純粋に実用的なものと考えられていえるが、ランガージュは人間に疎外の基礎的な形式をもたらす。自分の母国語を学ぶということは疎外の一部であるのだ。私たちが今まさに使った「母国語mother tongue」という表現自体が、それがまず何か《他者》の言語Other’s tongueであり、母=《他者》の言語mOther’s tongueであり、つまるところ、母=《他者》のランガージュmOther’s languageであるという事実を暗示している。子供時代の経験について言えば、ラカンは事実上《他者》と母親を同等物と見なすことがしばしばあった(疎外に関しては第5章でより詳細に扱う)。

無意識

 さて、これまで私たちは完全に自分自身のものだと思われるのが常だった母国語の他者性、言い換えれば、私たちがこれまでできる限り自分のものにしようと努力してきたものについて説明してきた。これらの母国語は自我のディスクールの構成要素であり、普通考えられているよりもずっと他者的で疎外的であることが分かった(表1.3)――ここからは、自我のディスクールよりさらに他者的であるようにみえる《他の》ディスクール、つまり無意識について説明していく。自分や他人との普通の会話のなかで自分自身について話すディスクールである自我のディスクールは、このランガージュという《他者》の存在が浸透しているため、私たちが考えているのとは違って、私たちを真に映すにはすでに程遠いものである。ラカンはそのことを、自我は一つの他者であると明確に表現する*7


表1.3

自我のディスクール 《他の》ディスクール/《他者》のディスクール
意識的 無意識的
意図的 非意図的
ランガージュによって疎外されている  

 当の個人が、外部の人間、他の人間よりも他者的でないということが究極的にあるだろうか? もっとも親密である自分自身について私たちが知っていると思っていることも、実際には他人に対するいいかげんな想像と変わりないかもしれない。私たちの自分自身についての理解は、他人の私たちについての理解のように間違っていたり突飛であったりするかもしれない。実際には、他者は私たちが自分自身について知っているよりもずっと多くのことを知っているということもあるのだ。自我の概念――人格の最も深い部分の一種である――はまさしく、ここにおいて崩壊するように思える。自我の他者性と私が呼ぶものについては、4章で再び扱うことにする。ここでは全ての他者のうち「最も他者的」なもの、つまり無意識について説明しよう。

 ラカンはごく簡潔に無意識とはランガージュであるという。無意識を作り上げるものがランガージュであるという意味である*8フロイトは感情を無意識だと考えていたと誤解している人も多いが、そうではなく、多くの著作においてフロイトは、抑圧されたものが代理表象Vorstellungsrepräsentanzen(英語では通常、ideational representativeと訳されている)と彼が呼んだものであると考えている*9フロイトの著作のもとになっているドイツ哲学の伝統の基盤と、フロイトのテクスト自体の綿密な研究に基づいて、ラカンはVorstellungsrepräsentanzenを表象の代表représentants de la représentaionと仏訳する。そして、これらの表象は言語学でいうシニフィアンと等置することができるとラカンは結論づける*10

 ラカンのフロイト解釈によれば、抑圧が起こったとき、隠喩的にいえば、単語あるいは単語の一部が「下に沈み込む」*11。その単語は抑圧の結果、意識から手の届かないものになるわけではなく、実際は日常の会話でまったくよく使われる単語になる。しかし、まさに抑圧されたという事実によって、その単語や単語の一部は新たな役割を担いはじめるようになるのだ。その単語は他の抑圧された要素と関係をつくり、結合の複雑な集合に発展する。

 ラカンが何度も繰り返し語ったように、無意識は一つのランガージュのように構造化されている*12。言い換えれば、無意識的な要素のうちには、ランガージュと同じ種類の関係が存在している、ということだ。以前使った例に戻れば、「job」と「snob」は同一の音素と文字(これはそれぞれ、話したり書いたりするための基本的な単位である)を含んでいるために関連付けられている。私たちが分析している被分析者自身によって意識的に関連付けられていなかったとしても、無意識のうちで関連付けられているのである。「保護conservation」と「会話conversation」という二つの単語を取り上げてみよう。これらはアナグラム、つまり、同じ文字を含んでいて文字の出てくる順序のみが違うものである。自我のディスクールはこのような単語の文字上の等価性――二つの単語が同じ文字を含んでいると言う事実――を完全に無視するだろうが、無意識は夢や幻想のなかである単語を他の単語に代理させたりするように、その細部に注目しているのである。

