à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

無意識における文字の審級、あるいはフロイト以降の理性(断片)

E493-E528
L'instance de la lettre dans l'inconscient ou la raison depuis Freud



E495

1 文字の意味

 われわれの表題が言おうとしているのはこういうことです。すなわち、このパロールの向こうに、精神分析の経験が無意識のなかに発見するのは、ランガージュの全体的構造である、と。こう主張するのは、「無意識とは本能の所在地に過ぎない」という考えは考え直さなければならならない、というところから始めて、偏見的な知性について警告するためです。
 しかし、このような文字というものをここで取り上げるにしても、それはどうやって取り上げなくてはならないでしょう。それは、ただ単に、文字通りにa la lettreです。
 われわれが文字によって示すのは、具体的なディスクールが、ランガージュから借りている物質的な支えです。
 この簡単な定義は、ランガージュは話す主体のなかで言語を提供する様々な身体的・精神的機能とは混同されない、という仮定の上に成り立っています。
 このことは、構造をそなえたランガージュは、主体が精神発達のある地点において、ランガージュに入る以前から存在しているという根本的な理由によっています。
 これらの〔ランガージュの〕機能を提供する脳システムの精神的中枢の純然たる解剖学的損傷によって、失語症が引き起こされますが、それらの機能は、全体として意味作用の創生において、私がここで「文字」とよんでいるものの意味の効果の二つの側面のあいだに配分されることが証明されています。また、これは以下の議論でも明らかになることです。
 主体は、ランガージュの奴隷のように見えることもありうるでしょうが、実はそれ以上に、彼の場所が彼の生誕時からすでに書き込まれているディスクールの奴隷なのです。それが彼の固有名詞という形に過ぎないにせよ、そういうことです。
E496
 このディスクールの実体としての共同体の経験に準拠することは、何も解決いたしません。というのも、ここでいう経験は、このディスクールによって設立された伝統の中に、その本質的な次元を持っているからです。しかも、この伝統は、歴史のドラマがそこに記入されるずっと以前から、文化の基本的な諸構造を基礎づけているのです。そして、これらの構造そのものが、交換の秩序づけを明らかにしてくれます。この交換はたとえ無意識的なものであっても、言語が統括する順列並べ替えの外では想像することもできません。
 そこで、こういう結果になります。自然と文化という民族誌学における二重性に変わって、人間の条件の――自然、社会、文化という――三次元的な考え方が今では登場しつつあり、最後の文化という項目はランガージュ(つまり、人間社会をさまざまの自然社会から本質的に区別するもの)に帰着させることができます。


(……)

E497
 われわれについて言えば、すでに価値が証明されているいくつかの前提のみに信をおいています。このことによって、ランガージュは科学的対象の経験の状態に達することが許されるのです。
 このことは、言語学がこの領域のなかで先駆的な位置を占めることを許します。この領域の周辺では諸科学の再区分化、つまり「知の革命」が告げられています。つまり、コミュニケーションの必要性のみが、この領野の背後に隠されているかもしれない混乱にもかかわらず、われわれに、この領野を「人間の科学」と呼ばせるのです。「人間の科学」、これは、「La Psychanalyse」の今号のテーマです。
 言語学という学問の出現を正確に示そうとすると、現代的な意味におけるあらゆる学問の例と同じように、その学問を基礎づけるひとつの式の成立したときにあると言えるでしょう。その式とはこれです。


S/s


 この式はこう読まれます――シニフィアンシニフィエの上に(sur)あり、「上にsur」は、二つのレベルを分割している横線に対応している。
 このように書かれた記号は、フェルディナン・ド・ソシュールをその作者とすべきものです。1906-07、1908-09、1910-11の三学年に行われた講義の印刷物のなかでその式を表している数多くのシェーマのどれにおいても、厳密にこの式がこの形(S/s)に帰着させられることはありませんが、ソシュールをその作者とすべきなのです。これらの講義は、彼の忠実な弟子たちのグループによって、『一般言語学講義』の表題のもとにまとめられたのです。この著作は、教育という名にふさわしい物を伝達しているという点で、最も重要な著作です。すなわち、人はこの著作そのものの運動のみに立ち止まることができるのです。
こういうわけで、人がS/sという公式化をソシュールに献呈するのは当然のことですし、この(S/sという)公式化によって、言語学には様々な学派の多様性があるにもかかわらず、言語学の現在の段階が特徴づけられています。
 この科学の主要なテーマは、このようにして、事実上、意味作用に抵抗するバリアによって初めに分離された、別々の秩序としてのシニフィアンシニフィエの原初的な位置に基礎づけられます。
 このことが、シニフィアンに特有の結合関係と、シニフィエの生成におけるシニフィアンの結合機能の重要性についての正確な研究を可能にします。
 というのも、この原初的な区分は、古代における反省このかた練り上げられているような、記号(シーニュ)の恣意性に関する議論のはるかかなたへ進んでいるからです。また、この区分は、さらには名指しの行為においてはなおさらですが、語と物のあいだの一対一対応に対立する当時から気づかれていた袋小路のはるかかなたに進んでいるのです。しかも、このことは、口のきけないinfans時期の人間が母国語を習得するさいの、あるいは外国語学習のためのいわゆる実際的な学問的方法を用いるにあたって、対象を指でさししめすことに不当に負わされている役目によって示唆される外見とはまったく逆なのです。
E498
 このやり方でいきますと、他の意味作用に返送されずに維持されるような意味作用は一つも存在しない、ということを証明するより先には物事は進めないことになります。つまり、極端に言えばこうなります。シニフィエの領野をカバーする能力があるのかどうかが問題にされるような言語は実在しない。言語として実在するということの効果は、そこにある全ての欲求besoinsに答えるということなのですから。言語における対象の構成を理解してみようとすれば、この構成は概念のなかにのみ――これはどんな唯名論者とも非常に異なっています――見つけることができるということに気がつかざるをえないでしょう。そして、物は非常に明瞭に名詞に還元されたとき、二重のものになり、