à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

『人格との関係からみたパラノイア性精神病』を読む際に注意すべきこと――signification personnelleとは何か

 前回は,Lacanの学位論文『人格との関係からみたパラノイア性精神病』から『精神病』にまで出てくる「要素現象(phénomènes élémentaires)」という概念が,元来はJaspersのものであることを紹介した.
 Lacanの学位論文の中では,この用語は「要素的」の他に,「基本的」「元素的」などと様々に訳されており,訳語の統一が図られていない.その結果,それぞれの語がphénomènes élémentairesという一つの概念を指していることが分かりにくくなっているので注意が必要である.

 その他にも,書かれた時代背景のために,現代の私たちの慣れ親しんでいるドイツ語圏中心の精神病理学とは用語法が異なっていることも多々あり,読む際の障害になると思われる.フロイト郵便さんのこの記事では,paranoideとdissociéという語の意味が解説されているのでぜひとも参照されたい.
 なお,dissociéはもともとフランス語圏では統合失調症のプロツェスによる現象をさしていたと聞く.Bottéro, A.のこの論文が参考になるだろう.ヒステリー性の妄想と精神病性の妄想の違いを論じたMaleval, J.C.の有名な論文に「Le délire hystérique n'est pas un délire dissocié」というのがあるが,これは確かに「ヒステリー性妄想は分裂病性妄想ではない」と訳さないと意味が伝わらない.


 さて,学位論文に出てくる精神医学用語(のLacanによる仏語訳)で,もっとも意味がわかりにくいと思われる用語は,おそらく「signification personnelle」であると思われる.
 この用語は,邦訳では仏語からの直訳で「個人的意味作用」「個人的意味づけ」と訳されているが,元々はドイツ(現ポーランド?)の精神医学者Clemens Neisserの「krankhafte Eigenbeziehung」という用語をLacanが仏訳したものである.
 krankhafte Eigenbeziehungとは,直訳すれば「病的な自己関係付け」である.Neisserは,パラノイアの発病の最初にあらわれる現象として,彼が「病的な自己関係付け」と名付けるものに注目した.これはつまり,知覚したものが何か自分に関係あると直観的に理解するがその意味がまだはっきりと分からないことであり,いわゆる妄想知覚の第二段階(自己関連づけはあるが特定の具体的意味を欠く意味意識:Huber, G., Gross, G.)に相当するものと思われる.Neisserは病的な自己関係付けをパラノイアの根源的な症状として捉えている.
 Lacan派の見解から見れば,krankhafte Eigenbeziehungはおそらく連鎖から切り離されたシニフィアンが突出してきて,主体を指し示すという事態と考えられるだろう.このシニフィアンは,主体と関係があるが,その意味作用はまだ不明である.妄想はこのような無意味のシニフィアンによる「指し示し体験」から始まり,妄想体系へと結実するのである.傍証として,Millerが以下のように述べていることを引用しておこう.

精神病者は,その病的な自己関係付け[signification personnelle]を伴なった謎のシニフィアンを体験する:「これは何かを意味している.私にはなぜだか分からないが,これは私に関係している」 そして,ある機会にこれが結晶化し始める.
(Miller, J.A. L'invention psychotique. Quatro 80/81)

 なお,この用語は『人格との関係から見たパラノイア精神病』では,邦訳p.129, 131, 308に登場するが,p.129の例は「krankhafte Eigenbeziehung」という語の含みを理解しなければ,おそらく理解できない.

〔被害妄想が寛解して,病的な自己関係付けの段階へと立ち戻った患者について〕
(原文)ou l'elaboration intellectuelle se reduit a la perception d'une signification personnelle impossible a preciser.
(邦訳)ここでは知的な加工がはっきりさせることのできない個人的意味付けの知覚へと化してしまっている.
(試訳)ここでは知的な加工が,その意味をはっきりとさせることの不可能な病的な自己関係付けの知覚へと還元されている.

 ちなみに,Googleでkrankhafte Eigenbeziehungを検索すると,見事にLacan派のページがズラッと並んでおり,Neisserの業績はドイツ精神病理学ではほとんど忘れ去られたものの,Lacan派のサークルのなかで密かに生き延びていることが分かる.
 なお,この概念についてはSauvagnat, Fの論文*1が最良の解説である.彼はNeisserの論文を仏訳してもいる.


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*1:Sauvagnat F. :Histoire des phenomenes elementaires. A propos de la signification personnelle . Ornicar ? 1988 ; 44 : 19-27