 無意識は一つのランガージュのように構造化されていると言うことによって、ラカンは無意識が英語や他の古代や現代のランガージュとまったく同じように構造化されていると言ったわけではなく、ランガージュは無意識のレベルで作用するように、ある種の文法、つまりその中で起こる変形とずれを支配する規則の集合に従うと言ったのである。例えば無意識は、単語をその最も小さな単位――音素や文字――に分解し、フィットするように再結合させる傾向がある。例を挙げれば、job、snob、schnoz、schmuckの観念を一つの単語で表そうとして、以前見た「schnob」という単語が現れたのである。

 次章で見るように、無意識とは単語、音素、文字のようなシニフィアン要素の「連鎖」に他ならない。それらの要素は自我にはどうやっても制御不能である緻密な規則に基づいて「展開」される。主体性は特権的な席なのではなく(後に触れる「無意識の主体」という表現は除く)、ラカンが理解するように、無意識とはそれ自身《他者》なのであり、他者的であり、同化していないのだ。私たちの多くは、フロイトがしたように、「job」の代わりに「schnob」と言った被分析者は自分の本音を明らかにしたのだ、と考える。つまり、年上の兄弟姉妹にばかり気を遣って、自分に十分に構ってくれない父親に対する不満と、事態が逆になることを願う願望とを。その欲望は、被分析者が「自我のモード」のときに言った他の欲望(例えば、「私はもっと良い人になりたい」など)より本当であると考えられるかもしれないが、いずれにせよ他者の欲望、つまり《他者》の欲望に違いないのだ。「schnob」と言った被分析者は、実際父親のことを最低なやつschmuckと感じていたのは母親で、父親が彼のことを無視していると、母親が被分析者に何度も伝えた、という話を続けるかもしれない。つまり、被分析者は自分が父親を愛することをやめて、そして母親を喜ばすためだけに父親を不快に思うようになった、と気づくようになるかもしれない。「私は父親を非難したいのではない」、被分析者はこう結論するかもしれない、「母親が父親を非難したがっているのだ」。この意味において、私たちは無意識を日常の会話への侵入を通じて、他者的で同化していない欲望を表現しているものとして考えることができる。

 欲望がランガージュに住まう範囲で――ラカン派の枠組みにおいて厳密に言えば、ランガージュなしの欲望というものは存在しない――、無意識はこのような他者の欲望で満ちていると言うことができる。多くの人は、ときどき自分自身が本当に欲しがっていないもののために働いていると感じたり、自分自身が承認していない期待や公約したわけでもない目標を果たすために懸命に努力していると感じるたりすることがある。その目標を成し遂げるだけの動機はほとんどない、ということを自分自身は知っているのだ。無意識とは、このような意味で、他者の欲望other people’s desiresによって溢れかえっている。他者の欲望とはつまり、自分の両親の欲望であり、おそらくは学校で学び、就職して引きつづき学んでいった欲望である。また、結婚し身を固め曾孫を見せに行くことになる祖父母の欲望である。あるいは、自分はまったく興味のない活動に参加せねばならないという隣人からの圧力である。このような場合、一方では「自分自身のもの」にしていく欲望があり、他方では裏で糸を操つりときどき行為を強要するが、自分自身の欲望ではまったくない欲望があるのである。

 《他者》の目的と欲望はディスクールを通じて私たちに流れ込んでいる。この意味において、ラカンの無意識とは《他者》のディスクールであるという説明を直線的な方法で解釈することができる。つまり、無意識は他者の話talk、他者の会話conversations、他者の目標goals、他者の願望aspirations、他者の幻想fantasiesに満ちている(それらが言葉で表現される範囲で)と解釈するのである。

 その話は、「私たち自身」のなかでいわばある種の独立した存在になっていく。《他者》のディスクール――他者の話――の内面化の明確な例は、通常、良心や罪悪感と呼ばれ、フロイトが超自我と呼んだもののなかに見つけることができる。想像してみよう、これは純粋な虚構の出来事だが、アルバート・アインシュタインがおそらく彼に聞かれることを意図していなかった会話を小耳に挟んだ。アルバートの父親が母親に「あいつは絶対に何にもなりゃしないよ」*13と言ったのだ。母親はそれに同意して、「その通り、あいつは父親に似て怠け者だ」と言った。アルバートはまだ幼くその言葉の意味するところを理解したり、両親の意味を予測したりすることもできない、ということを私たちは想像することができる。それにもかかわらず、彼らは結局どこかに記憶し、何年間もその記憶を寝かしておくことになる。その記憶は高等学校で成績を上げる際に再活性化され執拗にアルバートを悩ますことになる。その言葉は最終的にアルバートが高等学校の数学の試験で失敗したときに意味を与えられ、彼を痛めつけることになる――物語の一部分は外見上、真実である――アルバートの物事を理解する能力にまったく欠陥がなかったとしても。

 私たちはいまや二つの異なった状況を想像することができる。一つは、アルバートが試験を受けるために席に着いたとき、「あいつは絶対に何にもなりゃしないよ」「その通り、あいつは父親に似て怠け者だ」と父親と母親が言う声が聞こえ、ひどく気持ちが動転し、最終的にその言葉の意味を理解すると、試験の問題にまったく答えられなくなる、というものだ。第二の状況は、その話は意識的に記憶していないが、それにもかかわらずアルバートに第一の状況と同様の効果をもたらすというものである。言い換えれば、中傷的な発言は無意識の中で循環し、働き、気持ちを動転させ、若きアインシュタインの短絡的意識に拷問を与えたのだ。アルバートは彼の前に置かれた机の上の試験を見つめて、突然めまいのようなものに襲われ、それが何故なのかはまったく分からない。おそらく彼は試験前5分間の感覚的な過去と未来を知り、突然、不可解にもどんなものであれ集中することができなくなったのだ。このようにして、意識的に知らないうちに父親が作り上げていた「あいつは絶対に何にもなりゃしないよ」という予言にアルバートは知らないうちに満たされる。そして、この虚構の出来事のなかで、あのとき父親は隣の家の子供のことを「あいつは絶対に何にもなりゃしないよ」と言っていたのだ、と仮定してみると、なんとも皮肉なことである!

 ラカンはいかにしてこのような状況が可能になるのかを説明しようと試みる。つまり、とても緻密な規則(以降の章で示されるのと同様の)に基づいて展開されるシニフィアン要素の連鎖としての無意識が、「いや、あの少年は何にもなりゃしないよ」と父親はたった一度しか言っていないのに、その言葉を「アルバートに」ついてのものだと記憶する、といったような記憶装置をどのようにして構成するのか、ということを説明しようとするのである。アルバート自身は、父親が誰かについて言ったことをまったく覚えていないかもしれないが、シニフィアンの連鎖が彼の代わりに覚えていたのだ。無意識は数え、記録し、すべてを書きとめ、貯蔵し、どんなときにでもその「情報」を引き出してくる。ここにラカンによるサイバネティクスとの類推が入り込んでくる*14フロイトは無意識の要素について、それは破壊不可能であると言った。厳密に構成されていて、特定のニューロンの経路が一度成立すると、根絶されることは絶対にない、というのが灰白質の性質ではなかっただろうか? ラカンの答えはこうだ。象徴秩序のみがその結合規則を通じて、会話を永久に強奪しつづけていくために必要な手段を持っている*15

 この最も基本的なレベルにおいて、《他者》は私たちが話すことを学ばねばならない他者のランガージュ〔=外国語foreign language〕、これは婉曲的に私たちの「母国語native tongue」として扱われるのだが、これはむしろ私たちの「母=《他者》のランガージュmOther’s language」と言った方がよい。つまり、それは前者が内面化される範囲での私たちの周りのディスクールと他者の欲望なのである。「内面化」という言葉で、私はそれらが自分のものになる、ということを主張しているわけではない。むしろ、内面化されたにもかかわらず、それらはある意味で他者の身体として残存する。それらはとても他者的で、とても疎遠で、主体性から取り残されたものとして残るかもしれない。このような他者的な存在を取り除こうとするならば個体は自殺を選ばねばならないだろう。これは明らかに極端な事例だが、しかし個人の中に入り込んだ《他者》の圧倒的な重要性を示している。

他者の身体

 《他者》は、構造主義として知られる思潮のなかで構造と呼ばれているものと一致する。ここで、身体の中で作用している構造について私たちに分かる範囲で追ってみよう。これは、骨の構造や神経系に含まれる生体の構造という意味ではなく、身体がランガージュの賜物であり、象徴秩序の賜物であるということを証明するという意味である。私の以前治療したある患者は、絶えず変化する過剰な心因性の症状を訴えていたが、それにもかかわらず、一つ一つの症状は患者自身をあわてさせ、かかりつけの医者のところへ行くように促すのに十分長い時間持続していた。ある時、被分析者は彼の友人が虫垂炎の急患で、危機一髪で救急治療室へ運び込まれたということを聞いた。被分析者は彼の配偶者に身体のどちら側に虫垂があるのかとたずね、妻は彼にそれを教えた。それからしばらく経って、被分析者は奇妙なことに身体のまさにその側に痛みを感じはじめたのだ。その痛みは持続し、被分析者は日々だんだん過剰になり、虫垂はいまにも破裂しそうになり、ついにかかりつけの医者のところに行くことを決意した。被分析者が医者に痛む場所を見せたとき、医者は大声をあげて笑いながら言った。「でも、虫垂は逆側だよ。君の虫垂は右側にあるんだ、左側じゃなくてね!」 すると、痛みはすみやかに消失し、被分析者は彼の妻が間違って彼に虫垂が左側にあると教えたということを説明する義務を感じた。被分析者は検査室からばかばかしく感じながら出て行った。

 この物語のポイントは、知、特に「虫垂」「左」といった言葉に具体化された知である。その知が医者のなかで最も知識のないものですら間違いであると分かる身体の片側に心因性の症状を発症させたのだ。身体はシニフィアンで描かれている。もしあなたが虫垂は左側にあると信じていて、誰かと同一化したり、膨大な心因性の症状の羅列のうちの一部によって――これは19世紀のウィーンのように、最近でも流行しているが、最近ではさまざまに異なった形式を取る――、虫垂炎になることになれば、生物学的な器官ではなく、その器官があるとあなた自身が信じている場所が痛みだすのだ。

 フロイトの世代の分析家は、麻酔――身体の特定の部分のしびれ感、あるいは全ての感覚の欠如――の例え話をよく使った。麻酔とは身体のある部分の特定の神経終末の位置によって規制される形や形式では決してなく、むしろ、身体の一部分が、普通の会話で言われるように動き始めたり止まったりするという通俗の観念とまったく同じである。それゆえに、一つの同じ神経が一人の人間の腕とその下の指の先まで通っているために、明確な生理学上の理由なしに、腕のある一点ではまったく何も感じず、別の一点では鋭い痛み(偽神経痛)を感じるということがあるだろう。こんなことも明らかになるであろう。ある戦争のとき、ある人の父親が腕のまさにその点に銃弾を受けた。私たちはこんな風に完璧に想像してみることができる。子供のとき、その人は自分の父親がどちら側の腕に銃弾を受けたかを間違って教えられ、自分の腕に感覚の欠如あるいは鋭い痛みを生じている。もちろん、その腕は間違った側の腕なのだ!

 このような奇談は、身体がシニフィアンで描かれていて、このように他者的、つまり《他者》であるという考えを例証している。ベルクソンの表現を借りれば、「ランガージュは生命を覆っている」。身体はランガージュによって上書きされ、覆われているのだ。

 フロイトはどのようにしてひねくれた子供のリビドーが、社会化とトイレ・トレーニングを通じて、つまり子供の両親あるいは両親的な形象によって子供に基づいて作られ言語的に表現された要求を通じて、徐々に特定の性感帯――口腔、肛門、性器――へと水路を開いていくかを示してくれた。子供の身体は徐々にこれらの要求に従属させられる(おそらく完全に従属させられるというわけではないが、それに反抗するやいなや、それの重要性が実証されることとなる)。そして、身体の他の部位は社会的に/両親によって決定された意味を担うのだ。身体は征服されている、つまり、「文字が身体を殺す」*16のだ。「生きている存在者(le vivant)」――私たちの動物的性質――は死に、ランガージュがその場所にやってきて生き延び、私たちを生かすのだ。身体は、言ってみれば、シニフィアンに道をゆずった生理学のように書き直される。私たちの身体的喜びはすべて《他者》への関係を暗示し、《他者》への関係を伴う。

 私たちの性的な喜びもまたこのようにして《他者》に親密に結びついている。これは、他の「特定の個人の集合」に必ず結びついているということではない。なぜなら、他の人々、あるいは彼らの幻想やシナリオなどの末梢的な支え、あるいは彼らを虜にする特定の身体の形式の肉体的具現化と大差ないような他の人々〔=倒錯的な対象によく似ている現実の人々〕と親密な関係を気づくことができないと感じている人は多くいるからである。私たちが身体の形式、シナリオ、幻想について語るときは常に言語学的に構成された諸要素について語っている。それらは人の心の中のイメージの形式で現れるが、それらは少なくとも一部分はシニフィアンによって秩序立てられており、そのために何かを意味したり、意味を持ったりすることが可能になるのである(後の章で、なぜイメージと想像界が、普通、話す存在のなかにある象徴界から独立して機能することがめったにないのかを詳述する)。

 私たちの幻想は、私たちにとって他者的になりうる。なぜなら幻想は、接線的、漸近的にのみ私たち自身のものであるランガージュによって構造化されているため、あるいは、そもそも最初から誰か他の人の幻想であったかもしれないからである。父親や母親のものであった幻想を持っていることを知っているが、どのようにしてその幻想が自分の頭のなかで動き回るようになったのかすら分からないという人も実際にいるのだ。自分の幻想さえ自分自身のものであるかどうか分からない、これは人々が最も疎外されていると思うことの一つである。

 幻想は必ず自分自身の行動なしに自分の頭のなかに登場してくる、と主張しようとしているわけではない。主体的な関与のない、言い換えれば、何らかの形で巻き込まれた主体ぬきの、何らかの形で片棒を担ぐ主体ぬきの症状や幻想と言ったものは存在しないように思える。自分の症状の「選択」において自分自身が担った役目を理解させる点へと被分析者を連れて行くことは一つの偉業であり、そして、分析以前の特定の症状や幻想にどんなものであれ主体的な関与がないかのように思えることが実際にある。つまり、主観的解釈化subjectificationは事実の後にのみ生み出されるものであるのだ。この難問については第5章と第6章で詳細に扱う。

 もう既に様々な可能な主体の位置*17を区別し始めている方もいるだろう。様々な臨床的構造(神経症、精神病、倒錯)と、その下位区分(例えば、神経症のなかのヒステリー、強迫、恐怖症)、そしてそれらが《他者》への異なった関係を基にしているということを。実際、ラカンの初期の仕事においては、主体は本質的に象徴秩序への関係であり、つまりランガージュあるいは法としての《他者》について個人が身に付けた立場である。しかし、《他者》についてラカンが詳述していくにつれ、《他者》は多くの顔を持ち、多くの役割の権化になっていく。

  1. ランガージュとしての《他者》(言い換えれば、全てのシニフィアンの集積)
  2. 要求としての《他者》
  3. 欲望としての《他者》(対象a)
  4. 享楽としての《他者》

 要求、欲望、享楽については本書の第2部、第3部でも詳細には取り上げないため、シェーマ化は今のところ行わないのが最善であろう*18。《他者》のほかの様相は、完全に分割して関連付けられずに扱われるべきではないが、その詳述はこの段階で取り扱うには複雑すぎるのである。

 では、無意識のなかのランガージュの機能の調査に戻ろう。

*1:フランス語の「discurs」は普通のフランス語会話では英語の「discourse」にはない意味を持つ。「Ca c’est ton discours」とフランス人は言う。これは、それは出来事のあなたの側面です、何か起きたことに対するあなたの評価です、という意味である。「Son discours a lui, c’est qu’elle ne l’aime pas assez」は、彼が言うには彼女は十分に彼のことを愛していない、となる。(中略)フランス語のdiscourはもちろん英語の「discourse」のようにもっとアカデミックで哲学的な意味も持っている。ディスクールの様々な形式に関する詳細な議論は第9章を見よ。

*2:自我の語りと《他者》についてはこの後で詳述する。

*3:このフレーズはラカンの著作の中で何度も繰り返される。例えば、『エクリ』E312を見よ。

*4:あるいは「無意識の思考」。例えば、SE V,pp.486,493,613を見よ。

*5:例えば、『盗まれたポーThe Purloined Poe』,edited by John Muller and William Richardson(Batlimore:Johns Hopkins University Press)を見よ。

*6:《他者》の基本的不完全性――つまり、欠如というその究極的性質――といくつかのラカンの決定的な概念に浸透している論理については、第3章と第8章において詳細に扱う。

*7:第2セミネールにおけるラカンの様々な定式化を見よ。「私は一人の他者である」(p.9)、「自我は一つの対象である」(p.44)。また、「私は一人の他者である」は、『エクリ』のE118にも見つけられる。この一文の多用な含みについては後に扱う。

*8:このことはフロイトのVorstellungsrepräsentanzenに関するすべてのラカンの記述に暗示されている。例えば、『エクリ』E714、セミネールXI,pp-216-22。

*9:この用語に関する詳細な議論は第2章、第4章、第5章で行った。

*10: 例えば、セミネールVII,p.61を見よ。

*11:フロイトの用語はunterdrücktであり、字義的には抑制される、鎮圧される、鎮める、抑止する、食い止める、などである。セミネールXI,p.219、セミネールIII,p.57、を見よ。そこでラカンはこれを「下に落ちるchû en dessous」と訳している。

*12:例えば、セミネールXI,p.149,203を見よ。

*13:参照:フロイトの父によって言われた言葉「この子は何にもなりゃしないよ」(『夢判断』SE IV,p.216)

*14:セミネールII,pp.175-205、『エクリ』E41-E61を見よ

*15:ラカンが『盗まれた手紙』に言及して言おうとしているのは、本質的に、聞かれることが予期されなかった人に聞かれ、会話が盗まれること、あるいは見られることを予期していなかった人にある風景が見られることであり、それは消えることなくその人の記憶に刻み込まれる。そのような手紙=文字を「読む」ことは不可能であり、被分析者はそれを分析へと持ち込む。『盗まれたポー』,p.49を見よ。

*16:『盗まれたポー』,p.38を見よ。

*17:「主体の位置 position de sujet」という表現は「科学と真理」(『エクリ』、E856)にも見受けられる。

*18:ラカン派の診断カテゴリーと診断基準に興味をもたれた方は、私の『臨床ラカン派精神分析入門 A Clinical Introduction to Lacanian Psychoanalysis』(Cambridge: Harvard University Press, 1996)、そしてジャック‐アラン・ミレールの「ラカンの臨床的パースペクティヴの紹介 An Introduction to Lacan’s Clinical Perspectives」(『セミネールIとIIを読む:ラカンのフロイトへの回帰 Reading Seminar I&II: Lacan’s Return to Freud』edited by Bruce Fink, Richard Feldstein, and Maire Jaanus(Albany: SUNY Press, 1995)所収)を見られたい。現在の研究において、私は様々な臨床的構造を体系的に配置しようとはしていない。ラカンがどのようにして神経症と精神病を区別し(第5章)、強迫とヒステリーを区別したか(第7章)については簡潔に記した。